2話
しばらく部屋で時間を潰してから、職場に向かおうとアパートの駐輪場に止めていた自転車に乗り、ペダルを漕ぐ。
十分ほど自転車を走らせると、職場である喫茶店へとたどり着いた。
ドアノブにかけられた「準備中」のプレートを横目に、僕はドアノブをひねって中に入る。
店の奥にいたマスターに挨拶をして、僕も開店の準備の手伝いに加わった。
僕の働く喫茶店は、現在五十歳になるマスターの祖父が始めたもので、今だと「昭和レトロ」と呼ばれるような昔ながらの木造建築のお店だった。
訪れるお客さんも、先代のマスターからの昔なじみの常連がほとんどだ。SNSで見かけたのか、時々若い人たちが来ることもあるが、大体は一回きりなので、覚えなくてはいけない顔が増えることもない。
繁盛している人気店というわけではないが、適度にお客さんが来店する落ち着いた店で、僕はかなり気に入っていた。
おおかた準備も終わったところで、仕事着であるエプロンをつけ、外のドアノブにかけられた「準備中」のプレートを「営業中」に裏返す。
しばらくすると何組かお客さんが来店したので、いつも通り接客をしていった。
常連のお客さんも、今年の春から店員として働き始めた僕のことを覚えてくれているようで、注文を聞きに向かうと「こんにちは」と笑顔を見せてくれるようになった。
「今日もカッコいいねえ」とお世辞を言ってくれるお客さんに「ありがとうございます。あなたも綺麗ですよ」なんて返しながら、次々に注文をさばいていく。
お昼前に一度休憩に入って戻ってくると、いつも通りの顔ぶれの中に珍しく若いお客さんがいることに気付いた。きっと僕の休憩中に来店したのだろう。肩の下まである髪をしたワンピースの女性が、窓際の席に一人で座っていてマスターの淹れたコーヒーを飲んでいる。コーヒーを飲み終わったところで僕と目が合い、頭を下げてくれたので、僕もお辞儀を返した。
定期的に入れ替わっていくお客さんを眺めながら、コップを洗ったりテーブルを掃除したりしていると、いつの間にか営業時間も終わっていた。特にストレスのかかることもなかったので、やはり僕にはこの職場は合っているのだと思う。
「外のプレート変えてくれる?」とマスターの声に、僕は「はい」と答え、扉を開けてプレートに手を伸ばす。
本当なら「本日の営業は終了しました」と書かれているようなプレートがあるといいのだろうけれど、残念ながら「営業中」のプレートの裏は「準備中」なので、裏返して「準備中」にして終了の意志を示した。
戻ってくると、「今日もありがとうね」とマスターに微笑まれる。
僕も「こちらこそ、本日もお疲れ様でした」とお辞儀をし、エプロンを外した。
ニコニコとしたマスターを見て、高校卒業後の引っ越し先にこの喫茶店があってよかったと、しみじみと思った。
僕がアパートを契約する前、まだ高校在学中だった頃に、この喫茶店の存在を知った。
休みの日を利用し、働く場所を探して街を歩いていた時に、スタッフ募集のチラシが窓に張られていることに気付き、応募したのがきっかけで、僕はこの喫茶店の店員としてお世話になっている。
不採用になったら、また次の休みを利用して仕事探しの旅に出かけなくてはいけなくなるところだったので、採用してくれたマスターには感謝していた。
帰る準備を終え、マスターにもう一度「ありがとうございました」と頭を下げてから職場を出て、裏に停めていた自転車にまたがる。
職場からアパートに向かう道のりには、点々と街灯は設置されているものの、近くにコンビニや住宅などの建物はないので、遅い時間になるとそれなりに暗い道を漕いでいくことになる。アパートの駐輪場に自転車を停め、ライトを消すと、アパートからの光くらいしか光源がなくて少しだけ不安になった。
本当にここで定期的にデスゲームが開かれているのかと疑うくらい、辺りはしんと静まり返っている。
アパートの入り口をくぐると、まだ運営スタッフも残っていたみたいで、一階の奥の暗がりから誰かが歩いてくるのが見えた。
近くまでその人が来て、それが隣人ではないことに気付く。そもそも性別から隣人と違っていた。
髪をポニーテールにした女性のスタッフは、僕をすれ違う瞬間、薄暗い中でにこりと微笑んで口を開いた。
「――こんばんは」
挨拶されて、少し驚く。アパート内で時々スタッフとすれ違うことがあっても、「コイツここに住んでいるなんて正気じゃないな」という目で見られるだけで、普段は隣人以外に挨拶されることはなかったのだ。
ただ、別に挨拶自体が悪いことではない。今まで会っていなかっただけで、きっとこの人は誰に対しても挨拶をするタイプなのだろうと結論付ける。
「こんばんは」
とりあえず、職場でお客さんに挨拶するように声をかける。
それ以上は何も話すこともなく、髪をポニーテールにしたその人は通り過ぎていった。
そのまま自分の住む二〇一号室の扉を開けて、荷物を一旦リビングに置いてから、風呂場に向かって浴槽に湯を入れ始める。湯を溜めている間に夕飯を食べるのが、僕の帰ってからのルーティーンだった。
今日は帰りにスーパーに寄っていないので、夕飯は冷蔵庫にあるものかカップ麺になる。
