第八話「合宿、黒塗りのセダン来たる」
引き継ぎお楽しみください
【ナレーション】
七月。
梅雨が明け、夏が本番を迎えようとしている季節。
市立第三中学校では、一年生恒例の行事が近づいていた。
林間学校。三泊四日。
山の自然の中で、飯盒炊爯、ハイキング、キャンプファイヤー、肝試し。
クラスメートとの絆を深め、自立心を育む——
そういう趣旨の行事である。
中学一年生にとっては、初めての宿泊行事。
みんな楽しみにしている。
太郎も、楽しみにしていた。
家から離れられる、という意味で。
「三泊四日、静かに過ごせる」
太郎がそう思ったのは——
出発の前日までの話だった。
◆ 合宿前日の夜。佐藤家・リビング。
「荷物まとめた?」
父が聞いた。
「できてます」
「着替えは?」
「入れた」
「虫除けは?」
「入れた」
「懐中電灯は?」
「入れた」
「じゃあ大丈夫だな」
太郎は満足してリビングのソファに座った。
明日の朝、学校に集合して、バスで山へ向かう。
三泊四日、学校の先生と同学年の生徒たちと過ごす。
偉人たちのいない、普通の時間。
「……久しぶりに普通の生活ができる」
太郎がぼそっと呟いた。
「太郎殿」
秀吉が隣に座ってきた。
「なんですか」
「合宿、楽しんでくるのだぞ」
「はい」
「友達たくさん作るんじゃぞ」
「頑張ります」
「飯は残さず食うんじゃぞ」
「食います」
「困ったことがあれば——」
「大丈夫です」
秀吉がにこっと笑った。
「……寂しくなったら帰ってこい」
「三泊四日で寂しくなりません」
「なるかもしれん」
「なりません」
「……拙者は寂しいぞ、もう」
「まだ行ってないですよ!!」
謙信が静かに近づいてきた。
「太郎」
「謙信さん」
「山に行くのか」
「はい、林間学校で」
謙信が少し遠い目をした。
「……山か。越後の山を思い出す」
「そうですか」
「山は義がある」
「山に義があるんですか」
「ある。どんな天気でも、どんな季節でも、山はそこにある。それが義だ」
太郎は少し考えた。
「……謙信さんの義の概念、だいぶ広いですね」
「義は広い。それが義だ」
「義で義を説明しないでください」
謙信が、懐から何かを取り出した。
ポンタカード。
「……持っていけ」
「山にコンビニはないですよ!!」
「お守りだ」
「前も言いましたよそれ!お守りじゃないですよ!!」
信玄が台所から顔を出した。
「太郎、明日の朝飯は早めに食べるか」
「集合が七時なので、六時には起きます」
「わかった。五時半に準備する」
「早い!でもありがとうございます」
信玄がうんと頷いた。
「山に行くなら、腹を満たしてから行け。山は体力が要る」
「はい」
「行動食は持ったか」
「あ……持ってない」
「待ってろ」
信玄が台所に消えた。
五分後、小さな袋を持ってきた。
「干し柿と、おにぎりを二個作った。途中で食え」
「信玄さん、今から作ったんですか」
「すぐ作れる」
「……ありがとうございます」
「山で倒れるな」
「倒れません」
ナポレオンがスマホから目を離して言った。
「太郎」
「なんですか」
「三日間、ランキングの防衛を頼む」
「俺が行かないのにどうやって!?」
「ゲームを誰かに任せる」
「誰に!?」
「信長が適任だ」
「俺か」と信長。
「信長殿にお願いします!」とナポレオン。
「……わかった」と信長。
「仲いいな二人!!」
太郎が叫んだ。
ナポレオンが太郎を見た。
「太郎、山で遭難するな」
「しません」
「遭難した場合の行動は——」
「ナポレオンさん、林間学校で遭難はしないですよ」
「備えあれば憂いなし。戦略的思考を持て」
「山の中で戦略はいらない!!」
クレオパトラが本を置いた。
「太郎、少しいい?」
「はい」
「三泊四日、初めての外泊ね」
「まあ、学校行事ですけど」
「集団生活で大切なことがあるわ」
「なんですか」
「人を観察しなさい。どんな人が信頼できるか、どんな人が頼りになるか——集団の中でこそわかることがある」
「……政治の話ですか」
「人間関係の話よ」
太郎が少し考えた。
「……まあ、観察は得意かもしれない。毎日六人観察してるので」
クレオパトラが珍しく声を出して笑った。
「そうね。いい訓練になってるわ」
「訓練とは思ってなかったけど」
