1-14.大樹の下で 対白鯨騎士団①
霧がすっかり晴れ渡った快晴の下、世界樹広場はざわめきに満ちていた。
公園の中央、『世界樹』の根元を囲むように、人垣が幾重にも重なっている。
騒動の中心を一目見ようと集まった野次馬たちの視線は、一点に吸い寄せられていた。
その先に立つのは、黒髪の若い女性エリエラ。
黒い軍服に身を包んだ二十人ほどのエンブラ兵に、円陣を描くように包囲されている。
包囲の輪の内側から、細身の女性兵士が一人、前へ進み出た。
他の兵士と異なり、その右肩には大ぶりな黒い羽が据えられ、腕には腕章が巻かれている。
漆黒の布地に描かれた一羽の鴉。
その瞳だけが金糸で縁取られ、鈍く光を返していた。
彼女が、エンブラ兵のレイヴンである。
レイヴンは気だるげに首を傾け、ヘルメットを脱いだばかりで頬に張り付いたショートボブの金髪をかき上げた。
両手を広げ、敵意のなさを誇示するようにエリエラへ向き直る。
その指先では、虹色に彩られたラメだらけのネイルが、陽光を弾いて無遠慮にきらめいていた。
「黒薔薇のお姫様、諦めてくださーい。あーしは、お姫様を保護しに来ましたー」
「わたくしは貴方がたとは何も関係ありません。女王陛下より放逐されたこの身を、如何様な理由をもって保護しようと言うのでしょう?」
「はあ? 理由なんてあーしにわかるわけないじゃん。そういうのはあの若とか、じじい副長が良い感じにしてくれるっしょ。さ、これ以上は面倒をかけずにちゃちゃっと保護されてくださいな」
「そのような言葉を口にする人間を、どうして信用できましょうか」
エリエラは語気を強め、必死に拒むような口調で言い放つと、数歩、後方へ退いた。
白いブラウスに、色彩豊かなスカート。
紅と白、紺や青、山吹色が折り重なり、生命力に満ちた装いだ。
ルビーやサファイアを数珠つなぎにあしらった豪奢な髪飾りが、黒メノウのような深い黒髪を彩っている。
包囲を見渡すたび、髪飾りは揺れ、彼女の動揺を映すかのようにシャラシャラと微かな音を立てた。
その背後には、伝説を名乗るに足る威厳を備えた大樹――バナーバルの世界樹が、動かぬ壁のように根を張っている。
巨大な幹を支え、景観を整えるために、胸の高さほどの石垣壇が巡らされていた。
常識的な樹木の尺度を遥かに逸脱した幹と、それを囲う石垣は、まるで退路を塞ぐ城壁のようであった。
壁に追い詰められたエリエラに、レイヴンは興味を失ったかのように言い放つ。
「信じるとかなんとか、どうだってよくない? こっちも仕事なんでえ」
レイヴンが歩み寄るのに合わせ、エンブラ兵の包囲もまた、音もなく狭まっていく。
逃げ場を失い、エリエラの進退は極まった。
その瞬間、兵士たちの足元を、小さな白い影がすり抜けた。
「おっ、なになに?」
レイヴンが声を漏らし、その動きを目で追う。
囲いを突き抜けたオライオンは、一直線にエリエラへと駆け寄っていた。
彼女の前で急停止すると、数度吠えてから振り返り、レイヴンを睨みつける。
「ウォン! ウォンウォン!」
「えー、かわいいー。犬? 猫? きみ、お姫様のナイトかなあ?」
「あ、貴方は?」
首を傾げるレイヴンと、戸惑いを隠せないエリエラ。
包囲するエンブラ兵たちの視線も、突然現れた小さな乱入者に釘付けとなる。
そのわずかな緩みを、石畳を叩く具足の重い音が容赦なく踏み潰した。
エリエラを囲んでいたエンブラ兵が、白鯨騎士団の進路を開く。
レオンとゲイドラを先頭にした一団が、堂々と兵の間を闊歩し、彼女へと迫った。
副官ゲイドラは、エリエラの十数メートル手前で静止する。
「整列!」
号令に従い、騎士団員たちは二列に並び、瞬時に隊形を整えた。
レオンはレイヴンを追い越し、エリエラの数メートル手前で足を止め、彼女と対峙する。
一拍遅れて、ゲイドラがその脇に侍った。
二人の背に向かい、レイヴンが気の抜けた声で報告する。
「お姫様、追い詰めときました~」
かすかな微笑を浮かべる若き主に代わり、ゲイドラが口を開いた。
「レイヴン、よくやった。下がっておれ」
「あいあーい。なら、あーしはこれでえ。あ! ネイル剝がれてんじゃん、最悪」
レイヴンは右手をひらひらと振り、エンブラ兵の囲いを抜け歩いて行った。
その途中でも、自身のネイルを見下ろしては舌打ちを繰り返している。
彼女の後ろ姿を目で追い、ゲイドラが怒鳴った。
「レイヴン! シャキッとせんか! 相も変わらず貴様は!」
「えー? あーしは騎士とかじゃないんでー。つーか、じじいそういうのだるいしー」
「誰がじじいだ! まかりなりにも貴様もエンブラ帝国の!」
「ゲイドラ」
「……はっ。失礼いたしました」
