10
セレナは両手を腹部で重ね、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
そして、身体ごとアルフレッドへ向け、その瞳を真っ直ぐ見据える。
「殿下」
静かな声が会場に響いた。
「わたくしとの婚約を解消されたいというお気持ちに、お変わりはございませんね」
念を押すように、もう一度だけ尋ねる。
アルフレッドもまたセレナへ向き直った。
彼は勘違いしていた。
何度も確認するということは、婚約を失いたくないのだと。
今にも泣きながら謝罪し、許しを乞うのだと。
――少し脅かし過ぎたかもしれないな。
そんな余裕すら浮かべ、見下すように口角を上げる。
アルフレッドは、決してセレナを嫌っていたわけではない。
ただ、エミリアのために少し懲らしめるつもりだった。
それだけのことだと思っていた。
「ああ」
短く頷く。
「私の気持ちは変わらない」
この言葉を聞けば、セレナは折れる。
そう信じて疑わなかった。
「──承知いたしました」
しかし返ってきたのは、あまりにも静かな声だった。
その一言に、アルフレッドの笑みが僅かに固まる。
「わたくしは、殿下との婚約を解消することに同意いたします」
凛とした声が、静まり返ったホールへ響き渡った。
誰もが息を呑む。
アルフレッドは目を見開いた。
「……何?」
初めて。
彼の表情から余裕が消えた。
「ここにお集まりの皆様が証人です」
セレナは会場をゆっくりと見渡した。
「アルフレッド殿下は、わたくしとの婚約を解消したいと公言なされました。そして、わたくしはそれに同意いたしました」
その一言で、後戻りはできなくなる。
アルフレッドはようやく、自らの発言が軽口では済まされないことを理解し始めた。
――何故だ。
理解できなかった。
これまでセレナが自分から離れようとしたことは一度もない。
エミリアを気に掛ければ嫉妬し、注意をすれば反発する。
それは、自分を愛しているからだと信じていた。
だからこそ、今回も最後には折れると思っていた。
少し懲らしめれば、泣いて謝り、自分のもとへ戻ってくる。
そう思っていたのだ。
だが、現実は違った。
セレナは婚約解消を受け入れただけでなく、この場にいるすべての貴族を証人とし、アルフレッド自身の言葉を公の約束へと変えてしまった。
「セレナ」
アルフレッドは眉をひそめる。
「本当にいいのか。そんなに意地を張って、自分を追い詰めて」
なおも彼は勘違いしていた。
これは駆け引きなのだと。
セレナは自分の気を引き、婚約解消を撤回させようとしているだけなのだと。
「私は撤回するつもりはない」
どこか苛立ちを滲ませながら言い放つ。
「今すぐ謝罪し、先ほどの発言を撤回するというのなら……今回だけは許してやろう」
「殿下、お言葉ですが──撤回する必要があるのは、わたくしではございません。もちろん、殿下からのお言葉も、今さら撤回していただく必要はございません」
ただ一人。
誰に寄り掛かることもなく、背筋を真っ直ぐに伸ばして立つセレナの姿に、アルフレッドは言いようのない違和感を覚えた。
目の前にいる。
それなのに、ひどく遠い。
その感覚はアルフレッドだけではない。
レオンハルトも、ユリウスも、カインも、フェリクスも同じだった。
幼い頃からいつも隣にいた少女。
誰よりも穏やかで、誰よりも優しく、彼らのことを気遣ってくれていた少女。
その面影を思い出す。
だが、今、目の前に立つ彼女は、もうあの日のセレナではなかった。
違う。変わったのではない。
──自分たちが、彼女をそこまで追い詰めてしまったのだ。
その事実を、彼らはようやく理解した。
セレナの心は、もうとっくに自分たちの元を離れている。
そして彼女は、もう誰一人として、自分たちを必要としていなかった。
「ここから先は、我らが預かろう」
重厚な声が会場に響いた。
ラグナール侯爵が一歩前へ進み出る。
「ラグナール侯爵家は、この婚約解消に異議はない」
