4話
隣人から逃げるように部屋に戻った後、そのまま眠ってしまったらしい。
変な時間に眠ってしまったせいで、普段よりも一時間早く起きてしまっていたが、隣人と顔を合わせづらかったので、二度寝せずそのまま支度を始めることにした。
ゴミ出しに来た隣人と会わないように部屋を出る時間をずらし、職場までの道を自転車で漕いでいく。
おかげで隣人と鉢合わせることはなかったけれど、僕の心はずっと落ち着かないでいた。
普段よりも早い時間に職場に着いたせいで、マスターに「どうしたの? 今日は早いね」と驚かれてしまい、思わず苦笑いをしてしまった。
素直に「変な時間に起きてしまって、眠れなくて早く来てしまいました」と伝えると、マスターは納得してくれたみたいだった。
そこから営業時間になるまで店内で過ごし、外のドアノブのプレートに裏返してから、いつもと同じように接客をしていく。
常連のお客さんや、この間から来てくれるようになった新規のお客さんの注文を聞きながら、僕は少しずつ、昨日の失態のことを記憶から消していこうと努めた。
それから一カ月が経った。
隣人と鉢合わせないように出勤時間をずらしていたら、いつの間にかずらした方の時間に自然と起きるようになってしまったり、洗濯をしたらズボンのポケットから紙の繊維が出てきて、メモを捨て忘れたことに気付いたりと、ちょっとしたことはあったけれど、概ね大きなトラブルは起きずに日々は過ぎた。
本日の営業時間も終わり、スーパーに寄って帰ろうと自転車を漕いでいく。
僕から避けられていることに気付いているのか、隣人から昼食の弁当をおすそ分けしてくれることもなくなっていた。
そのため、僕はおすそ分けされる前の、スーパーに寄って総菜を買ったり、カップラーメンで済ませたりする食生活に戻っていた。
総菜コーナーにあるコロッケを手に取り、いくつかの他の商品を入れたカゴをレジに持っていって会計を済ませる。買った商品を詰め込んだエコバッグを自転車のカゴに入れてアパートまでの道を漕いでいく。
帰りも隣人と鉢合わせにならないよう、ゆっくり買い物をするよう意識しているので、空も随分と暗くなっていた。
アパートに着いて自転車を停め、カゴからエコバッグを取り出してアパートの入り口をくぐる。
そのまま入り口近くの階段を登っていくと、二階の僕の部屋の前に誰かが座り込んでいるのが視界に入った。
俯いていて顔は分からなかったけれど、髪をポニーテールにした姿には覚えがあった。スタッフの中では数少ない、すれ違う時に挨拶してくれる女性スタッフだ。
体調が悪いのだろうか、と駆け寄ろうとすると、突然その人はすっと立ち上がる。
いきなりの出来事に、僕は踏み出しかけた足を止めて、その場で固まってしまった。
立ち上がったその人は、ゆっくりと僕の方へと身体を向ける。
そして、僕の顔をじっと見て、にこりと微笑んだ。
「――こんばんは」
誰に言ったのだろうかと辺りを見渡したが、周りには僕しかいなかった。
「……こんばんは。あの、大丈夫ですか。座り込んでいましたけど……」
僕が尋ねると、その人は表情を崩さず「大丈夫です」と口にする。
その様子に、どうしてだか既視感を覚えた。
――この女性を、どこかで見かけたことがある気がする。このアパート周辺ではなく、別のところで。
一体どこだろうと思考を巡らせていると、その人は小さく頭を下げた。
「この間はごめんなさい」
「……何の話でしょうか」
急に謝罪され、何のことかと首をかしげる。
「あんなところに連絡先を入れても、警戒されてしまいますよね。本当なら、直接渡さないといけなかったのに、あなたが仕事中だったので声をかけられなかったんです……」
連絡先と聞いて、思い当たるのは一カ月ほど前に自転車のカゴに入っていた、折りたたまれた紙のことだった。
洗濯してクシャクシャになってしまったので、結局誰の物か分からなかったけれど、どうやら持ち主はこの人だったらしい。
そして、この人の言い方から考えるに、あの紙はゴミではなく、正真正銘僕に渡そうとしたものだったようだ。
本当に僕宛てだったんですか、と口にする前に、目の前の女性は再び話し始める。
「ここ一カ月ほどは、出勤も早かったですよね。だから、朝に見かけることはなかったんですけど……よかった、ちゃんと帰ってきてくれて」
ポニーテールを解き、目の前の人は笑いかける。
「ね、一緒にこんな場所抜け出しましょう?」
はらり、と重力に従って解かれた髪が、肩の下ほどまで落ちる。
髪を下したその人を見て、ようやく既視感の正体に気付いた。
ここしばらく僕の働く喫茶店に来ていた、若い女性のお客さんだ。
運営の仕事をしている時のポニーテールばかりが印象に残っていて、喫茶店でのワンピースを着て髪を下した姿と今まで結びつかった。
――うちのスタッフの何人かが、外で食べたとか食欲がないとかで、昼食用のお弁当が余ってしまったんです。
今更、隣人が言っていた言葉が頭によぎる。
そういえば、例の女性が喫茶店に来ているのもお昼時だった。
隣人が「余った」と言っていたいくつかのお弁当の一つは、この女性の分だったのだろう。
「初めて見た時思ったんです。これは運命だって。私がここで働いていたのは、あなたに会うためだったんだって」
一歩足を進めて、その人は僕の手を握る。
どこかうっとりとした表情に、僕は見覚えがあった。
――私には、あなたしかいないの。
グッと、喉が詰まり、足がすくんで身体が動けなくなる。
僕は目の前の女性から迫られたことはない。そのはずだ。
それなのに、この経験に覚えがある。
底なし沼みたいなその人の目に映る僕は、顔が引きつっていて、恐怖を感じているみたいだ、なんて頭のどこかで冷静な分析もしてしまう。
早く部屋に入らないと、と思うのに、足が一歩も動かない。
握られた手が痛みを伴い始めた頃、ふいに僕とその人に影が落ちる。
ゆっくり顔を上げると、僕の手を握るその人の背後に、隣人が立っているのが見えた。
一カ月ぶりに見た隣人は、あの日僕に忠告をしてくれた時のような無表情をしていた。
「……私も今の職場を辞める。だから、あなたもあの職場を辞めて、私たち二人のことを知らない土地で、新しい生活を始めましょう?」
女性は何かを話し続けているが、僕は隣人から目を逸らすことが出来なかった。
「……ねえ、どこ見てるの? ――ヒッ」
そこまで言って、その人はようやく、自分の後ろに同僚がいたことに気付いたらしい。
僕の視線に気付いて、振り返ったその人は小さく悲鳴を上げる。
表情をどこかに置き忘れたような隣人は、僕とその人の視線を受けながら、どこか事務的に口を開いた。
「最初に言われてましたよね。会場付近に運営とは無関係の住人がいますが、不必要な干渉は控えるようにと」
そんな約束を設けていたのか。
隣人としての付き合いがある彼は除外して、確かにその人以外からは声を掛けられることはなかったことを思い出す。
一歩足を進め、隣人は無表情から一転して笑顔を浮かべる。
「私、ルールを無視する人、嫌いなんですよね」
そう言って、笑顔のままその人の腕を掴んだ隣人の姿を見て。
ああ、この人は本当にデスゲームの運営スタッフなんだと、今更ながらに実感した。




