15
リリアが次に目を覚ました時、視界に映ったのは見慣れない天井だった。
身体の下には柔らかな寝具。
どうやらベッドへ運ばれていたらしい。
「リリア! 目を覚ましたか!」
すぐ傍から安堵の入り混じった声が聞こえる。
声のする方へ顔を向けると、ルシアンが心配そうに身を乗り出していた。
リリアと目が合うと、張り詰めていた表情が僅かに緩み、大きく息を吐く。
「急に倒れるから驚いたんだぞ……。倒れる前のことは覚えて――」
「ノアはいる?」
ルシアンが言い終える前に、リリアは身体を起こした。
そして室内を素早く見回し、ノアの姿を探す。
「ノアならヒーラー職の冒険者を呼びに行ってる」
アビスには医者も診療所もない。
怪我や病に倒れた者は、他の街まで赴くか、ギルドに所属するヒーラーへ高額な報酬を支払って治療を受けるしかなかった。
「……ということは、ギルドか」
ノアの向かった先を察すると、リリアは躊躇なくベッドから降りようとする。
「おい、待て!」
ルシアンは慌ててリリアの前へ回り込み、その行く手を塞いだ。
「急に倒れたんだぞ。お前が悪魔みたいに丈夫でも、放っておけるわけがない」
両腕を広げ、逃がすまいと立ちはだかる。
リリアは静かにルシアンを見上げた。
「そこを退け」
「退かない。病人は大人しく寝てろ」
ルシアンは腕を組み、仁王立ちになる。
普段の軽薄さはなく、その表情は真剣だった。
リリアは一瞬だけ目を伏せる。
そして静かに口を開いた。
「……お前の女神に関わることだと言っても、退かないのか?」
「なに……!?」
ルシアンの表情が一変する。
「夢の中でセレナに会った」
リリアは真っ直ぐルシアンを見据えた。
「セレナが危ない」
その一言で、ルシアンの顔から血の気が引いた。
「それは……本当なのか!?」
「ああ」
リリアは力強く頷く。
「私は今すぐ王都へ向かう」
迷いは一切なかった。
「ノアは転移魔法が使えるな?」
唐突な言葉に、ルシアンは目を見開く。
「以前は誤魔化されたが、私は見ていた」
リリアは静かに続けた。
「殿下が初めてアビスへ来た日、ノアが君を伴って突然この街へ現れたところを、この目でな」
転移魔法。
それは空間そのものを繋ぐ高等魔術であり、扱える者は大陸中を探しても一握りしか存在しない。
当時、リリアが問い質した時、ノアは「ルシアン皇子を知人から預かり、その知人の部下が転移魔法で送ってくれた」と笑って誤魔化した。
深く追及する理由もなかったため、その時は聞き流した。
だが、不可解な点は他にもいくつもあった。
ノアは時折、何の前触れもなく数日間姿を消す。
外部との往来が困難なアビスにありながら、必要な物資は驚くほど早く手に入れていた。
街で流行病が広まった時もそうだった。
薬草の入手すら難しい状況だったにもかかわらず、ノアは翌日には大量の特効薬を持ち帰り、多くの住民を救ってみせた。
あの時は「運が良かった」と笑っていた。
だが今になって思えば、それだけで説明がつく話ではない。
リリアはルシアンを見据えたまま、静かに言い放つ。
「もう隠す必要はない。ノアなら私を王都へ送れるはずだ」
「それは……」
ルシアンは言い淀み、視線を逸らした。
その時だった。
コンコン。
軽いノックの後、部屋の扉がゆっくりと開く。
「構わないよ」
穏やかな声と共に姿を現したのはノアだった。
まるで最初から二人の会話を聞いていたかのような絶妙なタイミングだった。
「リリア、目が覚めて良かった」
ノアは安心したように微笑む。
「君が目を覚ましたと聞いたから、ヒーラーの方には先ほど謝礼だけ渡して帰ってもらったよ。問題なかったよね?」
尋ねる口調だった。
しかし、その瞳には「治療は必要ない」と確信している色があった。
実際、リリアが倒れた原因は病気でも怪我でもない。
玉佩を媒介に、精霊王が精神世界へ導いたことによるものだった。
「ノア」
リリアは真っ直ぐ彼を見据える。
「王都へ送ってほしい」
「構わない」
ノアは即答した。
「ただ、その前に説明してくれるかな」
何が起きたのかを。
その一言だった。
リリアは一瞬だけ考え込む。
しかし、すぐに決意したように頷いた。
隠していても意味はない。
二人はリリアが元公爵令嬢であることも、双子の姉・セレナの存在も知っている。
だからリリアは、一部始終を語った。
突然意識を失ったのは精霊王の力によるものだったこと。
精神世界でセレナと再会したこと。
そして――精霊王と交わした会話。
「精霊王は言っていた」
リリアは拳を握り締める。
「セレナは重傷を負ったが、命は繋がっている。ラグナール侯爵の計らいで、最新の医療と魔術によって延命されているそうだ」
そして、僅かに眉を寄せた。
「だが、心が壊れてしまった」
部屋に重い沈黙が落ちる。
「セレナ自身が目覚めることを拒んでいる」
ルシアンが息を呑んだ。
「だから私は行く」
リリアの紅い瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「セレナに会うために――そして、公爵家を守るために」
「なるほど……そんなことがあったのか」
ノアは顎に手を添え、話を整理するように静かに目を閉じた。
「セレナは……目を覚ますのか!?」
ルシアンは青ざめた表情で尋ねる。
「分からない」
リリアは静かに首を横へ振った。
「だが――必ず目覚めさせる」
短い言葉だった。
しかし、その声には揺るぎない決意が宿っていた。
「そして」
リリアの紅い瞳が鋭く細められる。
「セレナをそこまで追い詰めた者たちを、私は決して許さない」
口調は静かだった。
怒鳴ることも、声を荒らげることもない。
それでも、その胸に煮えたぎる怒りは隠しきれず、紅い瞳の奥には燃え盛る炎のような激情が宿っていた。
「俺も行く」
ルシアンが迷いなく言った。
「俺はセレナに会うためにアルヴェリアへ来たんだ」
胸元の服を強く握り締める。
「彼女がそんなことになっているなんて……考えただけで胸が締め付けられる」
その表情に、いつもの軽薄さはなかった。
心の底からセレナを案じていることが、痛いほど伝わってくる。
リリアはそんなルシアンを一瞥したが、反対はしなかった。
「行くにしても、今日はもう遅い」
考え込んでいたノアが静かに口を開く。
「王都まで転移すれば体力も魔力も消耗する。君たちも今は冷静な判断ができる状態じゃない」
二人を順番に見回し、穏やかに続ける。
「今夜は身体を休めよう」
そして、静かに結論を告げた。
「明日の朝、私が二人を王都へ送ろう。――いいね?」
ノアの問い掛けに、リリアとルシアンは静かに頷いた。
今すぐ駆け出したい気持ちは二人とも同じだった。
だが、焦燥だけで救える命ではない。
だからこそ、今は僅かな時間でも身体を休め、万全の状態で王都へ向かう。
リリアはそっと胸元の、服を握り締めた。
(待っていて、セレナ。今度は私が貴方を助ける)
双子の姉を救うための帰還が、静かに幕を開けようとしていた。




