第三十九話 雨の日の居残り作業と、禁断ワード!?
窓の外では、朝からシトシトと雨が降り続いていた。
六月――梅雨の季節。
いつもなら賑やかな生徒会室は、驚くほど静まり返っていた。
「……よし、これで学校見学会の案内状の仕分け終わり」
机の上に綺麗に整えられた資料の山を見つめ、ソノは小さく息を吐いた。
来月開催される「オープンキャンパス」の準備。
中学生に配る大量のパンフレットや資料の仕分け作業が、現在の生徒会の主な仕事だった。
今日この部屋にいるのは、ソノと玲の二人だけ。
「みんな、それぞれ忙しいみたいだね」
机の向こう側で、玲がハサミを動かしながら苦笑する。
今日のメンバーの不在理由は様々だった。
体育委員長の豪は、雨でグラウンドが使えない運動部たちを体育館に集め、合同室内筋トレの仕切りに駆り出されている。
会計の律は、「雨の日は低気圧で頭痛がする」と当然のように保健室へサボりに行った。
広報の絢は、印刷室でパンフレットを刷りすぎて輪転機を詰まらせたらしく、業者との対応に追われている。
新入生の凌はというと――
先日のドッジボール大会での『危機一髪、密着抱擁イベント』以来、玲の顔を直視することができず、「図、図書室で調べ物をしてきます!」と顔を真っ赤にして逃亡していた。
そして、副会長のサクラは、「当日は雨になるかもしれないので、みなさんが濡れずに移動できる最短ルートを確認してきます!」と、持ち前の生真面目さと健気さを発揮して、一人で校舎内の下見に走り回っていた。
結果として、静かな部屋には雨の音と、紙をめくる音だけが響いている。
「ソノちゃん、本当に手際がいいね。一人でこんなにたくさん進めてくれて、本当に助かるよ。ありがとう!」
ふっと顔を上げた玲が、ソノに向けて柔らかく微笑んだ。
窓から差し込む薄暗い光の中で、玲の端正な顔立ちが優しく綻ぶ。
その姿は、全校生徒を守る聖母のようで、一瞬で人を惹きつける魔性のようでもあった。
どきり、とソノの胸が跳ねる。
(う、美しすぎる……。不意打ちの笑顔の破壊力が、エグい……!)
ソノは慌てて手元の資料に目を落とし、激しく頭を振った。
(ダメダメ、 騙されちゃダメ、私! 如月玲の初期設定は、冷徹で他人に興味がなくて、こんな風に微笑みかけることなんて絶対にないキャラ! これは世界のバグが生んだ幻覚よ!)
静寂と、作業の疲れのせいだろうか。
完全に油断していたソノは、心の中だけで留めるはずだった言葉を、つい小さく口から漏らしてしまった。
「……ほんと、初期設定はどこに行ったの。これじゃ完全に、解釈違いのバグじゃん……」
トントン、と資料を揃えていた玲の手が、ピタッと止まった。
「……え?」
玲の声が、いつもより少し低く響く。
ソノはハッとして顔を上げた。
玲が、真剣な――ゲーム本来の『冷徹生徒会長』のような鋭い眼差しで、じっとソノを見つめていた。
玲(中身アラサー女子)の脳内で、前世のオタクセンサーがビビッと激しく警報を鳴らしていた。
(今……『初期設定』って言った!? それに『解釈違い』に『バグ』って……!?)
「ソノちゃん。……今、なんて言った?」
「えっ!? あ、いえ! 何でもありません!」
ソノは心臓が口から飛び出るほど焦った。
まさか聞こえていたなんて……。
冷や汗が背中を伝う。
「……確かに『かいしゃく』って聞こえたんだけど」
玲が一歩、机を挟んでソノに身を乗り出す。
そのプレッシャーに、ソノは必死でポーカーフェイスを維持しながら、脳をフル回転させた。
「あ、あの! 去年の引き継ぎ資料と、今回のレイアウトの『初期の設計』がちょっと違っていたので……! 今回の見学会の資料は、前年度と『解釈の仕様』が違うようなので、どうしようかなと独り言を……!」
「……解釈の、仕様?」
玲は目を瞬かせた。
「はい! 文脈の、解釈の仕方が……仕様変更されているなと思いまして……!」
必死に一般用語(?)っぽく言い訳を並べるソノ。
それを聞いた玲は、ふっと張り詰めていた肩の力を抜いた。
「あ、あはは! そっちの意味ね! ごめんごめん、私の勘違い! 事務作業のやり方のことかぁ。びっくりした〜。」
「い、いえ! とんでもないです!」
ソノは心の中で激しく胸を撫で下ろした。
(死ぬかと思った……!!! どうにか誤魔化せた!?)
「じゃあ、こっちのパンフレットのチェックもお願いしていいかな? 絢が作ってくれた、新入生向けの生徒会紹介文なんだけど……」
玲が苦笑しながら、一枚の原稿をソノに手渡す。
そこには、絢が執筆した『如月玲会長の素晴らしさとその功績について』という、もはや生徒会紹介ではなく玲への愛と賛美がこれでもかと詰め込まれていた。
それを見た玲は、前世のオタク脳のまま、思わず額を押さえて深い溜め息をついた。
「うーん……。中学生向けにしては、ちょっと私に関する『糖度』と『供給』が多すぎるなぁ……」
ピキッ、と。
今度はソノの身体が、完全に凍りついた。
(……は?)
ソノの脳裏に、ラグビーのタックルを受けたような衝撃が走る。
(糖度? 供給!? 今、この冷徹生徒会長なんて言った……!? オタクが公式からの燃料に対して叫ぶ、あの『供給』のこと……!?)
「あの……玲先輩……?」
ソノの目が、かつてないほど見開かれている。
その尋常ではない視線に、今度は玲がハッとして、自分の口を押さえた。
(アブなーーい!! 文章の甘さと情報量の多さを『糖度と供給』ってセットで出力しちゃった!! 完全に前世のオタクアカウントのツイートじゃん私!! )
「あ、あはは! ごめんごめん! 『温度』と『需要と供給』の供給ね!!」
玲は引き攣った笑顔で、全力で手を振った。
「ほら、絢の文章がちょっと熱烈っていうか、『温度(熱量)』が高すぎるなって言いたくて! あと、中学生が求めている情報(需要)に対して、このパンフレットの情報量(供給)がちょっと多すぎるかな? って言いたかったんだ!!」
「あ……。あはは、なるほど……。温度と経済用語、ですか……。確かに、ちょっと供給過多……ですね」
ソノは引き攣った笑みを返し、それ以上は何も言わなかった。
雨の生徒会室に、再び静寂が戻る。
二人は何事もなかったかのように作業を再開したが、その胸の内は、豪雨のようにお互い大パニックに陥っていた。
(死ぬ!!! 本気で寿命が縮まった……!!! 完全に前世のネットスラングが出ちゃった。でも『温度と経済用語』って言い訳でギリギリ繋がって本当によかった〜! )
(温度と経済用語……!? ちょっと言い訳が苦し過ぎない!? 如月玲、あなた一体――。 もしかして、この世界の最大のバグは、ゲームのシステムじゃなくて……玲、あなたなんじゃ――!?)
書類をめくるソノの手が、カタカタと震える。
バグだらけの生徒会に、ついに「最大の疑惑」という名の嵐が吹き荒れようとしていた。




