1-63.瑠璃色の夢
「お待たせいたしました。口座開設が終わりましたので、ご確認願えますか?」
「お、おお。あ、キト、頼む。わかるか?」
「うん、さっき見たから。あ、5……ご?」
「500万ギン以上あるぞ」
「500……万? これ、ぼくの?」
「おう、ありえない大金だ。俺も初めてだ。これでバナーチ食い放題だぞ」
「え……やった。 ……あ、ミックスジュースも?」
「もちろん。約束通り、最初の宿は俺におごらせてくれ。ふかふかベッドだ」
「うん! やった! やったー!」
満面の笑みを弾けさせ、キトはぴょんぴょんと跳ねた。
グエンのモバイルを両手で抱えたまま弾むその小さな身体。
まるで胸の奥に詰め込んでいた喜びが、足先からこぼれ出しているようだった。
その無邪気な姿を、仲間たちは穏やかな眼差しで見守った。
どこか張り詰めていた空気が、ふっとほどける。
大隧道の街のざわめきさえ、今はどこか遠くに感じられた。
「アニキ! チーム結成祝いに、飯! 行きやしょうぜ! 立ち話だけってえのも寂しいじゃねえっすか!」
「あら、いいですね。せっかくですので、皆さんでお祝いしましょう」
「だな。それに、色々あったから、くたびれたよ。ちょうど腹も減ってきたとこだ。
「……あ」
「キト、どうした?」
「あ、あのね……う、ううん、なんでも……」
「なんでぇ!そこまで言ったら言えよキト!」
「わ、わ……」
キトは慌ててエリエラの後ろへ回り込み、その背に隠れた。
エリエラは小さく微笑み、そっとキトの頭を撫でる。
「デラダンさん、少し声が大きいですよ。お上品に、もう一度」
「へぇ? お上品……っすか?」
「ほら、デラダン。お上品にもう一度だ。見せてやれ、お前のお上品っぷりを」
「お上品……。任せてくだせえ、アニキ!」
デラダンは勢いよく地面に片膝をつき、大きな右手をキトへ差し出した。
芝居がかった仕草に、場の空気がわずかに揺れる。
「キトさん、どうしなっすったんでえ。そこまで言いかけたんならよお、んあ!
最後まで言っちまったらどうでえ? 聞くぜえ、このアッシがよお……!」
(んあ!ってなんだ、気合い入れてんじゃねえか。必要なのは気合いじゃなく品だろ)
「ふふふ」
(あ、エリィはいいんだ、今の)
「えと、あの。バナーチ、また食べたくて……あぶ……?なんとかの……」
「おうおう、バナーチといやあ、炙り酒だ! このデラダン様に任せとけ!」
「え……いいの?」
「あたぼうよ! ってえことで、アニキ! 炙り酒で飯にしやしょう! あの店なら間違いないねえっすよ! 姐さんもいいっすか!」
「いいんじゃないか。俺も、あの店の肉料理は気になるからな。例の、肉のカーテン」
「ええ、ぜひ。素敵なマスターがいらっしゃるお店ですね」
キトは仲間たちの顔を順に見回した。
不安げだった瞳が、少しずつ明るくほどけていく。
デラダンはにやりと笑い、キトに親指を立ててみせた。
「決まりだぜ! 行こうぜ、バナーチ!」
「やった!」
キトはまた、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
その軽い足音が、石畳の広場に弾むように響く。
「あ! アニキ、あいつらも一緒にいいすか?」
「あいつらって、どいつらだ?」
「ジアとユイークっす!」
「ああ……あの二人か。いいんじゃないか、デラダンの仲間なら、俺の仲間だ」
「あざーす!」
「やったやった。バナーチ楽しみだな」
「良かったですね、キトさん」
「うん!」
「さて、じゃあ、炙り酒に」
「あ、ぼくが案内するよ! ついてきてー!」
グエンの言葉を待たず、キトは勢いよく駆け出した。
小さな背中が、まるで弾む光の粒のように前を走っていく。
その元気な声に、三人は思わず笑みをこぼした。
「俺たちのガイドについていくか」
「うっす!」
「はい」
グエンたちは、跳ねるように走る小さな背中を追った。
一行は大通りを歩いていた。
ノマドドームの出口へ続く、ドーム中央通り。
ライトベージュのレンガが隙間なく敷き詰められた道の中央で、一台の移動店舗が開店の準備をしている。
黒一色の、古びた三輪型自動車。
翼のように展開された荷台が庇となり、その影の下には色とりどりの香水瓶が並び始めていた。
「まあ、素敵」
「あ、なんかいい匂いする」
エリエラとキトが、ほぼ同時に移動店舗へ振り向く。
そこには、展開された移動店舗と、その傍らに佇む女主人がいた。
彼女は大きなツバのピクチャーハットとイブニングドレスに身を包んでいる。
足先から帽子まで、すべてが漆黒。
だが、帽子に咲くバラだけが、夜に灯る星のように真っ白く輝いていた。
黒いレースベールで目元を隠した女主人が、静かに微笑む。
そして、エリエラへ優雅に手招きをした。
エリエラは導かれるように移動店舗へ歩み寄る。
興味を引かれたキトがその後を追い、気づいたグエンとデラダンも続いた。
その移動店舗は、香水店だった。
翼のように広がった扉の四隅からランプが垂れ下がり、内側の香水瓶を淡く照らしている。
