16
翌朝。
ノアの店には、ノアとルシアンの他に三人の男が集まっていた。
かつて奈落街アビスを三分していた元ボスたち。
今ではリリアの右腕として、それぞれギルドマスター、治安統括、情報統括を務める、アビスの支柱とも呼べる存在だった。
リリアが姿を現すと、三人は示し合わせたように片膝をつき、深く頭を垂れた。
「私はこれから王都へ向かう。アビスのことは頼んだ」
「お任せください」
三人は迷いなく応えた。
「それから、ヴァレリオ」
リリアは三人の中で最も若い男へ視線を向ける。
元盗賊団の頭であり、現在は情報統括を任されている男だった。
「お呼びでしょうか」
ヴァレリオは静かに頭を上げた。
「探してほしい人物がいる」
リリアの声音は低く、真剣だった。
「国内を徹底的に探せ」
「承知しました。情報網の全てを使いましょう」
ヴァレリオは即答する。
だが、リリアはさらに続けた。
「特に地下街、魔法が制限される地域、そして魔獣の巣窟を重点的に当たれ」
その一言で、三人の表情が変わった。
地下街。
魔法封鎖区域。
魔獣の巣窟。
いずれも熟練の冒険者ですら足を踏み入れることを躊躇う危険地帯である。
そんな場所を優先して探せという命令は、人探しとしてはあまりにも異例だった。
ヴァレリオは真剣な眼差しでリリアを見つめる。
「……その人物は、それほど危険な場所にいる可能性が高いのですか?」
「可能性の話だ」
リリアは短く答える。
「だが、見落としは許さない」
「承知しました」
ヴァレリオは胸に拳を当て、深く頭を下げた。
「必ず見つけ出します」
そのやり取りを少し離れた場所で見ていたルシアンが、思わず声を上げる。
「おい、お前……!」
呆れたように眉をひそめる。
「部下を死地へ送り込む気か!? やっぱりお前は悪魔だ!」
リリアはルシアンを一瞥すると、すぐにヴァレリオへ視線を戻した。
「怖いか?」
静かな問いだった。
「なら、やめるか?」
「……ご冗談を」
ヴァレリオは胸に手を当て、恭しく一礼する。
その口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「ただの人探しなど退屈です」
ゆっくりと顔を上げる。
「難しい依頼ほど、燃えるものです――我らにお任せください」
その目には揺るぎない自信が宿っていた。
リリアは満足そうに頷く。
「死ぬ程度の者なら、最初から任せない」
ヴァレリオ配下の諜報員たちは、かつて彼と共に暗躍していた元盗賊団の精鋭ばかりだった。
人数こそ他の二勢力より少ない。
だが、潜入、諜報、罠、攪乱――。
真正面から戦うのではなく、あらゆる手段を駆使して敵を追い詰めることを得意としている。
リリアがアビスを制圧した際も、三人の元ボスの中で最も苦戦させられた相手がヴァレリオだった。
「それから」
リリアは続ける。
「王都と連絡が取れる場所に、連絡係を兼ねた諜報員を常に一人以上待機させろ」
「御意」
三人は揃って頭を下げると、速やかに店を後にした。
静けさが戻る。
「待たせたな」
リリアはノアとルシアンへ向き直る。
「急いで王都へ向かおう」
「その前に」
ノアはカウンターの上から、小さな硝子瓶を取り上げた。
「これを飲んでくれるかい」
淡い紫色の液体が、朝日を受けて揺れている。
「これは?」
リリアは瓶を受け取り、不思議そうに眺めた。
「髪色を変える薬だよ」
ノアは穏やかに微笑む。
リリアが黙って続きを促すと、ノアは静かに口を開いた。
「数か月前、セレスティア魔導学院を卒業したガイアス・グランヴェルが言っていただろう」
――セレナ嬢と君は、見分けがつかないほど瓜二つだった、と。
奈落街アビスは王国から見捨てられた土地だった。
それでも、グランヴェル辺境伯家とは浅からぬ縁がある。
リリアがアビスを統一して一年半ほど経った頃。
アビスで起きた異変――街の統一と秩序の誕生を耳にしたグランヴェル辺境伯は、自ら視察に訪れた。
そこで、リリアと出会った。
以来、両者には信頼関係が築かれた。
やがて辺境伯の孫であるガイアス・グランヴェルとも親交が生まれ、彼は学院へ入学するまでの間、幾度となくアビスを訪れ、リリアから武術の教えを受けていた。
学院が長期休暇に入る度、そして卒業後も、ガイアスは度々アビスを訪れていた。
武術の鍛錬を受けるためでもあり、学院での出来事やセレナの近況をリリアへ伝えるためでもあった。
「セレナ嬢は現在、重体で療養中だ」
ノアは薬瓶を見つめながら静かに言う。
「もし彼女を知る者に君が見られれば、セレナ嬢と勘違いされて余計な混乱を招くかもしれない」
その言葉に、リリアは小さく頷いた。
一理ある。
迷うことなく薬を飲み干す。
次の瞬間。銀色だった髪が、ゆっくりと紅く染まっていく。
鮮やかな深紅。
瞳と同じ色へ変化した髪を見て、ルシアンは思わず目を丸くした。
「色は完全にランダムだから、何色になるかは私にも分からなかったけど……その色も、とても似合っているよ」
ノアは穏やかに微笑む。
「それじゃあ行こう」
ノアは二人へ手を差し出した。
「王都へ転移する。私の手を掴んで」
リリアとルシアンは、それぞれノアの手へ自分の手を重ねる。
足元に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
