1-116.重なり合う地の底で
レオン一行は地底を覗く岩路を越え、入口に瓦礫が積もった洞窟を通り抜け、迫持アーチをくぐって橄欖の間へ到着した。
ここはエリエラが声に導かれて訪れた場所であり、グエンと出会った場所。
エリエラの記憶では、透き通る橄欖石に囲まれた空間だった。
しかし、今目の前に広がる光景は、あまりにも記憶と違う。
左右から迫り来るように聳え立っていた、橄欖石の壁がない。
埋もれた碧銀核が脈動し、ペリドットリクセンを生んだあの壁も消え去っている。
凪いだ水面のように平らな橄欖石の床は、闇の中へ続き、先が見えなかった。
天井も闇に覆われ、見えない。奥へも、ただ暗闇に向かってオリーブ色の床が伸びている。
降り注ぐ闇の底。
エリエラはそう感じた。
空気は冷たく、命の気配すらない。
だが彼女には、地の底から呼ぶ、地響きのような声が聞こえた。
人間の言葉ではない。それでも、呼ばれていることだけはわかる。
重く低く、津波のように轟く音が全身を呑み込む。
呼び声に呑まれるたび、身体から意識を抜き取られるような感覚に襲われる。
エリエラは胸の前で両手を強く握り、声にかき消されまいと必死に耐えた。
白い甲冑を着た白鯨騎士が、ライトを手に先頭を歩く。
ゲイドラが続き、レオン、エリエラ、騎士一名の順に進んでいった。
ほんの数秒歩いただけで、迫持アーチの入口はもう見えない。
海原に投げ出された難破船のように、一行は進む。
数分歩いたところで、レオンが声を発する。
「このあたりでしょう」
全員が足を止める。相変わらず、平らな橄欖石の床が広がるのみ。
エリエラを呼ぶ声が、ひと際大きくなった場所だった。
騎士が足元を照らす。傷一つない半透明の橄欖石が、オリーブ色に輝くだけ。
ふと、床が揺らいだ。
無機質な空気に、濃い潮の香りが混じる。
髪にまとわりつく海風が足の下から立ち昇るのを感じ、エリエラは下を見た。
足元が揺らぎ、震えたかと思うと、彼女を中心に一つの波紋が生まれ、広がっていく。
硬い宝石であるはずの橄欖石の表面に、一つ、また一つ。水面に雨が降り注ぐように、無数の波紋が生まれた。
波紋に揺さぶられているはずが、そこにいる誰の足にも感触はない。
レオンが足元へ視線を落とし、歓喜に満ちた声で笑った。
「やはり、鍵は黒薔薇姫だった! 女王陛下の見立てはいつも正しいのだ! さあ! 御覧なさい! 連なり合う地の底を!」
足元から、ホタルに似た淡い光が沸き上がる。
思わず床を見たエリエラの目には、かすかにオリーブ色に輝く水が、どこまでも広がっていた。
水そのものが輝き、背筋が凍るほど澄み切っている。遥か水底まで、はっきりと見えた。
水中には、山があった。
山頂は、エリエラが立つ水面から百メートルほど下だろう。切り立った三つの峰を持ち、中央の峰が高く、峰と峰を繋ぐ鞍部は深く切れ込んでいた。
目が慣れると、山肌をなぞるように、長い尾ひれを持つ鯨のような生物が群れを成して悠然と泳いでいるのがわかる。
エリエラは、鯨たちの側を流れる塵のようなものが、ある程度の大きさを持つ魚なのだろうと見た。
「これが、貴方の言った水底なのですか。なんという……光景でしょう」
「ええ、ええ。光り輝き、立つことのできる水などあり得ませんが、まぎれもなく水底でしょう。我々の世界と重なり、異なる世界の、ですが」
エリエラは、水底から呼ぶ声の強さに眩暈を覚えた。
レオン達の声は遠く、不明瞭になっていく。それでも悟られまいと、強く意識を保つ。