棚に並ぶ色とりどりの香水瓶は宝石のように煌めき、その中央に女店主が静かに佇んでいた。
その姿はまるで、妖艶な夜会に訪れた客をもてなす貴婦人のようだ。
迎えた彼女は、軽く会釈する。
「いらっしゃいませ」
「素敵な香水ばかりですね。お店は、今からですか?」
「はい。夜だけのお店です。束の間ですが、どうぞご覧を」
興味津々のエリエラは、犇めく香水瓶の中から気になる一本を手に取る。
キトはその様子を、物珍しそうに見つめていた。
グエンがその側へ立つ。
煌めく香水瓶に、思わず視線を奪われた。
「すごいな。良い香りなのはもちろんだが、瓶が宝石のようだ」
「ありがとうございます。自慢の子たちですから、ごゆるりと」
「あ、それ、すごくいい匂いするよ」
鼻をヒクヒクと動かすキトが、一本の香水瓶を指さす。
それは瑠璃色の香水瓶だった。
涙型のボトルに、羽を広げた蝶が詮に留まっている。
女主人はその瓶を取り上げ、キトとエリエラの前に差し出した。
「どうぞ、お試しを。この子の名は【瑠璃色の夢】です」
「ありがとうございます」
エリエラは手首の内側に香水を馴染ませる。
しばらく肌から立ち上る香りを確かめると、次に試香紙へ香水を染み込ませた。
(へえ、肌につけて、紙につけて、香りってああやって確かめるのか)
キトとグエンは、エリエラの仕草をじっと見つめている。
二人に気づいた女主人が言った。
「肌につけると温度などで香りが変わるんです。この子たちは生きてますから」
「なるほどなあ。しかし、香水店って匂いがきっついと思ってたけど、ここは全然きつくないね」
「ええ、あえて風通しの良い移動店舗にすることで、普段使いに近い環境を作っています。閉じ込めてしまっては可哀そうですから」
「なるほどねえ」
グエンは女主人の話に耳を傾けながら、香水瓶に見入る。
香りのことはよくわからなかったが、香水瓶の造形的な美しさと、女主人、そして店舗の醸し出す雰囲気が気に入った。
女主人との会話の間にも、エリエラはいくつか香りを試している。
やがてキトが最初に選んだ瓶を手に取り、じっと見つめて思案した。
「俺も嗅いでいいか?」
「はい、どうぞ」
エリィの手首から、香水を香る。
傍で鼻をヒクヒク動かすキトを見て、エリィはキトにも手首を近づけた。
「いい匂い。花と、ランカみたいなの」
「ああ、何かなと思ったら、果物のランカか。華やかだけど、優しく爽やかだ。エリィっぽい」
「まあ、そうですか?」
「チーム結成承諾のお礼だ。俺が買うよ、それ」
「よろしいんですか?」
「ああ。それに、あの場所へエリィを探しに行かなきゃ、あれだけの報酬は手に入らなかった。ささやかなお礼だよ」
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきますね」
「ああ。じゃあ、彼女が持っているのをください。おいくらかな」
「この子は8,000ギンになります」
「支払いは、あ、引き落とせるのかな」
「クエスタの方であれば。お支払いに同意されましたら、こちらで認証を」
彼女は右手にはめたブレスレットのトップを手のひらに乗せ、差し出す。
ブレスレットトップには、楕円形の小さなガラス板がはめ込まれていた。
「これを……どうすればいい?」
「親指の腹を押し付けるように、指ではさんでいただければ」
「へえ、えっと、こうかな」
グエンは恐る恐る手を伸ばす。
彼女の手の上にあるガラス板を、つまむように挟んだ。
「はい、結構です。しばしお待ちを」
女主人は手を引くと、わずかに俯く。
レースベールの内側にかけたグラス型ディスプレイを軽くノックし、決済を進めた。
グエンはすっと後退し、離れて見ていたデラダンの側へ歩み寄る。
そして小声で訊ねた。
「デラダン、これ、どういう原理で金を払ってるんだ?」
「これっすか。アニキのその、襟につけたエンブレムに支払い情報とか入ってるんすよ」
「ほう」
「で、店とかに端末があって、それを読んでるんすね」
「つまり……俺は何も操作しなくても、いいのか」
「そっすね。今の生体認証と、あとは口座に金さえあればでえじょうぶっすよ」
「ほほう」
グエンはすっと元の位置へ戻る。
女店主はすでに香水を紙袋へ包み終えていた。
エリエラに紙袋を手渡し、胸に右手を当てて深く頭を下げる。
「ありがとうございました。また機会がありましたら、ぜひお越しを」
「ええ、素敵なお店でした。ごきげんよう」
「ああ、ありがとう。また」
「またね」
三人は女店主に手を振り、店を後にする。
店から少し離れたところで、デラダンが駆け寄ってきた。
「おつかれさまっす!」
「デラダンも見れば良かったのに、なんで遠巻きに見てたんだ?」
「いやあ、香水なんて見えねえもん、アッシには違いがよくわからねえもんで」
「ははは、なんだそれ」
「ふふふ」
「出口まで、ぼくが案内するね」
キトは小走りで先頭に立つ。
慣れた様子の背に導かれ、グエンたちはノマドドームを後にした。




