3話
それからの隣人は、夕飯どきに余った昼食の弁当を時々おすそ分けしてくれるようになった。
一人暮らしでお金を自分でやり繰りしている以上、食費が一食分浮くのはありがたい。
こちら側が貰うだけでは悪いので、隣人に「何か欲しいものはないか」と尋ねたら「特にないですね」と微笑まれて詰むことになった。
僕が言えることではないけれど、最近の若者は物欲がないのだろうか。
「欲しいものができたら教えてください」と伝えてこの話は一旦終わった。
職場の喫茶店でも、特にトラブルも起こることなく日々が過ぎている。
職場に来てくれるお客さんは、マスターの昔なじみの常連がほとんどだし、昭和レトロを求めて来た若い人たちも、周りに配慮して撮影しているので、店員として何か注意する場面もなかった。
一つ変わったことといえば、最近は定期的に来てくれる若い人が一人増えたらしい。
「気に入るところがあったのかもしれないね」とマスターは嬉しそうだった。
確かに、以前見た肩の下まである髪とワンピースが印象的な女性を、お昼ごろの店内で何度か見かけるようになった。マスターの言う通り、きっと気に入るところがあったのだろう。
街で見かけても声をかけるほどの仲ではないけれど、これからも来店してくれるのなら、顔を覚えておこうと思った。
そんな日常に少し変化が起きたのは、それから一週間後のことだった。
今日の仕事も無事終わり、職場の裏に回って自転車のところまで向かうと、自転車のカゴに折りたたまれた紙が入っているのが見えた。
僕が朝に乗ってきた時にはなかったはずだ。
気になって紙を開くと、そこには誰かの携帯番号が書かれていた。他のこと、例えば名前だとかメッセージだとかは一切書いていない。
……何の連絡先だろうか、という疑問が初めに浮かぶ。
せめて他に何か書いていれば推理できる余地はあるのだが、連絡先だけだと、実際にここに電話をかけるくらいでしか答えを得られない気がする。
いや、そもそもここに停めてある自転車が僕のだと分かっている人もあまりいないように思うから、僕宛てかどうかも怪しいものだ。
しばらく考えて、誰かのメモ書きだから電話番号しか書いていないのではないかという結論に達した。
人から電話番号を聞いた時、一旦紙にメモをとり、後で電話番号を登録したので不要になった紙、というのが一番ありそうに思える。
だからきっと、この紙はいらないもの――つまりゴミなのだろう。
このあたりではないと思っていたが、停めてある自転車のカゴをゴミ箱代わりにした人がいたのだろうか。
飲み終わった缶とかくしゃくしゃになったビニール袋とかだったらゴミだと一目で分かるのだけど、折りたたまれた紙だと判断がしづらかった。
ただ、ゴミだと結論付けたとはいえ、ここで僕がポイ捨てをしたらこの紙を捨てた人と同類になってしまう。
――ルールを無視する人は嫌いですね。
思い出した隣人の言葉も、僕の行動の後押しをしてくれた。
今日は帰りにスーパーに寄って食材を買い込もうと、自転車にまたがる。
そのまま自転車に乗って、僕はアパートのある場所とは違う方角の道を漕いでいった。
買い物を済ませてアパートに戻ってくると、外で空を眺めている隣人とばったり会った。
隣人につられて上を見ると、太陽は沈み切って藍色の空に星が瞬いている。
いつの間にか、夜も更けていたらしい。
周りを見渡しても、他の運営スタッフの姿はない。残っているのは、このアパートに住む唯一の隣人だけのようだった。
顔を会わせたことなので「こんばんは」と声をかける。
その声で僕の存在に気付いたらしく、隣人は少し驚いたようにこちらを見た。
「……こんばんは。あれ、今日は遅かったですね」
確かに、普段よりも今日の僕の帰宅時間は遅い。だけど、二〇一号室に人の気配がなかったら、僕が帰宅していないことは分かるのではないだろうか。
一瞬そう考えたけれど、防音の地下で仕事をしているのなら、僕がいつ帰宅しても分からないのかもしれないと思い直す。
とりあえず返答として「確かにいつもよりは遅いですね」と返すと、隣人は困惑した表情を浮かべた。
「……あの、気を付けてくださいね」
「そうですね。この辺りは、特に夜になると人けがないですからね」
