17
少年は革袋を胸に抱え、再び母のための牛乳を買おうと駆け出していった。
「ちょっと! わたくしはまだ許していませんわよ!」
甲高い声が響く。
少年とぶつかった女は、逃げる少年を呼び止めようと手を伸ばした。
だが、その前へ一人の影が静かに立ちはだかる。
リリアだった。
少年の姿を隠すように道を塞ぎ、女を冷たく見据える。
「貴方ね……」
女は忌々しそうにリリアを睨みつけた。
「よくも勝手に罪人を逃がしてくださいましたわね」
服の弁償はされていない。
少年へ言いたいことも何一つ言えていない。
行き場を失った怒りは、そのままリリアへ向けられていた。
「……罪人だと?」
リリアの眉間に皺が寄る。
その声音は低く、冷え切っていた。
「ぜひ聞かせてもらいたいものだな」
一歩、女へ近付く。
「その子は、一体どんな罪を犯した?」
女は鼻で笑った。
「そんなことも分かりませんの?」
まるで常識を説く教師のような口ぶりだった。
「庶民が貴族の服を汚したのです。跪いて謝罪するのは当然の礼儀でしょう?」
女は汚れた服を摘み、不快そうに眉をひそめる。
「それなのに、わたくしの許しも得ずに逃げ出したのですから、十分罪に値しますわ」
傲然と言い放つその姿には、自らの言葉を疑う様子は微塵もなかった。
「エミリア様、遅くなり申し訳ございません」
その時だった。
店の中から、従者服に身を包んだ青年が慌てて姿を現した。
「店主に品物を屋敷まで届けるよう手配をしておりましたので、遅れてしまいました」
しかし、一歩外へ出た彼は、その場の異様な空気に足を止める。
エミリアと見知らぬ女が睨み合い、周囲には人だかりができている。
何らかの揉め事が起きていることを察した彼は、迷うことなく二人の間へ割って入った。
まるでエミリアを守る壁になるかのように。
「エミリア様、これは一体……」
「フェリクス……」
エミリアは安堵したように彼の名を呼び、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
「何でもございませんわ。ただ、わたくしが店から出た途端、少年がぶつかってきて……服に牛乳を零されてしまいましたの」
汚れた服を見せながら悲しげに俯く。
「それだけならまだしも、この方が少年を逃がしてしまって……」
そこで言葉を詰まらせる。
「言い掛かりまでつけられて……」
エミリアは震える手でフェリクスの袖を掴み、怯えるように身を寄せた。
「わたくし……怖いわ」
フェリクスは彼女を庇うように一歩前へ出る。
その姿を見た瞬間、リリアの瞳がわずかに見開かれた。
(彼は……)
記憶が蘇る。
(セレナが拾い、傍に置いていた従者……)
フェリクス。
孤児だった彼を見出し、剣術も礼儀も学ばせ、従者として育て上げたのはセレナだった。
そのフェリクスが今、何の迷いもなくエミリアを庇っている。
その光景だけで十分だった。
精神世界で精霊王が語った言葉が脳裏をよぎる。
――セレナは、信じた者たちに裏切られた。
(……そういうことか)
リリアは静かに目を細めた。
(恩まで忘れたか、フェリクス)
握り締めた拳に、爪が食い込む。
胸の奥で、怒りが静かに燃え上がっていった。
フェリクスはリリアの姿を頭の先から足元まで静かに見渡した。
「……見たところ、貴方は冒険者ですね」
「ああ」
短く頷く。
「ならば事情は理解できるでしょう。この方はアウレリア公爵家のご令嬢、エミリア様です」
フェリクスは一歩前へ出た。
「直ちに言い掛かりをつけたことを謝罪してください」
一瞬、静寂が流れる。
リリアは呆然とフェリクスを見つめ――やがて小さく笑った。
「……ハッ」
乾いた笑いだった。
「言い掛かり?」
その声には嘲りが滲む。
「私が、いつ、どんな言い掛かりをつけた?」
「この方!」
エミリアが一歩前へ出る。
「あなたは、わたくしが追及しようとした少年を逃がしたではありませんか!」
怒りに肩を震わせながらリリアを指差す。
「罪人を庇った上に、わたくしへ楯突いたのです!」
あまりにも身勝手な理屈だった。
リリアは呆れたように小さく息を吐く。
「その少年を今すぐ連れ戻してください」
フェリクスが静かに言う。
「そして貴方も、エミリア様へ謝罪を」
