第三十三話 バレンタインと、名前のないチョコレート
二月十四日。
一年で一番、学園がそわそわする日。
朝から廊下では小さな悲鳴や歓声が飛び交っていた。
「渡せた……!」
「まだ無理っ!」
「放課後にする!」
紙袋を抱えた女子生徒。
落ち着かない男子生徒。
いつもより少しだけ甘い空気が、校舎中を包んでいる。
そんな中――
(来たぁぁぁ!! バレンタインイベント!!)
玲だけは違う意味で目を輝かせていた。
(恋エグ屈指の神イベント!)
ゲームでは、この日だけ特別な選択肢が現れる。
主人公・サクラが、自分の想いを伝えたい攻略対象を一人だけ選び、手作りチョコを渡すイベント。
選んだ相手によって返事も変わる。
玲は懐かしそうに笑った。
(律は『……甘い物って食べないんだけどさ。サクラのだったらほしい。……ありがと』だったよね。)
思わず一人で頷く。
(豪は『お、俺のために!? すっげぇ嬉しい!』)
(絢は『ありがとうございます。僕のために時間を使ってくださったことが嬉しいです』)
(烈は『へぇ、俺を選んでくれたんだ? じゃあ特別なお返し、しないとな』)
(冴先輩は……あの笑顔は反則なんだよねぇ……。)
玲の頬が緩む。
思い出しただけで尊い。
攻略班として何度見ても破壊力が高かった。
(サクラちゃんは、誰を選ぶんだろう?)
そんなことを考えながら、自分の下駄箱を開けた、その瞬間――
どさどさどさどさっ!!
「わぁっ!?」
色とりどりの包みが雪崩のように足元へ落ちた。
「えっ!? えぇぇぇ!?」
思わずしゃがみ込む。
全部チョコレートだった。
「会長、すご……。」
「何個あるんだ?」
通りかかった生徒たちが目を丸くする。
玲は慌てて一つずつ拾い集めながら笑った。
「みんな、ありがとう!」
胸の奥が温かくなる。
(こんなに応援してもらえてるんだ。)
嬉しい――。
教室に着いて、机を開ける。
「……あ。」
引き出しの中にもチョコレートがぎっしり詰まっていた。
思わず笑ってしまう。
(幸せ者だなぁ、私。)
昼休み。
廊下を歩いていると、小さな声が聞こえた。
「あの……。」
一年生の女子生徒だった。
手には、水色の小さな包み。
けれど、その手は震えていた。
「どうしたの?」
玲が優しく尋ねる。
少女は俯いたまま呟く。
「好きな人に……渡せなくて。」
「勇気、出なかった?」
少女は小さく頷いた。
玲は少しだけ考え、それから笑った。
「勇気ってね――」
少女が顔を上げる。
「渡せた人だけが持ってるものじゃないと思う。」
「え……?」
「渡したいって思えた時点で、その恋は本物だから。」
玲は照れくさそうに笑う。
「今日じゃなくてもいい。」
「タイミングは、自分で決めればいいんだよ。」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、ぎゅっと包みを握り直す。
「……ありがとうございます。」
その瞳には、少しだけ勇気が戻っていた。
放課後。
玲は紙袋いっぱいのチョコレートを抱え、生徒会室へ入る。
「ただいまー!」
「うおっ!」
烈が思わず立ち上がる。
「何だその量!」
「玲ってば……人気者。」
律が少しだけ頬を膨らませる。
「全部食べる気か?」
冴は少し呆れたように言う。
「糖分の摂りすぎには気を付けてください。」
絢が苦笑する。
豪は袋を覗き込み、
「これ全部会長宛て!? すげぇな!」
と目を丸くした。
玲は照れ笑いを浮かべる。
「みんなのおかげだよ。」
その時――。
「失礼します!」
サクラが生徒会室へ入ってきた。
両手には、大きなお皿。
焼きたてのブラウニーから甘い香りが広がる。
「いつもお世話になっているので、焼いてきました! みんなで、お茶にしませんか?」
「賛成!!」
玲が真っ先に手を挙げる。
「俺も!」
「異議なし。」
「いただきます。」
「ちょうど甘い物が欲しかった。」
生徒会室に笑顔が広がる。
温かい紅茶。
焼きたてのブラウニー。
たわいない会話。
笑い声。
窓の外には夕焼け。
(こういう時間が、一番好き。)
玲はそっと微笑んだ。
帰り道。
昼に出会った一年生が、校門の前で誰かを待っていた。
目の前を、一人の男子生徒が通る。
少女は震える手で包みを差し出した。
「これ……!」
男子生徒は驚き、やがて照れ笑いした。
「ありがとう。」
その笑顔を見た少女も笑った。
その光景を遠くから見ていた玲は、誰にも聞こえないように小さく呟く。
「良かった。」
夜、自室。
今日もらったチョコレートを机いっぱいに並べる。
「壮観だなぁ……。」
一つ一つ眺めていると、玲はあることに気付いた。
「あれ?」
名前の書かれていない包みが六つ。
桜色の包みのチョコクッキー。
カラフルなマーブルチョコ。
真っ赤な薔薇柄のトリュフ。
プロテインバー風チョコ。
人気店のいちごミルクチョコ。
シンプルだけれど上質な生チョコ。
「誰だろう?」
手紙も名前もない。
玲は首を傾げた。
「……お返し、どうしよう。」
困ったように笑う。
そして、六つのチョコをそっと並べ直した。
「……ありがとう。」
その言葉だけは、送り主へ届くように――。
窓の外には、冬の星空が静かに広がっていた。




