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 少年は革袋を胸に抱え、再び母のための牛乳を買おうと駆け出していった。


「ちょっと! わたくしはまだ許していませんわよ!」


 甲高い声が響く。

 少年とぶつかった女は、逃げる少年を呼び止めようと手を伸ばした。

 だが、その前へ一人の影が静かに立ちはだかる。

 リリアだった。

 少年の姿を隠すように道を塞ぎ、女を冷たく見据える。


「貴方ね……」


 女は忌々しそうにリリアを睨みつけた。


「よくも勝手に罪人を逃がしてくださいましたわね」


 服の弁償はされていない。

 少年へ言いたいことも何一つ言えていない。

 行き場を失った怒りは、そのままリリアへ向けられていた。


「……罪人だと?」


 リリアの眉間に皺が寄る。

 その声音は低く、冷え切っていた。


「ぜひ聞かせてもらいたいものだな」


 一歩、女へ近付く。


「その子は、一体どんな罪を犯した?」


 女は鼻で笑った。


「そんなことも分かりませんの?」


 まるで常識を説く教師のような口ぶりだった。


「庶民が貴族の服を汚したのです。跪いて謝罪するのは当然の礼儀でしょう?」


 女は汚れた服を摘み、不快そうに眉をひそめる。


「それなのに、わたくしの許しも得ずに逃げ出したのですから、十分罪に値しますわ」


 傲然と言い放つその姿には、自らの言葉を疑う様子は微塵もなかった。


「エミリア様、遅くなり申し訳ございません」


 その時だった。

 店の中から、従者服に身を包んだ青年が慌てて姿を現した。


「店主に品物を屋敷まで届けるよう手配をしておりましたので、遅れてしまいました」


 しかし、一歩外へ出た彼は、その場の異様な空気に足を止める。

 エミリアと見知らぬ女が睨み合い、周囲には人だかりができている。

 何らかの揉め事が起きていることを察した彼は、迷うことなく二人の間へ割って入った。

 まるでエミリアを守る壁になるかのように。


「エミリア様、これは一体……」

「フェリクス……」


 エミリアは安堵したように彼の名を呼び、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。


「何でもございませんわ。ただ、わたくしが店から出た途端、少年がぶつかってきて……服に牛乳を零されてしまいましたの」


 汚れた服を見せながら悲しげに俯く。


「それだけならまだしも、この方が少年を逃がしてしまって……」


 そこで言葉を詰まらせる。


「言い掛かりまでつけられて……」


 エミリアは震える手でフェリクスの袖を掴み、怯えるように身を寄せた。


「わたくし……怖いわ」


 フェリクスは彼女を庇うように一歩前へ出る。

 その姿を見た瞬間、リリアの瞳がわずかに見開かれた。


(彼は……)


 記憶が蘇る。


(セレナが拾い、傍に置いていた従者……)


 フェリクス。

 孤児だった彼を見出し、剣術も礼儀も学ばせ、従者として育て上げたのはセレナだった。

 そのフェリクスが今、何の迷いもなくエミリアを庇っている。

 その光景だけで十分だった。

 精神世界で精霊王が語った言葉が脳裏をよぎる。


 ――セレナは、信じた者たちに裏切られた。


(……そういうことか)


 リリアは静かに目を細めた。


(恩まで忘れたか、フェリクス)


