19
リリア、ノア、ルシアンの三人は人混みを抜け、目的の場所へと向かった。
精神世界で精霊王から教えられたのは、セレナが保護されている場所だけではない。
彼女へ辿り着くための手段もまた、託されていた。
セレナは現在、ラグナール侯爵の保護下にある。
しかし、公爵家に匹敵する名門侯爵家へ正面から赴けば、人目を集めることは避けられない。
そこで三人が訪れたのは、城下町の一角に建つ小さなポーション店だった。
店構えは質素そのもの。
棚にはありふれた回復薬や解毒薬が並び、どこにでもある町の薬屋にしか見えない。
店内には、ふくよかな店主が一人。
そして、商品の棚を静かに眺めるフード付きの黒いマント姿の客が一人いた。
「いらっしゃいませ。何をお探しでしょう」
店主が穏やかな笑みを浮かべて声を掛ける。
リリアは迷うことなく答えた。
「店主。アーセンを知っているか」
――アーセン。
それは合言葉であり、『SERENA』の文字を並べ替えた『ARSENE』。限られた者だけが知る隠し名だった。
一瞬だけ。
店主の目が細められた。
「……ああ」
何事もなかったように微笑み直す。
「知っていますとも」
店内を一瞥し、周囲に聞き耳を立てる者がいないことを確認すると、小さく頷いた。
「ここでは話せません。奥へどうぞ」
店主はカウンター脇の扉を開き、三人を店の奥へ案内する。
「すぐに参りますので、中でお待ちください」
三人が部屋へ入ると、店主は静かに扉を閉め、何事もなかったように店番へ戻っていった。
奥は生活スペースを兼ねた質素な居室だった。
外見だけなら、ごく普通の店と変わらない。
三人は椅子へ腰を下ろし、静かに待つ。
数分後。
扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは――先ほど店内で商品を眺めていた、あの黒いマントの人物だった。
「お待たせいたしました」
黒いマントの人物は部屋へ入ると、ゆっくりとフードを下ろした。
現れたのは、一人の青年。
年齢はリリアやルシアンと大差ない。
整った顔立ちに、貴族らしい気品を纏っている。
「私が尾行されている可能性もありましたので、時間を置かせていただきました」
「あんたが案内人か」
リリアは前置きを嫌うように本題を切り出した。
一瞬だけ青年は目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「申し遅れました」
胸へ手を当て、一礼する。
「アルヴィン・ラグナールと申します。ガイアス、それにヴィクトルから、リリア嬢のお話はかねがね伺っております」
穏やかな笑みを向ける。
「……想像どおりのお方ですね」
「ラグナール侯爵家嫡男か」
リリアは静かに呟いた。
「ガイアスから聞いている」
一歩前へ出る。
「学院でセレナを陰ながら支えてくれていたこと、そして彼女を保護してくれたこと――心から感謝する」
そう言って、迷いなく深々と頭を下げた。
部屋の空気が止まる。
「……え?」
ルシアンは目を丸くした。
ノアも珍しく僅かに目を見開く。
そして、最も驚いていたのはアルヴィン本人だった。
「ど、どうしたんだ、お前……」
ルシアンは思わず額へ手を伸ばす。
「熱でもあるのか?」
「ルシアン皇子」
ノアは苦笑しながら肩を竦めた。
「彼女も人の子ですよ」
柔らかく笑う。
「普段の態度だけで判断してはいけません」
もっとも、その慰め方自体が十分失礼なのだが。
アルヴィンは静かにリリアを見つめていた。
ガイアスやヴィクトルから聞いていた彼女は、豪胆で傲岸不遜な人物だった。
誰にも頭を下げず、誰にも媚びない。
そんな女性を想像していた。
しかし、目の前の彼女は違う。
恩を受けた相手には、何の躊躇いもなく礼を尽くす。
(……なるほど)
アルヴィンは小さく微笑む。
(双子とは、こういうことを言うのか)
その姿は、不思議とセレナによく似ていた。
「早速だが、セレナに会わせてくれ」
リリアは間髪入れずに切り出した。
「ええ、もちろんです」
アルヴィンは頷くと、部屋の隅に歩み寄り、床板を静かに持ち上げた。
その下にはぽっかりと空洞が広がり、石造りの階段が地下へと続いている。
地下道だ。
王都の地下には、このような秘密の通路がいくつも存在する。
一般には一切知られていないが、有事の際に王侯貴族が脱出するために築かれたものであり、侵入者に利用されぬよう、内部は迷路のように複雑な構造となっていた。
「私について来てください」