何を食べようと悩んでいると、部屋のチャイムが鳴って、思わず身体がびくりと跳ねた。
こんな時間に誰だろうと、恐る恐る玄関まで向かってスコープで覗くと、そこには知っている顔が立っていた。
誰が分かったので扉を開けると、隣人は「こんばんは」と言い、朝と同じように微笑む。
ただし服装は、朝見た時とは違い、上は白いシャツに紺のジャケット、下は黒のスラックスをはいていた。オフィスカジュアル、という単語が瞬時に頭に浮かぶ。
会社で「この色が望ましい」などの服装の規定があるかは分からないが、全体的に清潔感があり、隣人に似合うなと思った。
「……こんばんは。どうしたんですか」
「急にごめんなさい。もう夕飯って食べましたか?」
「いえ、まだです」
僕の返事に、隣人は「それなら」と、片手に持っていたビニール袋から長方形のプラスチックの箱を取り出す。瞬間、おいしそうな匂いが鼻をくすぐった。
「うちのスタッフの何人かが、外で食べたとか食欲がないとかで、昼食用のお弁当が余ってしまったんです。私一人では食べきれないので、よければ一ついりませんか?」
「……じゃあ、いただきますね」
別の職場で用意された弁当を貰うのは気が引けたが、「食べきれない」と言われたら断りづらい。このままだとカップ麺あたりになるところだったので、代わりに食べられるものを貰えたなら感謝するべきなのだろう。
「ありがとうございます」と弁当を受け取った僕に、隣人は「助かりました」と微笑んだ。
やはり人畜無害そうな顔だと思う。これで人に言えるような職業だったなら、合コンで無双していたんじゃないだろうか。そう思うくらい、目の前の男からは死の匂いが感じられない好青年に見えた。
借りができてしまったな、と思いながら「そういえば」と、僕は貰った弁当を一旦棚の上に置いてから尋ねた。
「あなたには、こういうことをされると許せない、みたいなものはありますか?」
「急ですね」
「いえ、ずっと聞きたいとは思っていたんです。同じアパートに住む者同士、なるべくなら嫌われたくはないので。許せないことがあれば、それをしないようなるべく気を付けたいと思います」
僕の言葉に、隣人が目を細めて真面目な表情をした。
「……別に私は、例えあなたの行動に許せない点があったとしても、あなたを地下に送るような立場にはありませんよ」
地下、と言われてドキリとする。
このアパートの地下で、どんなデスゲームが行われているかを僕は知らない。
「ゲーム」とつくくらいだから、勝者と敗者がいると思っているけれど、戦う相手が参加者同士なのか、それとも参加者全員対運営なのかも、僕には分からなかった。参加者同士なら生き残りは帰されるのかもしれないが、運営側が相手だとしたら、まず運営側が負けることはないと思うので、参加者側が全滅するのだろう。
いずれにせよ、生存率は低そうだと思う。特別頭がいいわけでもなく、運動能力に長けているわけでもない僕は、すぐに死んでしまうことだろう。
――地下に送られて、なすすべもなく死ぬ自分の姿を想像しようとする。
しかし、肝心のデスゲームでどんなことをしているのかを知らないので、上手く想像できなかった。
「……別に、あなたに媚びたいわけじゃないんです。さっきも言った通り、同じアパートに住む者同士、何の不和もなく暮らしたいだけなので。あと、あなたの安心のためにお伝えしておくと、僕は高校生の時に両親が死んでしまってからは天涯孤独です。仮に僕が行方不明になっても、誰も探しには来ないので、許せなくなったら上に報告して好きに送ってください」
「ついでみたいなノリで恐ろしいことを言いますよね」
ちなみに高校時代の同級生や先生にも僕の引っ越し先は伝えていない。きっと僕が消えたこと自体にも気付いてくれないだろう。そうなるように動いたのは僕なのだから、あとは自分の責任でこれからの人生を生きていくしかないのだ。
僕の言葉をどう受け取ったのかは分からないが、訝しげに僕を見ていた隣人は、一度大きく息をついた。
「……そうですね。唯一のお隣ですから、仲良くするに越したことはないですからね。強いて言うなら……」
そこで一度言葉を区切り、隣人はじっと僕の目を見つめる。
普段目を細めて笑みを浮かべているからか、彼の開いた目に息を呑んでしまった。
「――ルールを無視する人は嫌いですね。私の仕事のことは置いておいて、定められたルールを無視するのは人としてどうかと思うので、仕事外でそういう人を見かけたら制裁を加えたいと思ってしまいます」
……ゴミ出しの曜日を間違えても同じように怒るのだろうか。
元々破る方ではなかったが、これからは一層気を付けようと思った。
「これで、満足できる回答は得られましたか?」
一度まばたきをして、隣人はいつもの微笑みを口元に浮かべた。
「……はい、ありがとうございます」
僕の言葉に、隣人は「よかったです」と口にして、一歩後ろに下がる。
「お弁当、受け取っていただきありがとうございました。それでは、また明日」
そして僕の視界から消え去った隣人に「また明日」と声をかけたが、隣人の耳に届いたかは分からなかった。