デスゲームの会場として選ばれるだけあって、このアパート周辺を通る人は数えるほどしかいない。それこそ、日が落ちてからは、デスゲームの運営スタッフか住人の僕くらいしか、出歩いている人は見かけない。職場のある通りと比べると、本当に静かな場所だな、としみじみ感じていた。
僕の言葉を聞き、隣人は一度息を吐いてから、再び上空を見つめる。
その様子を見て、僕は疑問に思ったことを隣人に尋ねた。
「星、好きなんですか?」
僕の質問に、隣人は僕に視線を向け、少し考え込んだそぶりをしてから、ゆっくりと首を横に振る。。
「……胸を張って好きとは言えないレベルですかね。見るのは好きですけど、あの星がどんな名前かは分からないので、雰囲気で見ていることが多いです。だから、本当に星が好きな人には負けると思います」
「別に、そこまで気負う必要はないと思いますけど」
僕自身、何かが特別好きというものはないが、好きだからその分野に詳しくないといけない、ということはない気がする。なんとなく好きで見ているというのも、好きの一つのように思えた。
「僕には特別好きなものはないので、少し羨ましいです」
ちょうど、隣人への弁当のお礼を考えていたところだ。
思いがけず、隣人の好きなものを知ることができたので、室内用プラネタリウムもいいかもしれない――と考えていた時だった。
「…………前々から思っていたんですけど、もしかして私と友達になりたいとか思っています?」
隣人に指摘されて、僕は考え込む。しばらく考えてから、僕は隣人に返事をした。
「……そうなのかもしれません。職場に来る人は親世代がほとんどで、若い人はめったに来ないので、同世代のあなたとは無意識に仲良くなりたいと思っていたのかもしれません」
「……変わってますね」
僕から視線を外し、隣人がしみじみと言った感じで呟く。「だけど」と、すぐに隣人は僕に向き直って、口を開いた。
「……自分で言うのもなんですけど、友達になるのは止めた方がいいと思いますよ」
そう言って、彼はいつもの笑みを消す。
普段とは違う、彼の無表情な顔から、僕は目が逸らせなかった。
「部外者のあなたには見せないよう配慮しているので、あまり実感はないかもしれないですけど。……私、デスゲームの運営スタッフですよ? 忘れていませんか?」
恐ろしいことを言っているはずなのに、口調はそこまで厳しくない。
彼は、僕の身を案じて忠告してくれている、と感じた。
「人の死にも、何度も立ち会ったことがあります。そんな人と友達になりたいと本当に思いますか?」
隣人の言葉で、頭の中に映像がフラッシュバックする。
カーテンの閉め切られた薄暗い室内。
机の上に置きっぱなしの汚れたままの食器類。
そして、開け放たれた扉の奥に見える、宙に浮いた足。
「僕も、人を殺したことがあります」
「…………え」
隣人の息を吞む音が聞こえて、ハッと我に返った。
「……すいません。仕事柄、人が死ぬ場面を多く目にしているあなたに対してするジョークじゃありませんでしたね。忘れてください」
言い終わると同時に頭を下げて、足早にアパートの入り口へと向かう。
階段を上ってすぐの自分の部屋の鍵を開けて駆け込み、素早く扉を閉める。
その間も、僕の頭は混乱していて、身体には嫌な汗が流れ続けていた。
隣人の驚いた表情が頭から離れない。
なんでこんなことを言ってしまったんだろう、と後悔が募っていく。
――もしかして私と友達になりたいとか思っています?
確かに、僕は隣人と親しくなりたいと思っていたような気がする。
しかし、それは彼が、デスゲームの運営スタッフという特殊な仕事に就いていたからだ。
――人の死にも、何度も立ち会ったことがあります。そんな人と友達になりたいと本当に思いますか?
普通なら思わない。
だけど、僕は普通ではなかったから。
仕事柄、人の死に何度も立ち会っている隣人なら、普通じゃない僕も気負うことなく親しくできると思ったのだ。
――浅ましい。相手に対して失礼だ。
もう一度、僕の言葉で驚いた隣人の表情を思い返し、ベッドに身体を預けて目を閉じる。
きっと、隣人の方が僕よりもよっぽど人間らしい感性を持っている。
ポケットに入れていたメモを捨て忘れたことに気付いたのは、週末の洗濯でクシャクシャの紙の繊維が出てきたのを見つけた時だった。