そう言ってアルヴィンは先に地下へ降りる。
リリアたち三人も後に続いた。
ランプの淡い灯りだけが、薄暗い地下道を照らしている。
足音だけが静寂の中に響き渡った。
どれほど歩いただろうか。
緩やかな上り坂が続き、その距離は並の貴族であれば途中で音を上げても不思議ではない。
だが、誰一人として弱音を吐く者はいなかった。
やがて坂を登り切ると、一枚の重厚な木扉が姿を現す。
アルヴィンがゆっくりと扉を押し開けると、柔らかな灯りが地下道へと流れ込んだ。
「着きました」
その先にあったのは、研究室と思しき部屋だった。
壁一面には薬品棚が並び、色とりどりの薬液が入った瓶や見慣れない魔物の標本、ホルマリン漬けにされた魔獣の臓器などが所狭しと並べられている。
鼻をくすぐる薬品の匂いが、この場所が研究施設であることを物語っていた。
狭い通路を抜け、さらに奥の扉を開ける。
その先には、天井の高い広い廊下が続いていた。
「ここは魔法局です」
アルヴィンは歩みを止めることなく説明する。
「魔法局は、王国中の魔法研究を統括する最高機関です。新たな魔法や魔道具の開発、古代魔法の解析、魔獣素材の研究まで、その役目は多岐にわたります」
魔法局には日夜、多くの研究員や魔導師が出入りしている。
爆発音が響くことも、得体の知れない薬品の臭いが漂うことも珍しくない。
「研究棟は関係者以外立ち入り禁止です。そのため、人目を避けるにはこれ以上ない場所でもあります」
アルヴィンは僅かに微笑んだ。
「ラグナール侯爵家は代々この魔法局を統括してきました。局内には我が家しか知らない秘匿区画や地下通路も存在します。セレナ嬢には、こちらで療養していただいております」
王宮から目と鼻の先にありながら、王家ですら把握していない抜け道。
だからこそ、誰にも知られることなくセレナを匿うことができたのである。
アルヴィンに案内された秘匿区画は、深い静寂に包まれていた。
四人の足音だけが、長い廊下に規則正しく響く。
――その時だった。
リリアの胸が、大きく脈打つ。
誰かに呼ばれているような。
見えない糸で引き寄せられているような。
そして――自分の半身を見つけたような、不思議な感覚。
「……セレナ!」
気付けば、リリアは駆け出していた。
廊下には幾つもの部屋が並んでいる。
どの部屋にセレナがいるのか、アルヴィンはまだ教えていない。
それでも、迷いはなかった。
胸の奥から湧き上がる感覚が、ただ一つの場所を示していた。
後ろでは、ノア、ルシアン、アルヴィンも慌てて追い掛ける。
リリアは一室の前で足を止めると、躊躇なく扉を開いた。
「どうして、その部屋だと……」
アルヴィンは目を見開いた。
リリアが開けた部屋は、まさしくセレナが眠る部屋だった。
部屋にいた者たちの姿など目にも入らない。
リリアの視線は、中央のベッドで静かに眠る少女だけを映していた。
「セレナ……」
震える声が漏れる。
「やっと会えた……私の、たった一人の姉妹……」
ベッドの周囲には幾重もの魔法陣が展開され、強固な結界が張られていた。
外敵から守るため。
そして、自力で食事を摂れない彼女の命を繋ぎ止めるため。
セレナは、まるで穏やかな昼寝をしているかのように眠っていた。
この六年間。
セレナを思わなかった日は、一日たりともない。
自分を逃がすため、一人屋敷へ残った姉。
アウレリア家を守るため、公爵家でたった一人戦い続けた姉。
何度、迎えに戻ろうと思ったことか。
何度、この手で連れ出そうと思ったことか。
だが、セレナはそれを望まない。
リリアが自由に生きること。
ただ、それだけを願って送り出してくれたのだから。
冷たく澄んだ赤い瞳が、小さく揺れる。
リリアは俯き、何度か小さく首を振った。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その表情は、必死に涙を堪える幼い子どものようだった。
「……泣かないよ、セレナ」
震える声で、小さく呟く。
その姿に、ルシアンは言葉を失う。
ノアもまた、初めて見るリリアの一面に静かに目を細めていた。
誰よりも冷徹で、誰よりも強い少女。
そんな彼女にも、こんな顔があったのか――。
リリアは結界越しに眠るセレナを真っ直ぐ見つめる。
「私が……貴方を苦しめるすべてから解放してあげる」
その声に迷いはなかった。
「まずは――」
一拍置き、瞳から最後の迷いが消える。
「貴方を傷つけたすべての者へ、絶望を教えてやる」
その声音に怒りはない。
あるのは、揺るぎない決意だけだった。