眩い光が三人を包み込み、視界は真っ白に染まる。
思わず目を閉じる。
やがて光が収まると、耳へ飛び込んできたのは人々の話し声と馬車の走る音だった。
「着いたよ」
ノアの声が響く。
目を開けると、三人は王都の路地裏に立っていた。
細い路地の先には石畳の大通りが広がり、立派な建物が立ち並ぶ。
人々が忙しなく行き交い、商人の呼び声や馬車の蹄の音が街に活気を与えていた。
リリアは何も言わず、ゆっくりと路地裏を抜ける。
「あ、おい! 待てよ、リリア!」
ルシアンが慌てて後を追う。
「……六年ぶりか」
リリアは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「ヴァルハイン帝国ほどではないが、アルヴェリア王国もなかなか栄えているな」
ルシアンは周囲を見回しながら感心したように言う。
大通りには様々な店が軒を連ね、大広場では噴水を囲むように旅芸人たちが芸を披露していた。
その時だった。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴が響く。
通行人たちが一斉に足を止め、声のした方へ視線を向けた。
リリアとルシアンも振り返る。
「二人とも、どうしたんだい?」
遅れて路地裏から出てきたノアが尋ねる。
視線の先では、一人の女性と、尻もちをついた五、六歳ほどの男の子が向かい合っていた。
「ご、ごめんなさい……。急いでいて……」
男の子は震える声で謝る。
「謝れば済むと思ってるの!?」
女性は服についた牛乳を見て顔を歪めた。
「この服がどれだけ高いか分かってる!?」
どうやら男の子が店から出てきた女性とぶつかり、抱えていた牛乳瓶を落としてしまったらしい。
白い牛乳が女性の高級そうな服へ飛び散っている。
「……可哀想に」
一人の通行人が小さく呟く。
「店から飛び出してきたのは、あの女性の方じゃないか」
「しっ、聞こえるわよ」
隣の女性が慌てて制する。
「あのお店は貴族御用達のお店よ。あの方も、きっと貴族様だわ」
周囲の人々は気の毒そうに男の子を見つめながらも、誰一人として前へ出ようとはしなかった。
「あいつは……」
リリアは女の顔を見た瞬間、表情を険しくした。
その紅い瞳には、冷え切った怒りが宿っている。
「知り合いか?」
ルシアンが怪訝そうに尋ねる。
「二人とも、用ができた。少しここで待っていて」
それだけ言い残すと、リリアは口布をして半分ほど顔を隠すと、説明もなく人だかりへ向かって歩き出した。
「どこへ行く!」
追い掛けようとしたルシアンの肩を、ノアが静かに掴む。
「ルシアン皇子。少し様子を見ましょう」
リリアは騒ぎの中心まで歩み寄ると、少年の前で足を止めた。
「邪魔だ、ガキ。そこを退きな」
冷え切った声だった。
「あっ……ご、ごめんなさい」
少年は涙目になりながら慌てて立ち上がると、中身がほとんど零れてしまった牛乳瓶を大事そうに抱えた。
リリアはその瓶へ視線を落とす。
「ちょうど喉が渇いていたんだ」
少年を見下ろしたまま、淡々と言う。
「私の行く手を塞いだ罰として、その牛乳を寄越せ」
その一言に、周囲の空気が凍り付いた。
貴族に理不尽な言い掛かりをつけられた挙げ句、今度は粗暴そうな女に牛乳まで奪われる。
あまりにも不憫な少年へ、人々は同情の視線を向けた。
「これは……病気のお母さんに飲ませる牛乳なんです」
少年は牛乳瓶を胸へ抱き寄せる。
「やっと……やっと買えたんです」
牛乳は保存が利かず、生乳は特に高価だった。
庶民が病人のために買うには決して安い品ではない。
だが、リリアはその言葉にも耳を貸さず、少年の手から牛乳瓶を取り上げた。
そして、瓶の底にわずかに残っていた牛乳を、一滴残らず飲み干す。
「あっ……」
少年が小さく声を漏らした。
「やっぱりあいつは悪魔だ!」
その様子を見ていたルシアンが憤慨した。
「病気の母親に飲ませる牛乳だぞ!?」
今にも飛び出していきそうな勢いで一歩踏み出す。
しかし、その肩をノアが静かに掴んだ。
「待ちなさい」
「離せ!」
ルシアンは振り払おうとするが、ノアは穏やかな表情のまま首を横に振る。
「今、貴方が出て行けば……リリアの優しさを無駄にしてしまいますよ」
「……どういう意味だ?」
ルシアンは眉をひそめ、訝しげにノアを振り返る。
「もう少しだけ、見ていてください」
ノアは少年とリリアを見つめたまま、小さく微笑んだ。
「……悪かったな」
リリアは空になった瓶を返しながら、懐から一つの革袋を取り出す。
「喉が渇きすぎていてな」
無造作に少年へ放り投げた。
「これで新しい牛乳でも買え」
少年は慌てて袋を受け取り、中を覗く。
「え……」
思わず息を呑んだ。
袋の中には金貨と銀貨がぎっしりと詰まっていた。
牛乳を買うどころか、しばらく生活に困らないほどの大金だった。
「詫びだ」
リリアは少年から目を逸らしたまま言う。
「余った金で母親に栄養のあるものでも食べさせてやれ」
一拍置き、静かに続ける。
「母親は……大事にしろ」
その言葉に、少年の瞳から涙が溢れた。
「お姉さん……ありがとうございますっ!」
「さっさと行きな」
何度も頭を下げる少年へ、リリアは背を向けたまま手を振った。