「なってるわよ、確実に」
信長が無言で太郎の前に立った。
「なんですか、信長さん」
信長が、何かを差し出した。
小さな、古びた——なんというか、お守りのような布きれだった。
「……これは?」
「……護符だ」
「護符」
「昔、持っていたものだ。山に行くなら持っていけ」
太郎がそれを受け取った。
小さくて、古くて、でもなぜかしっかりした作りだった。
「……信長さん、これ大事なものじゃないですか」
「……今は大事ではない」
「そんなことは——」
「持っていけ」
信長が太郎から目をそらした。
「……帰ってきたら返せ」
太郎はそれを、しっかりと手に握った。
「……ありがとうございます」
信長が何も言わずに部屋に戻っていった。
さくらが太郎に抱きついた。
「お兄ちゃん、寂しい!!」
「三泊四日だよ」
「長い!!」
「大丈夫だよ」
「お土産買ってきて!!」
「買ってくるよ」
「信長と一緒に待ってるね!」
「さくるは信長に懐きすぎだよ」
「だって信長かっこいいもん」
「そうですか」
「かっこよくないの?」
「……かっこいいとは思いますよ」
「でしょ!!」
さくらが笑った。
太郎も笑った。
【ナレーション】
こうして、合宿前夜は過ぎた。
太郎は布団に入って、明日のことを考えた。
三泊四日。
静かな時間。
普通の時間。
早く寝よう、と思った。
そして——眠った。
この時点では、翌日に何が起きるか、まだ知らなかった。
◆ 翌朝。午前五時三十分。
「太郎、起きろ」
信玄の声で目が覚めた。
「……うん、起きた」
台所に降りると、朝ごはんが用意されていた。
白米、味噌汁、焼き魚、卵焼き。
「信玄さん、豪華すぎません?」
「山に行く前だ。しっかり食え」
太郎が食べ始めた。
リビングはまだ暗く、みんな寝ている時間だ。
信玄だけが起きて、台所に立っていた。
「信玄さんは、いつも早起きですね」
「習慣だ。夜明け前に起きる」
「武将って早起きなんですか」
「戦は夜明けから始まることが多い。早起きは基本だ」
「……信玄さん、合宿中、俺のことが心配ですか」
信玄が少し黙った。
「……心配ではない」
「そうですか」
「……心配ではないが」
「ではないが?」
「……しっかり食えと言っている。それだけだ」
太郎は、信玄が心配しているのだと理解した。
何も言わなかった。
黙って、全部食べた。
「ごちそうさまでした」
「行ってこい」
「はい」
◆ 午前六時五十分。市立第三中学校・正門前。
生徒たちが続々と集まってくる。
大きなリュック。寝袋のケース。テンションが高い。
木村が駆け寄ってきた。
「佐藤!おはよう!」
「おはよう」
「楽しみだな!肝試し!」
「まあ」
「テンション低くない?」
「いや、楽しみだよ」
本当に楽しみだった。
普通の時間が、楽しみだった。
田村先生が点呼を取り始めた。
「えー、全員揃ったら——」
そのとき。
校門の外から——音が聞こえた。
低く、重い、エンジン音。
太郎の背筋が、ぞわっとした。
この音——
振り返った。
校門の外に、一台の車が止まった。
黒塗りのセダン。
ピカピカに磨かれた、威圧感のある高級車。
運転席から、エプロン姿の男が降りてきた。
武田信玄だった。
「なんで!!」
太郎が声を上げた。
信玄が助手席のドアを開けた。
「全員、降りろ」
ドアが開いた。
「着いたぞ!!」
秀吉が飛び出した。
「……到着した」
謙信が降りた。
「フン」
ナポレオンが降りた。
「……ここか」
信長が降りた。
「お兄ちゃーん!!」
さくらが降りた。
最後に、クレオパトラがゆっくりと降りた。
「太郎、行ってらっしゃい」
【ナレーション】
佐藤家の全員が——
黒塗りのセダンで、学校に乗り付けた。
しかも全員集合で。
校門前が、静まり返った。
生徒たち全員が、その光景を見ていた。
田村先生が固まっていた。
木村が太郎の隣で、口を開けていた。
「……佐藤」
「……うん」
「黒塗りのセダンで全員来た」
「……うん」
「しかも全員降りてきた」
「……うん」
「なんか映画みたいだった」
「……うん」
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃない」
太郎が走った。
「なんで全員来るんですか!!」
