12
──奈落街アビス。
数百年前、この街は王都にも引けを取らぬほどの繁栄を誇っていた。
緑豊かな大地と清らかな水に恵まれ、「楽園都市ルーメリア」と称えられた美しい街。
しかし、その栄光は永遠ではなかった。
突如として瘴気が街を覆い始め、魔獣が際限なく湧き出るようになったのである。
国は討伐隊を幾度となく派遣した。
だが、瘴気は晴れることなく、魔獣も減ることはなかった。
やがて王国はルーメリアを見限り、街は封鎖された。
住民は逃げ、残された者も命を落とし、美しかった都市は廃墟へと姿を変える。
そして今では、はぐれ者、犯罪者、賞金首、行き場を失った者たちが流れ着く、無秩序の治外法権地帯――。
人々はこの街を、奈落街アビスと呼ぶようになった。
秩序も法も存在しない、弱肉強食の街。
だが――。
そんな奈落街にも、数年前から僅かな変化が生まれ始めていた。
新たな秩序を築いた、たった一人の少女によって。
◇
「おい、リア。今日こそいいだろ?」
路地裏で、一人の男が女の行く手を塞いでいた。
逃げ道を壁で塞ぎ、品定めするような視線を向ける。
「退いてちょうだい。あんたに構ってる暇はないの」
リアは鬱陶しそうに男を睨み返す。
「おいおい、この俺を断るのか? 俺はギルドマスターの息子だぞ」
「だから何よ」
リアは鼻で笑った。
「あんた自身は大したことないじゃない。親の名前を振りかざすことしかできない癖に」
「この女……!」
怒りで男の顔が歪む。
リアはその隙を突いて男の胸を突き飛ばし、店の裏口へ向かって駆け出した。
「待て!」
男はすぐさま追いつき、乱暴に彼女の手首を掴む。
「痛っ! 離して!」
リアは振り返りざまに平手打ちを浴びせようと左手を振り抜く。
だが、その手も寸前で掴まれた。
両手首を拘束されたまま、再び壁へ押し付けられる。
「人が優しく誘ってやってりゃ、女の分際で調子に乗りやがって」
男は怒りに満ちた目でリアを睨みつけ、さらに力を込めた。
リアは痛みに顔をしかめるが、その瞳から気の強さだけは消えなかった。
「いいか、よく聞け」
男はリアの両手首を押さえつけたまま、卑しい笑みを浮かべた。
「お前んとこの店長とは、もう話はついている」
その言葉に、リアは目を見開く。
「まさか……」
「そうだ」
男は口角を吊り上げた。
「お前は店長に売られたんだよ。だから今日からは大人しく俺の言うことを聞け」
勝ち誇ったように顔を近づける。
しかし、リアは怯まなかった。
男の顔を真っ直ぐ睨みつけると――。
ペッ。
勢いよく顔へ唾を吐きつけた。
「店長が私を売ったからって、あんたのものになるなんて思わないで!」
男の顔から笑みが消える。
「このクソアマァッ!!」
怒りに任せ、大きく腕を振り上げた。
その瞬間だった。
ドゴォッ!!
鈍く重い衝撃音が路地裏に響く。
「がはっ!?」
男の身体が宙を舞い、数メートル先の石壁へ叩きつけられた。
壁にひびが入り、瓦礫が崩れ落ちる。
「ぐっ……痛ぇ……!」
男は横腹を押さえながら咳き込む。
「誰だ……!」
怒鳴りながら顔を上げた。
「この俺様を蹴り飛ばした奴は――」
その言葉は最後まで続かなかった。
路地裏の入口。そこに一人の人物が立っていた。
漆黒の鎧を身に纏い、雨に濡れてなお輝きを失わない銀色の長い髪を揺らしている。
その瞳は、まるで獲物を見下ろす竜のように冷え切っていた。
リアは突然現れた人物に目を奪われる。
「あ……あなたは……」
その人物は何も答えない。
ただ、リアを庇うように一歩前へ出た。
一方、男の顔からは一瞬で血の気が引いていた。
先ほどまでの威勢は跡形もなく消え失せ、震える唇から掠れた声が漏れる。
「う……嘘だろ……」
男は後ずさりしながら、目の前の人物を見上げた。
「な、なんでこんなところに……」
恐怖で喉を震わせながら、その名を口にする。
「《屍山の女王》リリア……」
男の口からその名が零れた瞬間、リリアの鋭い視線が突き刺さる。
まるで、その眼差しだけで命を刈り取られるのではないかと思うほどの威圧。
男は息を呑み、全身から冷や汗が噴き出した。
「私の通り道を塞ぐのはどこの馬鹿かと思えば……貴様か」
リリアは男を見下ろし、鼻で笑った。
その声音には侮蔑しかなかった。
「リ、リリア……。俺たち幼馴染だろ? なぁ、見逃してくれよ」
先ほどまでの威勢はどこへやら。
男は引き攣った笑みを浮かべ、必死に媚びを売る。
「はっ」
リリアは小さく鼻で笑う。
「幼馴染だと? 貴様など、ただ同じ街で顔を合わせていただけの知り合いだ」
