1-81.しらないのだな
夜。
二階の居住区、その寝室にグエンはいた。
外されたままの扉の向こうからは、デラダンたちの話し声が絶え間なく聞こえてくる。
ベッドの脇には椅子が二脚置かれ、エリエラとノダナ族が腰掛けていた。
寝室入口の壁には、エリエラが用意したグエンの服が掛けられている。
エリエラはいつもの白いブラウスと、色鮮やかなスカートへ着替えていた。
グエンはベッドの上で上体を起こし、ノダナ族へ声をかけた。
「ノダナ、わざわざ見舞いに来てくれたのか?」
「のだな~。さんだいめが、これもってけっていったのだな」
ノダナ族は両手で抱えていた大きな紙袋を差し出した。
だが短い腕では届かず、紙袋は宙ぶらりんのまま揺れている。
エリエラが腰を上げ、紙袋を受け取ってグエンへ手渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、エリィ」
「のだな~」
「ふふふ、どういたしまして」
グエンは受け取った紙袋を腹の上に乗せ、口を開いた。
途端に、バターとハチミツの甘く芳醇な香りがふわりと立ち上る。
裸電球の柔らかな光の下。
紙袋の中には、敷き詰められたドーナツと陶器の皿、それにハチミツ瓶が一つ、銀色の金属ボトルが一本入っていた。
さらに、IDカードを挟んだ手書きの手紙が添えられている。
「デカい紙袋だと思ったらずいぶん色々入っているな。それと、手紙と、IDカード?ってやつか。なあ、ノダナ、さんだいめって誰だ?」
「さんだいめなのだな~」
「ふーむ、そうか。さんだいめか」
グエンは手紙の方から正体を探ることにした。
取り出した便箋へ視線を落とす。
手書きの文面を目で追い。
「……あ! あの武器屋のおやじか! そういや、買った剣鉈はどこだ……?」
「ご存じの方ですか?」
「ああ、バナーバルに到着した日に、商業区の露店でね。ターバン巻いた髭面のおっさんで、ムロージ商会と名乗っていたが、さんだいめってのは、三代目ムロージってことか! へえ……五十年の流れを感じるな。そうか……あのムロージさんの」
「のだな~。さんだいめいいやつなのだな」
「お見舞いのお手紙ですか?」
「……そうだな。あ、そうか、情報屋のルガーもムロージ商会にいたから。ルガー経由で、俺の事を知っているようだ。ふむ……さすが、ムロージ商会だな」
「こてつー。くれくれ」
ノダナ族はグエンへ向かって、長く黒い鉤爪のついた小さな両手を広げた。
手紙を読み進めようとしていたグエンは手を止め、顔を上げる。
「お、今やるよ。ちょっと待ってな」
グエンは紙袋の中から白い陶器の皿を取り出し、ベッドの縁、ノダナ族の前へ置いた。
ドーナツを三つ並べ、ハチミツ瓶の蓋を開ける。
まだ温もりの残る生地へ、とろりと惜しみなく流しかけた。
オレンジ色の裸電球に照らされたハチミツは、黄金を溶かしたように艶めいている。
ノダナ族は子犬のような小さな鼻をひくつかせ、流れる蜜にすっかり魅入っていた。
「うまそーなのだなあ」
「それと……。エリィ、すまないが、ノダナ族の横に椅子を置いてやってくれないかな。テーブル代わりに」
「はい。構いませんよ」
エリエラは立ち上がると、壁際に置かれていた木製の丸椅子を取りに行った。
それをノダナ族の真横へ置く。
「ありがとう」
「はい、どういたしまして」
グエンは紙袋から銀色の金属ボトルを取り出した。
蓋を開け、椅子の上へ置く。
「これ、錫製のスキットルか。良いもん使ってるなあ。ほれ、ハチミツ酒のミルク割り」
「ふへへへ、ありがたいのだなあ。うれしいのだなあ」
どんぐりまなこを細めるノダナ族。
鉤爪が錫製のスキットルへ触れ、カチャリと小さな音を鳴らした。
器用に両手で持ち上げると、おもむろに口元へ運ぶ。
「んくっ、んくっ、んくっ、んくっ、んくっ、んくっ……ぷはあ。うまいのだなあ」
空になったスキットルを椅子へ戻す。
続いてベッドに置かれた皿から、右手でドーナツをひとつ、左手でドーナツをひとつ取った。
「んまんま、んまんま」
両手のドーナツを交互に頬張りながら、満足げな声を漏らしている。
グエンはその様子に目を細めた。
「はは、うまそうに食うなあ。なあ、ノダナ、俺もドーナツ貰っていいか?」
「んまんま? ひとつならいいのだな」
「お、ありがとう。エリィにもひとつあげていいか?」
「えりー?」
「はい。わたくしがエリィです」
ノダナ族は隣のエリエラを見上げた。
そして、首を横に振る。
「だめなのだな」
「え~、じゃあ。あ、それなら、俺のを半分わけよう」
グエンは紙袋からドーナツを一つ取り出し、半分に割った。
その片方をエリエラへ差し出す。
「ふふふ、ありがとうございます」
「じゃ、いただこう」
グエンとエリエラは、半分のドーナツを食べ始める。
エリエラは甘いドーナツを口に運び、ふっと頬をほころばせた。