ゲイドラは胸に右手を当て、腰の大剣の柄頭に左手を添えると、小さく顎を引き、静かに礼を返した。
その軽礼を受け、レオンは一度頷く。
そして、エリエラへと向き直り、右手を差し出した。
「さあ、黒薔薇姫。こちらへ」
「ウォン! ガルルルル!」
エリエラが答えるより早く、二人の間に立ったオライオンが吠え、牙を剥いて威嚇する。
「このような獣、踏みつぶしてしまいましょう」
ゲイドラが一歩踏み出した瞬間、レオンがその肩を掴んだ。
「やめよ、ゲイドラ。お前は下がっていろ」
「はっ」
レオンはオライオンを一瞥し、一瞬だけ眉をひそめる。
そして、再びエリエラへと視線を戻した。
「奇遇にも旅先のこんな僻地でお会いできたと言うのに、なぜお逃げになるのか。本来ならば包囲などしたくありません。貴方様は尊き王家の血を継いでおられるのですから」
「わたくしはもう貴方がたとは関係ありません。放っておいてください。私は放逐された身、今は自由な旅人として生きているのです。それに、私を尊ぶなど……今さらどうして信じられましょうか」
柔らかな声は、恐怖を押し隠そうとしてなお震えを抑えきれていなかった。
エリエラは白鯨騎士団と、その周囲を取り囲むエンブラ兵――三十人を超える視線と武装の圧が確かな重さとなってのしかかる中、レオンの双眸を正面から見据える。
レオンは苦笑し、見事な黄金装飾に彩られた腰のサーベルへ左手を添えた。
宝石細工のようなサファイアの瞳が、感情を挟む余地もなくエリエラを捉えている。
「勘違いをされているようですね。いわば御身は王家の所有物。信じる、信じないなど、問われていないんですよ。偶然お見かけしたので、保護してさしあげようと思ったまで」
レオンが静かに右手を上げた。
合図に呼応するように、黒軍服のエンブラ兵たちが一斉に距離を詰める。
追い詰められ、エリエラは世界樹の石垣壇へ背を預けた。
迫る包囲に、僅かな隙間すら見出せない。何度視線を巡らせても、逃げ道は閉ざされている。
包囲の外側には野次馬が群がっていたが、誰一人として歩み寄ろうとはしなかった。
「どうして……わたくしが何をしたと言うんですか。なぜ一人で生きることも許されないのですか! わたくしはそっとしておいて欲しいだけです!」
「この私のように王家の遠縁でも、武勲を立て続ければいずれ女王陛下に上奏することも叶うかもしれませんね。ですが、黒薔薇姫様のように力なき言葉では、陛下の御意思に異を唱えることはかないませんよ」
レオンは、その訴えを最初から存在しなかったかのように扱った。
一点の曇りもない表情を前に、エリエラの肩から力が抜ける。
悲しみは堪えきれず涙となり、目から溢れた。
彼女は顔を伏せ、胸の前で両手を組み、縋るように祈りを捧げる。
その姿を見て、レオンは不機嫌そうに声を落とした。
「礎の女神様にお祈りですか? 我らが主神ダナートニア様もまた、行動の伴わぬ涙などお認めにならないでしょう」
「……お許しを願っています」
「許し? 我らに命乞いなどせずとも、抵抗しなければ何もいたしません。さきほども申し上げた通り、貴方は王家の所有。我らが大切な宝ですから」
「貴方がたに許しを願ったのではありません。刃を持って争う許可を神に願ったのです」
「ウォンウォン! ウォン!」
エリエラの前に立ちはだかるオライオンが吠えた。
子犬ほどの小さな体で、臆することなく敵意を向けるその姿に、エリエラは胸の奥が熱くなるのを感じる。
「ありがとうございます。でも、…危ないですよ。さあ」
震えながらも柔らかな口調でそう告げ、エリエラはオライオンの身を案じてその小さな体を抱き上げた。
レオンは口元に人差し指を当て、二人の姿を興味深げに見比べる。
「その小さなナイトでは力不足でしょう。潔く諦めては如何か。貴方には、曲がりなりにも王家の一員。それだけで価値があるのです。我が白鯨騎士団が責任を持ってリーナス陛下の下へお連れいたしますよ」
エリエラは伏せていた瞳を開き、腰のダガーを引き抜いてレオンを睨み据えた。
震える切っ先が、金髪の青年将校へと向けられる。
「わたくしの価値はわたくしが決めます! 生きる意味も自分で探します! あの牢獄のような場所で再び飼い殺されるくらいならば、たとえ、ここで命尽きたとしても!」
エリエラは、がむしゃらにダガーを振り回した。
「おっと、危ない」
近づこうとした黒軍服のエンブラ兵が、からかうような口調で数歩下がる。
レオンは耳にかかった金髪を掻き上げ、ため息混じりに号令を発した。
「ご婦人に手荒な真似はしたくありませんが、仕方ありません。全兵に告ぐ! 速やかに対象を拘束せよ! 抵抗するなら力づくで取り押さえよ!」