「重なり、異なる世界。それでは、この輝く海のようなものが、リゴナなのですか?」
「ええ。強き肉を持つ者達の世界、リゴナです。ここは、我らが住むコクァトと、巨神が住まうリゴナが重なる地」
「しかし、これほどはっきり見えるなど……若」
老騎士ゲイドラの声に、恐れが混じる。
「恐れるな、ゲイドラ。我らはエンブラの血統である」
レオンは金色の目をすっと細め、静かにエリエラの目を見つめた。
「黒薔薇姫、巨神の声が聞こえているのでは?」
その声はもう、エリエラの耳には届いていない。
エリエラは、声の主が足元に聳える山であると理解した瞬間、意識を失った。
ゲイドラが駆け寄り、その身体を支える。
地の底から轟音が響く。
床の水面が大きく揺れ、遥か底を泳いでいた長い尾ひれを持つ鯨の群れが逃げてゆく。
光る泡が逆さに振る雨粒のように浮き上がり、水面から顔を出すと、燐光のように闇に待った。
そして、水底の山が、ゆっくりと、かつ猛然と浮上を始めた。
洞窟状の通路を、デラダン機と大型モービル【グランディア】が駆ける。
グランディアの丸目ライトが石畳の床を照らし、その先を走るヘビークラストの玉虫色の背を浮かび上がらせた。
インカムを失い、二機の間で通話はできない。
同じモービルに乗るグエンとキトでさえ、この速度では走行風に声をかき消され、会話もままならなかった。
グエンは頬を撫でる風に、わずかに潮の香りを感じた。
(海の匂い? この地下で? 橄欖の間は、鉱床だったはずだ)
疑問が脳裏を駆け抜けた。
だが、思考を深めるより早く、前を走るヘビークラストが速度を上げる。
橄欖の間が近い。
(いや、ルガーが調査したと言っていた。海水で沈んだとは聞いていない)
グエンもスロットルを開き、モービルを加速させた。
岩肌剥き出しの洞窟が途切れ、石畳が消える。
迫持アーチをくぐり、二機が飛び出した。
そのまま、淡く輝く水面へ跳ぶ。
『うおお! み、水! 水っすー!』
「なにぃ!」
「うわー!」
二機は反射的に急ブレーキをかける。
デラダンの脳裏に、「ヘビークラストって泳げるのか?」という疑問と、それに首を振るジアの顔が浮かぶ。
グエンは「フル加速したら水面を走れたかもな」と悔やんだ。
二機がオリーブ色に淡く光る水面へ触れる、その瞬間。
透き通った水面が消え、橄欖石の床へ変わる。
ヘビークラストはブーツ部の装甲を床へ激突させ、橄欖石を削りながら停止した。
モービルのタイヤも重い着地音を響かせ、甲高いスキール音を引きながら停まった。
デラダン機フェイス装甲の後頭部が開き、胸部へ折れ曲がる。
ヘビークラストからデラダンが顔を出した。
「ア、アニキ、いま、水……み、湖? だったような気がしたんすけど……」
「あ、ああ。確かに。いや、潮の匂いが満ちた海のようなものがあった」
「う、うん。魚もいたよ」
それきり、言葉が続かない。
あるのは闇の中に広がる、平らな橄欖石の床だけ。
グエンは、この一瞬の体験に覚えがあった。
(この体の半分を持って行かれるような感覚は、鏡面街と同じ……? まさか)
キトの肩に乗っていたオライオンが耳を立て、奥へ顔を向ける。
「ウォンウォンウォンッ!」
闇へ向かって吠える声に、三人は我に返った。
グエンがモービルを発進させる。
「今は進むぞ! 謎解きの前にエリィだ!」
「う、うっす!」
加速するモービルを、デラダン機が追う。
闇に沈む右前方で、何か巨大なものが落下した。
床を打つ轟音が、橄欖の間にこだました。