穏やかな口調のまま続けた。
「エミリア様はお優しい方です。自らの非を認め、誠意をもって謝罪すれば、きっとお許しくださるでしょう」
リリアは思わず笑みを漏らした。
「公爵家の人間だと言ったな」
その笑みは冷たかった。
「今の公爵家には、こんな連中しかいないのか?」
「……何だと?」
フェリクスの表情が険しく変わる。
周囲の空気も一気に張り詰めた。
「その女は前も見ずに飛び出して、自分から少年へぶつかった」
リリアは指先でエミリアを示す。
「牛乳を零された被害者は少年の方だ。それなのに弁償どころか罪人扱いとは恐れ入る」
さらに視線をフェリクスへ移す。
「そして、お前は事情も確かめず、一方の言い分だけを信じて私へ謝罪を要求した」
口元に皮肉げな笑みを浮かべる。
「これで愚かではないと言う方が無理だろう」
「なっ……!」
エミリアは怒りで顔を真っ赤に染めた。
「わたくしがアウレリア家の娘だと分かっていますの!?」
「だから何だ」
リリアの声は低く、冷え切っていた。
その紅い瞳が二人を射抜く。
底知れぬ威圧感に、その場の空気が一瞬で凍り付く。
その視線を向けられただけで、身体が竦みそうになるほどだった。
「彼女の言う通りだ!」
沈黙を破るように、一人の男が声を張り上げた。
「貴族だからって調子に乗るんじゃねぇ!」
「そうよ! 悪いのはアウレリア家の娘の方じゃない!」
「嬢ちゃん、証人が必要なら俺がなってやる!」
「私も見ていたわ! まだ五、六歳くらいの子をあんなふうに責め立てるなんて……恥ずかしくないのかしら!」
次々と民衆の声が上がる。
先ほどまで静観していた人々は、堰を切ったようにリリアの味方へ回った。
もはや、その場の空気は完全にエミリアへ逆風となっていた。
「な、何ですの……!」
エミリアは狼狽えながら声を荒らげる。
「わたくしは服を汚されたのよ!」
「ああ」
リリアは即座に返した。
「だが、お前は少年が病気の母親のために買った牛乳を零した」
静かな声だった。
しかし、その一言は鋭く胸を突き刺す。
「服はまた買えばいい」
一歩、エミリアへ近付く。
「だが、お前は少年の心を踏みにじった」
リリアがわずかに声を強める。
怒鳴ったわけではない。
それでも、その場の誰もが思わず背筋を伸ばすほどの重みが、その言葉にはあった。
「エミリア様……」
フェリクスは困惑した表情で振り返る。
「彼女たちの言っていることは……本当なのですか?」
初めて、その胸に迷いが生まれていた。
周囲の証言はあまりにも一致している。
自分は、エミリアの話だけを聞いて判断してしまったのではないか。
そんな疑念が頭をよぎる。
「わたくしは……その……」
エミリアは言葉を詰まらせる。
そして次の瞬間、大粒の涙をぽろぽろと零し始めた。
「フェリクス……」
震える声で彼の名を呼ぶ。
「貴方まで、わたくしを信じてくださらないのですね……」
潤んだ瞳を伏せ、小さく肩を震わせる。
「皆様が貴族を嫌い、わたくしを悪く仰るのは仕方ありませんわ……」
一度言葉を切り、悲しげに微笑んだ。
「ですが……」
そっとフェリクスの袖を握る。
「貴方にまで疑われるなんて……わたくし、とても悲しいですわ」
フェリクスはしばらく黙っていた。
やがて静かに目を閉じると、深く頭を下げる。
「……申し訳ありません、エミリア様。私が間違っておりました」
そう口にした瞬間、不意に一人の少女の姿が脳裏をよぎる。
――セレナ様なら。
たとえ相手が故意にぶつかってきたのだとしても、まず怪我はないかと手を差し伸べただろう。
長年仕えてきたフェリクスには、それが容易に想像できた。
学院でも、領地でも。
セレナは身分で人を見下すような人ではなかった。
だからこそ、多くの者が彼女を慕っていた。
――だが。
フェリクスは心の中で、その考えを打ち消す。
(それでも……セレナ様は、エミリア様だけには厳しかった)
屋敷では義妹を受け入れようともせず、冷たい態度を取り続けていた。
もしエミリアを家族として受け入れ、他の人々と同じように接してさえいれば――。
こんなことにはならなかったのではないか。
フェリクスは、そう自分に言い聞かせるように思考を閉ざした。




