22
リリアとルシアンがセレナの病室へ戻ると、一人の青年がベッドの傍らに立っていた。
陽光を思わせる金色の髪。
彼は幾重もの結界の内側へ立ち入り、眠るセレナを静かに見下ろしている。
その後ろ姿を見た瞬間、リリアは僅かに目を見開いた。
一方、ルシアンは声を荒げる。
「お前! そこで何をしている!」
ルシアンは青年へ駆け寄ろうとした。
しかし、その前へリリアが静かに腕を伸ばし、進路を塞ぐ。
「何で止める!」
ルシアンが睨み付ける。
だが、リリアは青年から一瞬たりとも視線を逸らさなかった。
「……精霊王だな」
静かな問い掛け。
青年はようやく振り返った。
その瞳は人とは思えぬほど澄み渡り、神秘的な輝きを宿している。
「来たか」
青年は穏やかに口を開く。
「龍神に選ばれし娘よ」
その声が響いた瞬間。
部屋の空気が一変した。
圧倒的な神威。
そこに立っているだけで膝を折りたくなるほどの威圧感が部屋を支配する。
ルシアンは抗うことすらできず、自然と片膝をついていた。
「……精霊王とは存じ上げず、大変失礼いたしました」
精霊王はルシアンへ視線を向ける。
「……お主は」
僅かに首を傾げた。
「神の子の親戚か?」
その一言に、リリアとルシアンは揃って眉をひそめる。
神の子。
二人とも、その呼び名に覚えはなかった。
「龍神から何も聞いておらぬのか」
その言葉が落ちた瞬間だった。
リリアの胸の奥で、何かが目を覚ます。
熱でも冷気でもない。
圧倒的な存在感が身体の内側から溢れ出す。
黒い光がリリアの足元から立ち昇り、空間そのものを震わせた。
やがて、その光は一人の青年の姿を形作る。
腰まで流れる漆黒の長髪。
深淵を思わせる蒼い双眸。
人ならざる神々しい威容を纏った青年が、リリアの隣へ静かに降り立った。
龍神だった。
青年は精霊王を見据え、小さく口元を緩める。
「……久しいな、精霊王」
「お主が契約者を選ぶのは、実に三百年ぶりか」
「貴様とこうして相まみえるのは千年ぶりだ」
精霊王と龍神は、旧知の間柄らしく言葉を交わした。
しかし、その表情に再会を喜ぶ色はない。
互いに視線を交わすだけで、空気には張り詰めた緊張感が漂っていた。
アウレリア家では代々、精霊王あるいは龍神と契約を結んだ者が当主となる資格を得る。
それは長子や末子、男女の別を問わない。
無論、誰もが契約できるわけではなく、一人も契約者が現れない代もあった。
だが、精霊王と龍神が同じ時代に契約者を選ぶことは一度もなかった。
両神と契約を結んだ者は、約千年前にアウレリア家を興した初代当主、ただ一人。
リリアとセレナの母も契約者ではあったが、契約したのは精霊王のみだった。
精霊王が契約者を選べば、その代で龍神が契約者を選ぶことはない。
逆に、龍神が契約者を選んだ代では、精霊王が契約者を選ぶこともなかった。
それが千年もの間、一度たりとも崩れることのなかった不文律である。
「お主は我を避けているようだったからな。同じ時代に契約者を選ぶとは思わなかった」
精霊王は薄く笑みを浮かべ、皮肉を交えて言った。
「私を避けていたのは貴様だろう」
龍神は鼻で笑う。
「リリアほどの逸材は滅多に現れぬ。貴様など露ほども気にしたことはない」
一歩も引かず、さらに言い放つ。
「自惚れも甚だしい」
両者の間に、張り詰めた空気が流れる。
その場を支配する神威に、ルシアンは息を呑んだ。
一歩たりとも踏み出せない。
神同士の間へ割って入れる者など、この世に存在しない――そう思った、その時だった。
「二人とも、セレナの前で争うのはやめろ」
静まり返った部屋に、リリアの声が響く。
ルシアンは思わず目を見開いた。
「精霊王」
リリアは真っ直ぐに精霊王を見据える。
「貴方がセレナを救ってくれたことには感謝している」
一度言葉を区切り、続けた。
「だが、守護神でありながら、何故セレナが生死を彷徨う事態になったのか。その説明は願おうか」
物怖じする様子は微塵もない。
神であろうと相手は相手。
リリアの態度は、相手の立場によって変わることはなかった。
その堂々たる姿に、精霊王ですら僅かに目を見張る。
「お、おい、リリア! 精霊王に向かって何て口の利き方だ!」
ルシアンが慌てて声を上げる。
その隣では、
「……くっ」
龍神が口元へ手を添え、笑いを堪えていた。
その姿を見た精霊王は、今度こそ驚きを隠せなかった。
龍神が笑うなど、千年の付き合いの中でも数えるほどしか見たことがない。
「なるほど」
精霊王は静かに呟く。
「確かに、お主好みの気骨ある異端児といった娘だ」
そう言ってリリアへ視線を向ける。
「この俺に、そのような態度を取る人間は初めてだ」