秀吉がにこにこしながら言った。
「太郎殿の晴れ舞台じゃ!見送りに来た!」
「見送りは玄関でいいですよ!!なんで学校まで!!」
「玄関でちゃんと見送っただろう。信玄が」
「それはそうですけど、だからこそ学校まで来なくていいんですよ!!」
謙信が静かに言った。
「……太郎、三泊四日は長い」
「長くないです!!」
「我々には長い」
「俺の気持ちを考えてください!!」
信長が腕を組んで、周囲を見回した。
「……悪くない学校だ」
「今それどころじゃないですよ信長さん!!」
ナポレオンが黒塗りのセダンのボンネットをぽんと叩いた。
「この車で来るのは戦略的に正しかった」
「何の戦略ですか!!」
「威圧感だ。お前の友人たちに——佐藤太郎の後ろ盾は強大だと示した」
「そんな後ろ盾いらない!!中学の林間学校ですよ!!」
クレオパトラが太郎の前に立った。
「太郎、行ってらっしゃい」
「……その前になんで来たんですか」
「見送りたかったから」
「……シンプルな理由だ」
「シンプルが一番よ」
さくらが太郎に抱きついた。
「お兄ちゃん、いってらっしゃい!!」
「……ありがとう、さくら」
「お土産忘れないでね!!」
「忘れない」
さくらが離れた。
信長がさくらの隣に立って、太郎を見た。
「……行け」
「……はい」
「山で油断するな」
「はい」
「護符は持ったか」
太郎はポケットを確認した。
ちゃんとある。
「持ちました」
信長がわずかに頷いた。
「……帰ってきたら返せ」
「帰ってきたら返します」
「……帰ってこい」
「帰ります」
信玄が最後に太郎の前に来た。
「行動食は持ったか」
「持ちました」
「水分補給を忘れるな」
「します」
「無理をするな」
「しません」
「……太郎」
「はい」
信玄が少し間を置いた。
「……楽しんでこい」
太郎は少し驚いた。
信玄が「楽しんでこい」と言うのは——珍しかった。
「……はい」
「それだけだ。行け」
【ナレーション】
見送りが終わった。
全員が黒塗りのセダンに乗り込んだ。
信玄が運転席に戻った。
窓からさくらが手を振った。
「いってらっしゃーい!!」
秀吉が窓から顔を出した。
「太郎殿!!武運を祈る!!」
「林間学校に武運はいらないです!!」
謙信が窓を少し開けて言った。
「……義のある三日間を過ごせ」
「過ごします!!」
黒塗りのセダンが、静かに走り去った。
校門前。
生徒たちが全員、太郎を見ていた。
田村先生が、少し放心した顔で太郎に言った。
「……佐藤くん、あの方々は」
「居候です」
「そ、そうか……」
「全員です」
「……そ、そうか……」
田村先生がメガネを直した。
「……まあ、元気よく送り出してもらったね」
「すみませんでした」
「いや、いいんだ。では——点呼を続けます!」
木村が太郎の隣に戻ってきた。
「……佐藤、あの黒塗りのセダン、どこで借りたんだ」
「知らないです、気づいたら家にあって」
「気づいたらあったの!?」
「そういうことが多い家なんで」
木村が少し笑った。
「なんか、かっこよかったけどな」
「かっこよくなくていいんですよ」
「いや、正直テンション上がったわ。黒塗りのセダンで送り迎えとか、ドラマじゃん」
「ドラマじゃないです、現実で困ってます」
木村が笑った。
「まあ、あれだけ見送ってもらったら——楽しんでいくしかないな」
太郎は少し黙った。
「……そうかもしれない」
「行こうぜ」
「うん」
◆ バス車内。出発。
バスが走り出した。
窓の外を、学校の校舎が流れていく。
木村が隣の席で「肝試し楽しみだな」と言っている。
太郎はシートに身を沈めた。
信長の護符が、ポケットの中にある。
信玄の行動食が、リュックの中にある。
謙信のポンタカードは——
「……やっぱり持ってきちゃってる」
ポケットから出てきた。
いつの間に入れたんだ、謙信は。
【ナレーション】
バスが山へ向かって走る。
太郎は窓の外を見ながら、思った。
黒塗りのセダンで乗り付けた全員のことを。
見送りに来た理由が、全員違った。
秀吉は「晴れ舞台だから」。
謙信は「三泊四日は長いから」。
ナポレオンは「戦略的に正しいから」。
信長は「護符を渡したかったから」。
クレオパトラは「見送りたかったから」。