「まあ、おいしいドーナツですね。素朴ですが、とても良い香り」
「はちみつをかけたくなるのもわかるな」
「ええ、そうですね」
ノダナ族は、ハチミツをたっぷりまとったドーナツを頬張りながら、グエンとエリエラの顔を交互に見やる。
もぐもぐと口を動かしながら、しばらく二人を眺めていたが、
「おかわりがほしいのだな」
「ん、ほら」
グエンは紙袋からドーナツを三つ取り出し、同じようにハチミツをかけた。
ノダナ族はそのうち一つを手に取ると、二つに割る。
たっぷりとハチミツのかかった半分を、グエンとエリエラへ差し出した。
「ん」
「お、エリィにもくれるのか」
「まあ、ありがとうございます」
「とくべつなのだな。きょうだけなのだな」
「ありがとうな。うん、うまいな」
「はい、おいしいですね」
二人はノダナ族を囲みながらドーナツを食べた。
その後もおかわりは続き、ノダナ族は計二十個ものドーナツを平らげる。
紙袋の底には、もう一本スキットルが入れられていた。
それはノダナ族の食後酒だった。
食後酒を飲み終えたノダナ族。
ひと息つき、グエンがノダナ族へ尋ねる。
「なあ、ノダナ。昨日、俺を助けてくれたろ。意識がなかった時に」
「ん~?」
「ほら、頬を爪で突っついただろ」
「こてつ、ねぼすけなのだな」
「お、おお。その時、俺の炎を回復したり、したか?」
「なんなのだな?」
「こう、なんか不思議な力で癒した、とか。そういうの」
「なのだな?」
「……それは、どっちだろうな。イエスかノーか……」
「難しいですね。どちらでしょう」
「しらないのだなあ」
「知らないかあ。あ、じゃあ、今度ハチミツ酒をたっぷり奢るから、俺のケガを治してくれないか? なんて、無理か? できるとすごく嬉しいんだが」
「さけほしいのだな」
ノダナ族は両手を広げてみせる。
グエンは頭を掻き、苦笑した。
「ケガしてて、今は買いに行けないんだよ。ケガさえ治ればなあ、酒たくさんやるのになあ。残念だなあ」
両腕を組み、口をへの字に曲げて双眸を閉じる。
そして数秒後、片眼だけを開けてちらりとノダナ族を覗き見た。
ノダナ族は短い両腕を組み、ゆっくりと頷いている。
「たいへんなのだな。たのんでくるのだな」
椅子から降りると、大きく背伸びをした。
それからベッドの縁を右手でぺしりと叩く。
グエンから見えるのは、黄色いヘルメットと黒い鉤爪だけだった。
そしてノダナ族は、くるりと向きを変え、出口へ向かって歩いていく。
「え」
「あら、おかえりですね」
エリエラは立ち上がり、ノダナ族の後を追った。
しばらくして見送りを終えた彼女が、部屋へ戻ってくる。
椅子に腰掛けるエリエラへ、グエンが声をかけた。
「ノダナ族、帰ったのか。頼むって誰にだろうな……医者の知り合いか」
「ノダナ族推薦の方が、いらっしゃるのかもしれませんね」
「俺としては、ノダナ族に不思議な力があって、あっという間に治療してくれるって展開を期待したんだが。さすがに無理か」
「そう、ですね」
「それにしても、あの紙袋、ほとんどノダナ族用のドーナツと酒だったなあ。つまり、ノダナ族に運び屋をしてもらうためのお駄賃ってわけか。ははは」
グエンはクッションへ背を預け直し、深く息を吐いた。
頭上では裸電球がオレンジ色の光を滲ませている。
ぼんやりとそれを見上げていた時だった。
ふと、エリエラが無言で自分を見つめていることに気づく。
大きな黒い瞳と視線が合った。
目尻の下がった、慈愛に満ちた眼差し。
柔和な表情のはずなのに、グエンはそこにかすかな儚さを感じ取る。
胸の奥を引っかくような違和感の正体を探ろうと、改めてエリエラへ目を向けた。
純白のブラウス。
紅色、白、紺、青、山吹色――幾重もの彩りを重ねたロングスカート。
腰まで流れる黒メノウのような艶やかな黒髪。
編み込まれた髪には八本のジュエルチェーンが揺れ、裸電球の灯りを受けて静かに輝いていた。
すっかり見慣れた姿だった。
そう思ったグエンは、そこでようやく気づく。
昼間とは服装が違う。
「エリィ、いつもの服に着替えたんだな」
「グエンさん。わたくしの名を、ご存じでしょうか」
「ああ、エリエラ・アグナスタだろ。クエスタ本部、ヒッジスの遠い親戚だったかな」
「わたくしは、あなたを騙していました」
「騙す? 改まって、何の話だ?」
エリエラは背筋を伸ばしたまま、微動だにせずグエンを見つめている。
そして一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
「わたくしの本当の名は、エリエラ・ロインセリアです」
「ロインセリア……? ロインセリア? 聞き覚えのある……名前だが……」
「はい。猛き霧と古き雷を継し女王、リーナディス・ロインセリアの血縁。わたくしは、あなたの憎き仇敵、エンブラ王家の姫です」




