1-82.贖罪
エリエラの言葉に、グエンは動けなかった。
錯綜する思考が、記憶の奥底に沈んでいた名を引きずり上げる。
ロインセリア。
その名は、憎きエンブラの血を示すものだった。
頭では理解できる。
だが、心が追いつかない。
何かを言おうと口を開きかけた、その瞬間だった。
目の前に、暗い洞窟が広がる。
冷たい雫が天井から滴り落ち、頬を濡らした。
鱗のような岩肌の洞が、橙色の灯りに照らされ、ぬめるような光を返している。
そして、腕の中で冷たくなっていく少女。
声も。
顔も。
思い出せない。
だが、熱と共に霧散した愛しい人の喪失だけは、今も胸の奥に焼き付いていた。
グエンの左頬に火焔文様が浮かぶ。
怒号が響いた。
「カガミを殺した! あの! エンブラの人間だと!」
赤く染まる視界。
炎か。
憎しみか。
記憶か。
現実か。
紅の帳に塗り潰された世界を、グエンは見分けることができない。
そんな中で、エリエラだけが静かに、かすかに微笑んでいた。
「はい。わたくしは、エンブラの人間です。貴方の心が満たされるのならば、わたくしをお斬りください。この命は、貴方に救われたもの。それが道理でしょうから」
静かに告げる。
真っすぐに視線を向け、背筋を伸ばしたまま椅子に腰掛けていた。
グエンはベッドから降りる。
立てかけてあった軍刀【濡焔】を掴んだ。
左手で鞘を持つ。
右手が柄を握る。
――エンブラは殺す
軍刀を引き抜く。
重い。
重かった。
軍刀【濡焔】には、人ならざる呪いが宿っていた。
認められぬ者が握れば、超常の重さを発露する。
「わたくしには、果たす使命もありません。この命の価値が、生まれてきた意味を知らないのです。それを求め訪れたこの土地で、エンブラを憎む貴方に出会い、命を救われたことにこそ、意味があるのかもしれませんから……」
「だから、俺に……殺されようと……?」
グエンは彼女の言葉と、濡焔の重さに困惑する。
濡焔は、ゴカの無念を果たすべき者へ託された神代の剣だ。
(なぜ、俺の邪魔をする。この重さは、俺を諫めているのか。どうして!)
紅蓮の怨嗟を宿す瞳が、熾火のように燃える。
一方で。
握った柄は、地の底へ引きずり込もうとするかのように重さを増していく。
耐えかねたグエンは膝をついた。
握ったままの軍刀が床へ落ちる。
そこへ、異変を察したキトとデラダンが飛び込んできた。
「グ、グエンさん」
「アニキ! どど、どうしたんで!」
二人の目に映ったのは、憎悪を滲ませてエリエラを睨むグエンだった。
抜き身の刀は床に落ちたまま、その切っ先だけがエリエラを指している。
左頬の火焔文様は熾火のように明滅し、その輝きは弱々しかった。
グエンはゆっくりと立ち上がる。
重々しい軍刀を持ち上げた。
病衣から白い煙が立ち上る。
熱に焼かれた生地が、じりじりと焦げ始めた。
「エンブラの姫ならば……死ぬべきだ! あれほどのことをしたんだからな!」
「アニキ……」
鬼気迫る様子に、デラダンの表情が引きつる。
エリエラは迫る熱気に目を細めた。
黒髪が熱に煽られ、静かに揺れる。
毛先の焦げる臭いが鼻先を掠めた。
それでも彼女は椅子に腰掛けたまま、凛とした眼差しでグエンを見上げている。
キトが掠れた声を漏らした。
「や、やだ」
そして、グエンの前へ飛び出す。
両手を広げ、震えながら見上げた。
「や、やだよ。だ、だ、だ、めだよ」
両目から涙が溢れていた。
グエンはキトを一瞥する。
そして視線を逸らした。
鉛を吐き出すような声だった。
「出ていけ。俺が……殺す前に」
「……はい」
エリエラは静かに立ち上がる。
目を伏せたまま、グエンに。
キトに。
デラダンに。
小さく頭を下げた。
そして踵を返し、扉のない入口へ向かう。
部屋の外。
リビングの壁に張り付いて様子を窺っていたユイークと目が合った。
「え? え? エンブラのお姫様って、魔人に言ってなかったの?」
エリエラは何も答えない。
ただ、困ったように小さく微笑む。
ユイークは入口の向こうを覗き込み、もう一度エリエラを見た。
「あ、あたしは気にしてないよ。うちらは……エンブラは嫌いだけど、エリィのこと好きだし、あたしはハックして知ってたし……。ね、いいの? だって、魔人のこと」
「いいんです。わたくしは、グエンさんを騙していましたから」
「もっと粘ろうよ。だって、おかしいじゃん。仲間になったって言ってたじゃん。めっちゃ看病とかしてたじゃん」
「ユイークさん、ありがとうございました」
エリエラは深々と頭を下げる。
そして外への扉まで歩くと、その前で振り返った。
リビングへ駆け込んできたキトとデラダン。
エリエラは三人の顔を順に見渡し、静かな声で告げる。
「お世話になりました。一時でしたが、わたくしにも居場所ができたようで、とても嬉しかったです。どうか、息災でありますように」
「エ、エリィ……ボ、ボク……」
「キトさん、さっきはありがとうございました」
「ボ……ボク……」
「もう! 兄貴! 魔人になんとか言ってやんなよ!」
「お、おう。姐さん! 話せばアニキもわかってくれやすよ! そう早まらねえで!」
「もう、決めたことですから」
凛としたエリエラの言葉。
その黒く大きな瞳は、デラダンの視線を受け止めた。
揺るがぬ眼差し。
デラダンは視線を床に落とす。
「つっても……姐さん、ここ出てどこいくんすか。……エンブラに戻るんすか」
「……本国に、わたくしの居場所はありません。バナーバルを出ようと思います。ムロージ商会を頼れば、ゲートを出られるかもしれません」
「いくらなんでも、今の状況じゃ厳しいっすよ」
「うん、無理だよ。あたし通信を聞いたけどさ、ゲートには、エンブラのなんとか騎士団ってのがいるみたいだから」
「なんとかしてみます。大丈夫ですよ」
「なんとかっていってもさ……」
「姐さん、アッシからもアニキに頼んでみやすから」
「いけません。これはわたくしが決めたことです」
「エリィ……行っちゃうの?」
キトの両目は涙で濡れている。
エリエラは微笑み、そっとキトを抱きしめた。
そして、一歩後ろへ下がり、三人の顔を順に見渡す。
「それでは、皆さんごきげんよう」
いつものように柔和な笑みを浮かべた。
背を向ける。
静かに扉を開き、部屋を後にした。
革ブーツの靴底が、金属の階段を一定のリズムで叩く。
音は遠ざかり。
やがて消えた。
沈黙。
凪いだ室内の空気に、誰も言葉を見つけられなかった。