「ローゼンクロイツ家も同意する」
ローゼンクロイツ侯爵が静かに続ける。
「グランヴェル家も異論はない」
顎髭をゆっくりと撫でながら、グランヴェル辺境伯が低く告げた。
三家の言葉に、会場の空気が一変する。
建国以来、王家を支えてきた盟約家。
その三家が、揃って婚約解消を支持したのである。
三侯はアルフレッドを真っ直ぐ見据え、静かに口を開いた。
「建国時より王家と盟約を結ぶ我ら三家は、本件に同意する」
「あとは五大公爵家の過半数の承認、そして陛下の裁可が下れば、この婚約は正式に解消となる」
「無論──」
一拍置く。
「これは、殿下一人のご意思で覆せる話ではございません」
発言には責任が伴うもの。
今さら撤回などできるはずもなく、アルフレッドは静かに拳を握り締めた。
一方、エミリアは俯いたまま口元だけを僅かに歪める。
誰にも気付かれぬよう、人知れずほくそ笑んでいた。
宴も終盤を迎え、迎えの馬車が次々と到着し始めていた。
談笑していた貴族たちも一人、また一人と会場を後にし、賑やかだったホールは次第に人影もまばらになっていく。
そんな中、アルフレッドは意を決したようにセレナのもとへ歩み寄った。
「セレナ」
呼び止めるなり、彼はセレナの腕を掴み、自分の方へ向き直らせた。
「よく考えるんだ。本当に私との婚約を解消してもいいのか。一時の感情で決めて、後悔しても遅いんだぞ」
突然腕を掴まれたセレナは一瞬目を瞬かせたが、取り乱すことなく彼の手を静かに外した。
そして一歩距離を置き、改めてアルフレッドと向き合う。
「殿下、ご心配には及びません」
その声音は、どこまでも穏やかだった。
「わたくしは十分に考えた上で、この結論に至りました」
あまりにも落ち着き払った態度に、アルフレッドは言葉を失う。
「わたくしは、殿下の恋路を妨げるつもりは毛頭ございません」
「違う!」
アルフレッドは思わず声を荒らげた。
「君はエミリアに嫉妬するあまり、冷静な判断ができなくなっているだけだ!」
その言葉に、セレナは小さく息を吐いた。
婚約者がいながら他の女性を優遇し、その相手に嫉妬されていることまで自覚している。
それでいて、自らの行いを省みようとはしない。
どこまで身勝手なのだろうか。
もっとも――。
嫉妬とは、相手を恋い慕う気持ちがあって初めて生まれる感情だ。
だが、そのような感情をセレナは抱いたことがなかった。
婚約者として信頼し、敬意を払おうとしていただけ。
その信頼は、アルフレッド自身の行いによって、少しずつ壊されていったのだ。
「殿下を恋い慕っていたわけではございません」
静かな声が夜の静寂に溶ける。
「婚約者として信頼し、敬意を払っていただけです」
アルフレッドの表情が固まる。
「ですが、その信頼は殿下ご自身が失われました」
「違う!」
アルフレッドは思わず一歩踏み出した。
「君は私だけを見ていたじゃないか!」
焦りを滲ませた声だった。
「私がエミリアと話すたび注意していただろう! あれは嫉妬じゃないのか!」
「いいえ」
セレナは静かに首を横へ振る。
「わたくしは婚約者として、節度ある振る舞いをお願いしていただけでございます」
一切の迷いなく言い切る。
「婚約者という立場にありながら、他の女性と必要以上に親しく接することは、社交界では誤解を招く行為です」
その瞳は真っ直ぐアルフレッドを見据えていた。
「わたくしは、そのことを何度かお伝えしただけです」
アルフレッドは何も言い返せなかった。
思い返せば、セレナは一度たりとも「エミリアと話さないで」とは言っていない。
ただ、婚約者として相応しい距離を保ってほしいと願っていただけだった。
それを、自分は嫉妬だと思い込み、聞く耳を持たなかった。
「ですので」
セレナは穏やかに微笑む。
「婚約解消後、殿下がエミリアと婚約なさろうと、あるいは別のご令嬢をお選びになろうと、わたくしが口を挟むことは一切ございません」
そう言って、ゆっくりと一礼した。
「どうか、お幸せになってくださいませ」




