11
アルフレッドは、本気で自分から離れようとしているセレナの様子に愕然とした。
これまでのセレナは、自分が何をするにも意見し、諫め、時には厳しい言葉を口にした。
それを煩わしく思うこともあった。
だが、それは自分を想っているからこそなのだと、勝手に思い込んでいた。
だからこそ、婚約解消を口にすれば、セレナは泣いて縋り、謝罪し、自分のもとへ戻ってくるものだと信じて疑わなかった。
しかし、目の前の彼女は違う。
まるで長年胸につかえていた重荷が下りたかのように、穏やかな表情を浮かべていた。
「それは駄目だ!」
アルフレッドは堪らず声を荒らげた。
「セレナ・フォン・アウレリア。君の一存で私の前から去れると思っているのか!」
勢いのままセレナの手首を掴む。
焦りから知らず知らずのうちに力が籠もっていた。
「……っ」
鋭い痛みに、セレナは小さく顔をしかめる。
「殿下。お離しください」
冷静に告げるが、アルフレッドは手を緩めようとしない。
「婚約解消の件は撤回しろ!」
その声には焦燥が滲んでいた。
「今夜の件は……私にも多少の非があったことは認めよう」
どこまでも上から目線の物言いだった。
「だから、今ここで発言を撤回するのなら、一度だけ許してやる」
その言葉を聞き、セレナは小さく目を伏せる。
悲しいのではない。
呆れていた。
最後の最後まで、この人は自分が何をしてきたのか理解していないのだと。
ゆっくりと視線を上げる。
「殿下」
その瞳には失望だけが映っていた。
「婚約を解消したいと仰ったのは殿下ご自身です」
「……」
「エミリアを婚約者にしたいと、公衆の面前で皆様の前で仰ったのも殿下です」
静かな声音だった。
だからこそ、その一言一言が重く響く。
「それにもかかわらず、今になって婚約は解消しないと仰るのですか」
セレナは静かに首を傾げた。
「殿下は、わたくしにどうしろと仰るのでしょう」
アルフレッドは言葉を失う。
「殿下のお心はエミリアへ向いている。それでも婚約者はわたくしのままでいろと仰る――そのような不誠実な関係を、わたくしが受け入れるとお思いですか」
胸の奥から込み上げる嫌悪感を押し殺しながら、セレナは静かに言葉を紡いだ。
婚約者を蔑ろにし、公衆の面前で別の女性を婚約者として扱いながら、いざ婚約解消となれば引き留める。
すべて自分の都合ばかり。
その身勝手さに、もはや失望すら通り越していた。
「殿下!」
「ご無事ですか!」
「お探ししておりました!」
ユリウス、カイン、レオンハルトが慌てて駆け寄り、アルフレッドを庇うようにセレナとの間へ割って入った。
その後ろからエミリアとフェリクスも息を切らせながら駆け付ける。
ようやく我に返ったアルフレッドは、掴んでいたセレナの手首を静かに離した。
赤く残った指の跡が痛々しい。
「お義姉様。これ以上、アル様を困らせるのはおやめください」
エミリアが悲しげな表情で口を開く。
「セレナ嬢。殿下に何をなさっていたのです」
ユリウスが険しい表情を向ける。
「セレナ様、公爵令嬢ともあろうお方が、そのような見苦しい真似をなさるとは」
フェリクスも冷ややかに言い放った。
彼らには、アルフレッドがセレナを引き留めていたとは映っていないのだろう。
いや――見ようともしていない。
セレナは赤く腫れた手首をもう片方の手でそっと押さえ、小さく笑った。
乾いた笑みだった。
もはや怒る気力すら湧かなかった。
「……わたくしから申し上げることは何もございません」
静かに一礼する。
「失礼いたします」
これ以上言葉を交わしても意味はない。
何を話しても、彼らは信じない。
そう悟ってしまったからだ。
セレナは踵を返した。
だが、数歩進んだところで足を止める。
「そうでしたわ」
何かを思い出したように振り返る。
その視線はフェリクスへ向けられていた。
「フェリクス」
名を呼ばれたフェリクスは僅かに眉を動かす。
