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 玉佩にヒビが入ってからというもの、リリアの胸には拭い切れない不安が巣食っていた。

 言葉では説明できない。

 胸の奥に小さな棘が刺さったままのような、不吉な予感だけが消えない。

 この玉佩は、母が亡くなる前に一つひとつ手作りし、リリアとセレナへ贈ってくれた大切な形見だった。


「どうだ? ヒビが入った原因は分かるか。……直せるか?」


 リリアは珍しく焦りを滲ませ、ノアへ問いかけた。


「君にとって、この玉佩がどれだけ大切なものかは分かっているよ」


 ノアは玉佩を丁寧に受け取ると、慎重にカウンターへ置いた。


「でも、女の子なんだから、自分の身体ももっと大事にしないとね」


 そう言って近くの棚から乾いたタオルを取り出し、雨でびしょ濡れになったリリアの頭へそっと掛ける。

 優しく髪の水気を拭き始めた。


「ノア! 来期からセレスティア魔導学院に通えるって本当か!?」


 その時、店の奥から一人の青年が飛び出してきた。

 年はリリアと同じくらい。

 嬉しさを隠しきれない様子で声を弾ませている。


「ルシアン皇子。先客がいらっしゃいます。その件は後ほどお話しいたしましょう」


 ノアが穏やかに応じると、ルシアンはようやくリリアの存在に気付き、露骨に顔をしかめた。


「げっ、悪魔! こんな時間に何してるんだ!」


 彼の名は、ルシアン・フォン・ヴァルハイン。

 隣国ヴァルハイン帝国の第八皇子であり、事情があって現在はノアのもとへ身を寄せている人物だった。


「今の話。セレスティア魔導学院へ通うとは、どういうことだ?」


 リリアが問い掛ける。

 ルシアンは得意げに胸を張り、にやりと笑った。


「決まってるだろ。俺の女神に会いに行くためさ」


 そして勝ち誇ったように人差し指を立てる。


「……ま、お前が羨ましがっても教えてやらないけどな」


 ノアは苦笑しながらリリアへタオルを手渡すと、カウンターの内側へ戻った。


「皇子ともあろうお方が、女性にそのような態度を取ってはいけませんよ」


 そう言って、ルシアンの額へ軽くデコピンを見舞った。


「いったぁ!?」


 思いのほか勢いよく弾かれた額から、乾いた音が店内に響いた。

 ルシアンは額を押さえ、恨めしそうにノアを見上げる。


「貴方のお兄様――皇帝陛下から、『あまり甘やかすな』と言いつかっておりますので」


 ノアは悪びれる様子もなく、あっけらかんと言った。


「兄上は俺に対して少々厳しすぎると思わないか?」


 ルシアンは頬を膨らませ、不満げに呟く。

 だが、その表情はすぐに晴れた。


「とはいえ、兄上のお陰で再びアルヴェリア王国へ来られたんだ。もうすぐ女神とも再会できる」


 嬉しさを隠し切れない様子で、頬を緩ませる。


「ノア。玉佩はどうだ?」


 リリアはルシアンを完全に無視し、ノアへ問い掛けた。

 ノアは玉佩を指先でそっとなぞりながら、小さく眉を寄せる。


「この玉佩には強い魔力が宿っている。普通なら傷一つ付けることすら難しいはず」


 ヒビの入った玉佩を見つめ、静かに続ける。


「……それに、微かだが思念のようなものも感じる」


 店内の空気が張り詰めた。


「思念?」

「断言はできないけどね」


 ノアは慎重に言葉を選ぶ。


「だけど、古い呪具や護符には、持ち主へ危険を知らせるものがある。この玉佩も同じ性質を持つのかもしれない」


 そして真剣な眼差しでリリアを見つめた。


「もしそうなら、君自身か、君の身内……あるいは君にとって何より大切な誰かへ、不吉な出来事が迫っている前兆とも考えられる」

「身内だと!?」


 リリアが口を開くよりも早く、ルシアンが声を荒らげた。


「詳しく教えてくれ」


 リリアは動揺を押し殺し、静かに促した。


「根拠があるわけじゃない」


 ノアはゆっくりと首を横に振る。


「昔から玉佩にヒビが入ったり割れたりするのは、不吉の前触れだと言われているだろう。君の玉佩も、何かを伝えようとしているのかもしれない」


 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥に燻っていた不安が、一気に膨れ上がる。

 呼吸が浅くなる。

 脳裏に浮かんだのは、たった一人の少女だった。


「……セレナ」


 無意識に、その名が零れる。


「セレナ……!」


 リリアは弾かれたように顔を上げた。


「セレナに何かあったのか!? 今すぐ王都へ向かおう!」


 ルシアンも顔色を変え、勢いよく身を乗り出した。

 リリアとルシアンは考えるよりも先に、店の出口へ向かおうとする。

 だが、その腕をノアが同時に掴み、制した。


「落ち着きなさい」


 穏やかな声だった。

 しかし、有無を言わせぬ強さがあった。


「その人に何かあったと決まったわけではありません」


 二人は振り返る。

 ノアは真っ直ぐリリアを見据えていた。


「この玉佩が示しているのは、君自身かもしれない」


 その言葉に、二人は息を呑む。

 確かに、その可能性も否定できない。

 焦る気持ちを押し殺し、二人は僅かに冷静さを取り戻した。

 ――その時だった。


 ピシッ。


 静まり返った店内に、小さな音が響く。

 三人の視線が一斉に玉佩へ向いた。

 誰も触れていない。

 それなのに。

 玉佩へ、新たな亀裂が走った。