信玄は「楽しんでこいと言いたかったから」。
さくらは——「お兄ちゃんだから」。
それだけで十分だった。
それだけで十分なのだ、たぶん。
太郎はポンタカードをポケットに戻した。
謙信に返すのは、帰ってからでいい。
窓の外に、山の緑が見え始めた。
◆ 昼過ぎ。林間学校・宿泊施設到着。
「わあー!」
「山の空気だー!」
生徒たちが歓声を上げる中、太郎もバスを降りた。
山の空気が、肺に入ってきた。
緑の匂い。土の匂い。
「……いい」
素直にそう思った。
木村が深呼吸した。
「気持ちいいな!」
「うん」
施設は木造の大きな建物だった。
山に囲まれて、川のせせらぎが聞こえる。
田村先生が案内を始めた。
「男女に分かれて部屋に荷物を置いたら、昼食です。その後、午後はハイキングの予定です」
「はーい!」
太郎は自分の部屋に荷物を置いた。
六人部屋。木村を含む、同じ班の五人と一緒だ。
「いい部屋だな」と木村。
「うん」と太郎。
窓から山が見える。
遠くに川が光っている。
昼食は食堂で、施設の人が作った定食だった。
白米、豚汁、焼き魚、野菜炒め。
「うまい!」と木村。
太郎が豚汁を飲んだ。
「……信玄さんのに似てる」
「え?」
「いや、なんでもない。うまいな、と思って」
「そうだろ!飯がうまいと最高だよな!」
太郎はうんと頷いた。
信玄が言っていた言葉を思い出した。
「温かければ、それでいい」
豚汁は——温かかった。
◆ 午後。ハイキング。
山の遊歩道を、班ごとに歩く。
木々の間から光が差し込んで、鳥の声が聞こえる。
木村がはしゃいでいる。
「佐藤、あの鳥なんだ?」
「ウグイスかな」
「詳しいな」
「信玄さんが——いや、本で読んだ」
「信玄さんって武田さんのこと?」
「あ、うん」
「料理うまいよな、あの人」
「うまいです」
「また食べに行っていい?」
「いつでも」
ハイキングの途中、展望台に出た。
山と山の間に、街が見える。
遠くに、空が広がっている。
太郎がぼんやりと眺めた。
家が——あのあたりの方向だろうか。
今頃、信玄が夕飯を作っているかもしれない。
秀吉が誰かとLINEをしているかもしれない。
ナポレオンがゲームをしているかもしれない。
謙信が瞑想しているかもしれない。
信長がさくらの宿題を見ているかもしれない。
クレオパトラが読書しているかもしれない。
さくらが「お兄ちゃんいつ帰るの」と聞いているかもしれない。
「……佐藤、何見てるの」
木村が隣に来た。
「家の方向かな、と思って」
「ホームシックか」
「違う」
「違うの?」
「……違う、と思う」
「どっちだよ」
太郎は少し考えた。
「……まあ、少しだけ」
木村が笑った。
「正直じゃん」
「うるさい」
「でもいい家じゃないか。あれだけ見送ってくれたんだし」
「……まあ」
「まあって言うけど、顔が緩んでるよ」
「緩んでない」
「緩んでる」
【ナレーション】
夜。
食堂で夕食を食べた。
入浴を済ませた。
消灯前の少しの時間、班のみんなで話した。
「明日のハイキングは長いらしいぞ」
「肝試しは最終日だっけ」
「キャンプファイヤー楽しみだな」
普通の会話だった。
普通の、中学生の会話だった。
太郎はそれが——心地よかった。
消灯。
部屋が暗くなった。
木村がぼそっと言った。
「佐藤、寝れそう?」
「寝れると思う」
「今日楽しかったな」
「うん」
「明日も楽しもうな」
「うん」
しばらく沈黙。
木村の寝息が聞こえ始めた。
太郎はポケットの護符を確認した。
ある。
目を閉じた。
山の夜は静かだった。
虫の声。風の音。川のせせらぎ。
静かで、穏やかな、一日目の夜だった。
【ナレーション】
その頃、佐藤家では——
「太郎殿、今頃どうしておるかな」
秀吉がしみじみ言っていた。
「……寝ているだろう」と謙信。
「飯は食えたかな」と信玄。
「ランキングは守った」とナポレオン。
「……護符を持っていったか」と信長。
「大丈夫よ」とクレオパトラ。
「お兄ちゃーん!!」とさくら。
父がビールを飲みながら言った。
「まあ、太郎のことだから大丈夫だろ」
全員が、それぞれのやり方で——
三泊四日の太郎の不在を、感じていた。
リビングが、いつもより少しだけ——
静かだった。
第八話・一日目、了
次回もお楽しみに