「そう言うなって! お前だって昔は親父に世話になっただろ?」
男は必死に取り繕う。
「誤解してるようだから言っとくが、その女は俺の女なんだよ」
「ほう……」
リリアの紅い瞳が細められる。
「その割には、随分と嫌われていたようだが?」
淡々とした一言。
男は奥歯を噛み締め、顔を歪める。
怒りは込み上げる。だが、目の前の相手にそれをぶつける勇気はなかった。
「それに」
リリアは男から興味を失ったように視線を外す。
「貴様が誰を口説こうが、私にはどうでもいい」
そして再び男を見下ろした。
「ただ、私の通り道を塞いでいた」
それだけ告げると、肩を竦める。
「だから蹴り飛ばした。それだけの話だ」
あまりにも身勝手で、あまりにも理不尽。
しかし、この街では――。
強者の理不尽こそが絶対だった。
男は悔しさに拳を握り締める。
だが、反論はできない。
目の前にいるのは、自分など一瞬で殺せる存在だと、本能が理解していたからだ。
約六年前。
一人の少女が、突如として奈落街アビスへ姿を現した。
当時、まだ十歳。
銀色の髪は泥と血で汚れ、着ていたドレスは見る影もないほど破れ、魔獣の返り血で赤黒く染まっていた。
全身に無数の傷を負い、その足取りは今にも倒れそうなほど覚束ない。
それでも少女は歩みを止めなかった。
その名は――リリア。
アビスは、王国から見放された者たちの掃き溜めだった。
殺人、強盗、人身売買。
法も秩序も存在せず、力だけが全てを決める街。
当然、この街にも頂点に立つ者たちは存在したが、見知らぬ少女を歓迎する者など一人としていなかった。
リリアはふらつく足取りのまま、一軒の酒場へと入る。
店内にいた荒くれ者たちの視線が、一斉に少女へ向けられた。
「……何だ、このガキ」
「迷子か?」
「ここはガキの来る場所じゃねぇぞ」
嘲笑混じりの声が飛ぶ。
リリアはそんな視線など意にも介さず、カウンターまで歩み寄った。
「……もう、一週間……何も食べてない」
掠れた声だった。
「何でもいい……食べ物をくれ」
店主は眉をひそめる。
「薄汚ぇガキだな」
値踏みするように見下ろし、鼻で笑った。
「娼婦のガキか? 帰って母親の乳でも飲んでろ」
鬱陶しそうに手を振り、追い払おうとする。
その様子を見ていた酒場の客たちも腹を抱えて笑い出した。
「金なら……ある」
リリアはゆっくりとポケットへ手を入れる。
そして取り出したのは――。
一枚の金貨だった。
店内の空気が一変する。
「金貨……だと?」
店主は目を見開いた。
アビスでは銀貨ですら滅多に見ない。
ましてや金貨など、普通の住人が一生触れることすらない代物だった。
改めて少女を見る。
ドレスはぼろぼろだ。
だが、その生地は明らかに高級品だった。
どこかの貴族令嬢なのか。
攫われたのか、捨てられたのか。
そんな事情はどうでもいい。
この街では金を持つ者は魔物だろうと客だ。
「お、おう! 座れ!」
店主は慌てて厨房へ怒鳴り、料理を用意させた。
運ばれてきた料理を見るや否や、リリアは作法など気にも留めず夢中で食べ始める。
一口。
また一口。
まるで飢えた獣のように料理を口へ運んだ。
そんな少女を、酒場の男たちがゆっくりと囲み始める。
「おい、ガキ」
大柄な男がニヤつく。
「いいもん持ってるじゃねぇか」
「俺たちにも奢ってくれよ」
「それとも、その金貨を全部置いていくか?」
男たちは、まだ金貨を持っていると踏んでいた。
相手はたった十歳の少女。
脅せば泣きながら差し出す。
そう思っていた。
だが、リリアは男たちを一瞥することすらなく、黙々と食事を続ける。
「聞こえねぇのか!」
一人の男が怒鳴り、リリアの持っていた皿を叩き落とした。
料理が床へ飛び散る。
そこで初めて、リリアの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
紅い瞳が男たちを見据えた。
「ようやく話を聞く気に――」
男が笑みを浮かべた、その瞬間。
ドゴォッ!!
「がはっ!?」
男の身体が砲弾のように吹き飛び、店の壁へ激突する。
鈍い音と共に後頭部を強打し、そのまま力なく崩れ落ちた。
酒場は一瞬、静まり返る。
「なっ……」
「何が起きた……?」
誰も見えなかった。
十歳の少女が動いたことすら。
だが、すぐに仲間がやられた怒りが恐怖を上回る。
「ガキだからって手を出さねぇと思ったか!」
「優しくしてるうちに金を出しゃよかったんだ!」
「女子供だからって容赦しねぇぞ!」
怒号と共に、数人の男たちが一斉に武器を抜き、リリアへ襲い掛かった。