「本日をもって、貴方をわたくし付き従者の任より解任いたします」
会場が静まり返る。
「今後、わたくしに仕える必要はございません」
一拍置いて、淡々と告げる。
「エミリアに仕えるなり、お好きになさい」
その一言は、長年主従として過ごしてきた関係に終止符を打つ宣告だった。
フェリクスは目を見開いたまま言葉を失う。
「……セレナ様」
掠れた声が漏れる。
「それは……どういう意味ですか」
しかし、セレナは振り返らなかった。
返事をすることもなく、静かに歩き出す。
その背中は人混みへと溶け込み、やがて見えなくなった。
セレナはそのまま会場の出入口へ向かった。
そこには、ヴィクトル、アルヴィン、ローゼンクロイツ侯爵、ラグナール侯爵、そしてグランヴェル辺境伯の五人が待っていた。
「お嬢様」
ヴィクトルが一歩前へ出て恭しく頭を下げる。
「ちょうどお迎えの馬車が到着した」
セレナが小さく微笑み頷く。
「数刻前から雨が降り始めた」
アルヴィンが穏やかな口調で言った。
「道も滑りやすくなっている。どうかお気を付けて」
「ありがとうございます」
その気遣いに、セレナは柔らかな笑みを返した。
「お嬢様」
ローゼンクロイツ侯爵が胸に手を当て、一礼する。
「我がローゼンクロイツ家は、いついかなる時も貴女様の味方です。お困りの際は、どうか遠慮なく我らをお頼りください」
「心強いお言葉、感謝申し上げます」
「精霊王の加護があろうとも、ご自身のお身体まで酷使なされますな」
ラグナール侯爵が静かに続ける。
「貴女様が倒れては、本末転倒です」
「はい。肝に銘じます」
セレナは深く頭を下げた。
「セレナ嬢」
最後にグランヴェル辺境伯が口を開く。
「お主は一人ではない」
その一言は、何よりも力強かった。
「ワシら三家は、これからもアウレリア家と共にある。それに――」
辺境伯は意味ありげに微笑む。
「新学期になれば、お主の大きな力となる者が学院へ現れる」
「わたくしの力となる者……ですか?」
思い当たる人物がいないセレナは、小さく首を傾げた。
「今はまだ話せぬ」
辺境伯は楽しげに髭を撫でる。
「じゃが、その者と会えば、お主もきっと驚くじゃろう」
グランヴェル辺境伯は、それ以上その人物について語ることはなかった。
セレナは五人へ丁寧に一礼すると、迎えの馬車へ乗り込む。
扉が閉まり、馬車は静かに学院を後にした。
窓の外では、いつの間にか降り始めた雨が激しく石畳を叩いている。
雨粒が車窓を流れ落ち、その景色はまるで今の自分の心を映し出しているかのようだった。
静かな車内で小さく息を吐いた、その時だった。
ガタンッ!
馬車が大きく揺れた。
石畳の上とは思えないほど激しい衝撃。
続けざまに左右へと大きく揺さぶられる。
「……?」
学院から王都へ続く街道は王都でも指折りの整備された街道だ。
これほど揺れるはずがない。
不審に思ったセレナが御者へ声を掛けようと腰を浮かせた瞬間――
ビシッ。
床に紫色の光が走った。
「これは……魔法陣?」
次の瞬間。
足元一面へ巨大な魔法陣が浮かび上がる。
「しまっ――」
言葉を最後まで紡ぐ間もなかった。
轟音。眩い閃光。
馬車そのものが内側から弾け飛んだ。
爆風に吹き飛ばされ、セレナの身体は夜空へと投げ出される。
「きゃああっ!」
激しい衝撃と共に地面へ叩きつけられた。
周囲には砕け散った馬車の残骸が飛び散り、折れた車輪や木片が雨に打たれている。
全身を焼くような痛みが襲った。
腕も脚も思うように動かない。
温かな液体が額を伝い、雨と混じって地面へ流れ落ちていく。
「……っ」
視界が霞む。
雨音だけがやけに大きく聞こえた。
「セレナ!!」
誰かが叫んでいる。
「死ぬな!」
雨を切り裂くような必死の声。
「俺が……死なせはしない!」
その声だけを最後に、セレナの意識は深い闇へと沈んでいった。