 先ほどよりも深く。

 まるで内側から何かに押し広げられるように。


「……っ!」


 三人の表情が凍り付く。

 その直後だった。


「……うっ」


 リリアが苦しそうに胸を押さえた。


「リリア!」

「おい、どうした!」


 突然呼吸が詰まる。

 心臓を鷲掴みにされたような激痛が胸を貫いた。

 息が吸えない。

 身体から力が抜け、膝をつく。

 ノアとルシアンが駆け寄る声さえ、次第に遠ざかっていく。

 視界がぼやける。

 世界が暗く染まり――。

 リリアの意識は、深い闇へと沈んだ。


 ◇


 ――どれほど時間が経ったのだろう。

 リリアはゆっくりと瞼を開いた。

 辺りは闇だった。

 果てしなく広がる静寂。

 音も、風も、温もりもない。

 ただ、遠くに一つだけ淡い光が揺れていた。


「……リリア」


 優しい声が響く。

 懐かしい。

 なのに、どこか遠い。

 聞いたことがあるはずなのに、思い出せない。

 不思議な感覚だった。

 それでもリリアは迷わなかった。


「……セレナ?」


 思わず、その名を口にする。


「セレナなの……!?」


 淡い光が微かに揺れる。


「……ごめんなさい、リリア」


 声は震えていた。

 泣いている。


「セレナ!? どうしたの!」


 リリアは弾かれたように駆け出した。

 一歩。

 また一歩。


 光へ近付くたび、その輪郭が鮮明になっていく。

 やがて、一人の少女の姿が浮かび上がった。

 銀色の長い髪。

 深紅の瞳。

 整った顔立ちは、鏡に映した自分そのもの。

 違うのは、その眼差しだった。

 リリアの鋭く吊り上がった目元とは対照的に、少女の瞳はどこまでも優しく、穏やかだった。

 纏う空気も違う。

 見る者を威圧するリリアとは正反対に、少女は静かな気品と温もりを纏っている。


 六年前に生き別れた、たった一人の双子の姉。

 セレナだった。

 その紅い瞳からは、静かに涙が零れ落ちていた。


「貴方には……自由になってほしかった」


 六年前。

 自分だけを逃がし、公爵家へ残った姉。

 その時と同じ優しい声だった。


「だけど……」


 セレナは唇を震わせる。


「わたくし一人では、公爵家を守れなかった……」


 涙が頬を伝い、闇へと溶けていく。


「本当に、ごめんなさい……」

「謝らないで」


 リリアは静かに首を横へ振った。


「セレナのお陰で、私はこの数年、自由に生きられた」


 そう言って、そっとセレナの頬へ手を伸ばす。

 震える頬を優しく包み込むと、ゆっくりと顔を寄せた。


「教えて。何があったの?」


 セレナは悲しげに微笑む。


「……時間がないわ」


 震える声で言った。


「お願い。帰って来て……」

「わかった」


 理由は聞かなかった。

 事情も問い質さなかった。

 リリアは迷うことなく頷く。

 セレナが助けを求めている。

 それだけで十分だった。


「公爵家を守って」

「私に任せて」


 リリアは額をそっとセレナの額へ合わせる。

 幼い頃、互いを励ます時によくしていた仕草だった。

 双眸を細め、安心させるように微笑む。

 その笑顔を見たセレナは、張り詰めていた表情をようやく緩めた。

 静かに瞳を閉じる。

 そして――。

 淡い光と共に、その姿は幻だったかのように溶けていった。


「……セレナ?」


 リリアは慌てて手を伸ばす。


「セレナ!」


 返事はない。


「どこなの!? セレナッ!!」


 叫びだけが暗闇へ虚しく響いた。

 辺りには、果てしない闇だけが広がっている。

 その時だった。


『龍神に選ばれし娘よ』


 低く、それでいて世界そのものが語り掛けるような声が響いた。

 先ほどのセレナとは違う。

 威厳に満ちた男の声だった。

 リリアは即座に振り返る。


『俺は精霊王』


 その名を聞いた瞬間、リリアは目を見開いた。

 セレナが契約する、精霊の王。

 神話に謳われる存在が、今まさに自分へ語り掛けている。


『セレナは今、重傷を負い、生と死の狭間を彷徨っている』


 リリアの心臓が大きく脈打つ。


『命が尽きる寸前、俺はセレナの魂だけを保護した』

「セレナは無事なのか!?」


 リリアは叫ぶように問い掛けた。


『死んではいない』


 精霊王は静かに答える。


『だが、無事とも言えない』


 重い沈黙が流れる。


『俺はセレナの願いに応え、全ての魔力を使って、ある者を探し続けていた』


 その声には、僅かな悔恨が滲んでいた。


『だから魂を繋ぎ止めるだけで限界だった』


 リリアは拳を強く握り締める。


『肉体は生きている』


 その言葉に僅かな希望が宿る。

 しかし、続く言葉がその希望を打ち砕いた。


『だが、セレナ自身が目覚めることを拒んでいる』

「……どういうこと?」


 理解できず、リリアは眉を寄せる。

 精霊王は静かに告げた。


『信じていた者たちに裏切られ、大切な者たちに傷付けられ……心は限界を迎えた。今のセレナは、自ら現実へ戻ることを拒絶している』


 その声には深い悲しみが滲んでいた。


『このまま心を閉ざし続ければ――』


 精霊王は一拍置き、静かに告げる。


『セレナが再び目を覚ますことは、二度とないだろう』

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