 握り締めた拳に、爪が食い込む。

 胸の奥で、怒りが静かに燃え上がっていった。


 フェリクスはリリアの姿を頭の先から足元まで静かに見渡した。


「……見たところ、貴方は冒険者ですね」

「ああ」


 短く頷く。


「ならば事情は理解できるでしょう。この方はアウレリア公爵家のご令嬢、エミリア様です」


 フェリクスは一歩前へ出た。


「直ちに言い掛かりをつけたことを謝罪してください」


 一瞬、静寂が流れる。

 リリアは呆然とフェリクスを見つめ――やがて小さく笑った。


「……ハッ」


 乾いた笑いだった。


「言い掛かり?」


 その声には嘲りが滲む。


「私が、いつ、どんな言い掛かりをつけた?」

「この方!」


 エミリアが一歩前へ出る。


「あなたは、わたくしが追及しようとした少年を逃がしたではありませんか!」


 怒りに肩を震わせながらリリアを指差す。


「罪人を庇った上に、わたくしへ楯突いたのです!」


 あまりにも身勝手な理屈だった。

 リリアは呆れたように小さく息を吐く。


「その少年を今すぐ連れ戻してください」


 フェリクスが静かに言う。


「そして貴方も、エミリア様へ謝罪を」


 穏やかな口調のまま続けた。


「エミリア様はお優しい方です。自らの非を認め、誠意をもって謝罪すれば、きっとお許しくださるでしょう」


 リリアは思わず笑みを漏らした。


「公爵家の人間だと言ったな」


 その笑みは冷たかった。


「今の公爵家には、こんな連中しかいないのか?」

「……何だと?」


 フェリクスの表情が険しく変わる。

 周囲の空気も一気に張り詰めた。


「その女は前も見ずに飛び出して、自分から少年へぶつかった」


 リリアは指先でエミリアを示す。


「牛乳を零された被害者は少年の方だ。それなのに弁償どころか罪人扱いとは恐れ入る」


 さらに視線をフェリクスへ移す。


「そして、お前は事情も確かめず、一方の言い分だけを信じて私へ謝罪を要求した」


 口元に皮肉げな笑みを浮かべる。


「これで愚かではないと言う方が無理だろう」

「なっ……!」


 エミリアは怒りで顔を真っ赤に染めた。


「わたくしがアウレリア家の娘だと分かっていますの!?」

「だから何だ」


 リリアの声は低く、冷え切っていた。

 その紅い瞳が二人を射抜く。

 底知れぬ威圧感に、その場の空気が一瞬で凍り付く。

 その視線を向けられただけで、身体が竦みそうになるほどだった。


「彼女の言う通りだ!」


 沈黙を破るように、一人の男が声を張り上げた。


「貴族だからって調子に乗るんじゃねぇ!」

「そうよ! 悪いのはアウレリア家の娘の方じゃない!」

「嬢ちゃん、証人が必要なら俺がなってやる!」

「私も見ていたわ! まだ五、六歳くらいの子をあんなふうに責め立てるなんて……恥ずかしくないのかしら!」


 次々と民衆の声が上がる。

 先ほどまで静観していた人々は、堰を切ったようにリリアの味方へ回った。

 もはや、その場の空気は完全にエミリアへ逆風となっていた。


「な、何ですの……!」


 エミリアは狼狽えながら声を荒らげる。


「わたくしは服を汚されたのよ!」

「ああ」


 リリアは即座に返した。


「だが、お前は少年が病気の母親のために買った牛乳を零した」


 静かな声だった。

 しかし、その一言は鋭く胸を突き刺す。


「服はまた買えばいい」


 一歩、エミリアへ近付く。


「だが、お前は少年の心を踏みにじった」


 リリアがわずかに声を強める。

 怒鳴ったわけではない。

 それでも、その場の誰もが思わず背筋を伸ばすほどの重みが、その言葉にはあった。


「エミリア様……」


 フェリクスは困惑した表情で振り返る。


「彼女たちの言っていることは……本当なのですか?」


 初めて、その胸に迷いが生まれていた。

 周囲の証言はあまりにも一致している。

 自分は、エミリアの話だけを聞いて判断してしまったのではないか。

 そんな疑念が頭をよぎる。


「わたくしは……その……」


 エミリアは言葉を詰まらせる。

 そして次の瞬間、大粒の涙をぽろぽろと零し始めた。


「フェリクス……」


 震える声で彼の名を呼ぶ。


「貴方まで、わたくしを信じてくださらないのですね……」


 潤んだ瞳を伏せ、小さく肩を震わせる。


「皆様が貴族を嫌い、わたくしを悪く仰るのは仕方ありませんわ……」


 一度言葉を切り、悲しげに微笑んだ。


「ですが……」


 そっとフェリクスの袖を握る。


「貴方にまで疑われるなんて……わたくし、とても悲しいですわ」


 フェリクスはしばらく黙っていた。

 やがて静かに目を閉じると、深く頭を下げる。


「……申し訳ありません、エミリア様。私が間違っておりました」


 そう口にした瞬間、不意に一人の少女の姿が脳裏をよぎる。


 ――セレナ様なら。


 たとえ相手が故意にぶつかってきたのだとしても、まず怪我はないかと手を差し伸べただろう。


 長年仕えてきたフェリクスには、それが容易に想像できた。

 学院でも、領地でも。

 セレナは身分で人を見下すような人ではなかった。

 だからこそ、多くの者が彼女を慕っていた。

 ――だが。

 フェリクスは心の中で、その考えを打ち消す。


(それでも……セレナ様は、エミリア様だけには厳しかった)


 屋敷では義妹を受け入れようともせず、冷たい態度を取り続けていた。

 もしエミリアを家族として受け入れ、他の人々と同じように接してさえいれば――。

 こんなことにはならなかったのではないか。

 フェリクスは、そう自分に言い聞かせるように思考を閉ざした。

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