精霊王の声音に怒気はない。
だが、その一言だけで空気が重くなるほどの威厳があった。
それでもリリアは、一歩も引かない。
精霊王の視線を、真正面から受け止めていた。
「まず、セレナを被害に遭う前に守れなかったのは事実だ」
精霊王は静かに口を開いた。
「その責は、俺の落ち度として受け止めてもらって構わない」
そう言うと、精霊王は結界の外へ歩み寄る。
幾重にも張られた結界は彼を拒むことなく、薄い帳をくぐり抜けるようにその身体を通した。
ゆっくりとリリアたちの前まで歩みを進める。
「俺はセレナの頼みを受け、全ての魔力を注ぎ込み、国内外を問わず君たちの叔父を捜していた」
その声音に言い訳はない。
「セレナの傍には常に精霊を付き従わせ、逐一報告を受けていた。だが、馬車が爆破される直前まで危険を察知できなかった」
精霊王は淡々と事実だけを語る。
「君たちの母だけでなく、セレナまで守れなかった」
一拍置き、静かに頭を下げた。
「……すまない」
その謝罪に、リリアは僅かに目を見開いた。
彼女は謝罪を求めていたわけではない。
知りたかったのは、契約者を護るはずの守護神が、なぜセレナを守れなかったのか。その経緯だけだった。
まさか精霊王自ら非を認め、頭を下げるとは思ってもいなかった。
「先ほども言った」
リリアは静かに口を開く。
「セレナを救ってくれたことには感謝している」
その紅い瞳は真っ直ぐ精霊王を見据えていた。
「貴方がいなければ、セレナは死んでいた」
だからこそ――。
「私は、セレナに何一つしてやれなかった」
その言葉には、自責の念が滲んでいた。
「貴方を責める資格など、私にはない」
リリアは凛とした声音で言い切った。
精霊王はリリアの奥底にある苦悩を感じ取っていた。
表面上は誰よりも自立し、何者にも屈しない強さを見せている。
しかし、その胸の内には消えることのない後悔と自責が巣食っていた。
彼女を繋ぎ止めているのは、ただ一人。
セレナという存在だけだ。
その存在が良心の楔となり、同時に彼女の心を支えている。
強者でありながら、どこか脆い。
だからこそ――。
「この時代、先にセレナと契約を結んだのは俺だ」
精霊王は静かに龍神を一瞥した。
「それでも、お主が構わず契約を結んだ理由が分かった気がする」
セレナは揺るぎない意志を持つ娘だった。
どれほど苦しもうと、自ら信じた道を外れることはない。
だが、リリアは違う。
誰よりも強く、それでいて誰よりも大切な者を失うことを恐れている。
一度その楔が外れれば、理性も倫理も容易く踏み越えてしまう危うさがあった。
善にも悪にも染まる。
それでも、彼女には彼女だけの譲れない筋がある。
まるで世界そのものを小さな器へ凝縮したような娘。
龍神が興味を抱くのも無理はない。
「娘」
精霊王は静かに問い掛ける。
「これから、どうするつもりだ」
「セレナを陥れた者を見つけ、落とし前をつける」
リリアは迷いなく答えた。
「そして、セレナが目覚めない原因となった裏切り者には、同じ……いや、それ以上の絶望を味わわせる」
その決意を確かめるように、精霊王は静かに指を鳴らした。
淡い光が集まり、一冊の日記帳が空中に現れる。
精霊王はそれを手に取り、リリアの前へ差し出した。
「これは、セレナの日記だ」
リリアが受け取ろうと手を伸ばす。
だが、精霊王は手を離さない。
「……これを見る覚悟はあるか」
思いも寄らぬ問いに、リリアは眉を寄せた。
「セレナは、お主に道を踏み外してほしくないと願っている」
精霊王は静かに語る。
「俺は、あの娘が冷遇され続けた人生をずっと見てきた」
その声音には深い悔恨が滲んでいた。
「何度も手を貸そうとした。だが、その度にセレナは俺へ命じた」
――何もしないでください、と。
「だから俺は、あの娘が苦しめられても見守ることしかできなかった」
契約者の願いを守ること。
それが守護神としての務めだった。
しかし。
「……それでも」
精霊王は僅かに目を伏せる。
「本音を言えば、お主にセレナの仇を討ってほしいと思っている」
それは守護神としてではなく、一人の存在としての願いだった。
「安心しろ」
リリアは真っ直ぐ精霊王を見返す。
「セレナが悲しむようなことはしない」
一切の迷いなく言い切る。
「セレナを苦しめた者たちに、支払うべき代償を払わせるだけだ」
その言葉を聞いた精霊王は、静かに微笑んだ。
セレナとは対照的な娘。
だが、その瞳の奥には、アウレリア家が千年守り続けてきた誇りが確かに宿っていた。
「……託そう」
精霊王は静かに日記帳から手を離す。
セレナの想いが綴られた一冊は、リリアの手へと渡った。




