第十一話 夏空の下で
風が吹いていた。
混じり気のない、純粋な青い空。青に溶けることなく、その存在を主張する白い雲。強く、力強く輝いている、太陽の光。
この辺りでは一番背の高い、駅に面したビルの屋上で、鮮やかなミントグリーン色の髪をした悪魔ーーリュカ一等兵は、なびく髪を右手で押さえた。
「何か分かったんですかー?」
もう片方の手に持つ、スマートフォンのような機械に耳を当てながら、リュカは間延びした声で尋ねる。本当ならフェンスを越えた場所に座って足をぶらぶらとしたいのだが、それは流石に目立ってしまうので自重した。
『……いえ、まだよ』
「えぇー、まだなのー!?」
電話の相手である女性――リトの絞り出したような声に、リュカは大きく驚く。
もう三日も経っているので、何かしら新しい情報があると思っていたのだ。
『そもそも、学生ってだけじゃ情報が足りないのよ。その辺りは学校が多いし、黒のスラックスを履いた男子学生なんて、それこそもっと多いわ』
三日前の木曜日、リュカは水の化身であるアクアンを追っていた。
そこでリュカは、ある一人の少年に出くわしたのだ。アンロックを成功させ、かつ古文書に載っていた技――現代の、ましてや現世の人間が知り得るはずのない技、断ち切る急流の拳を発動させた少年に。
リュカはその時、その少年を追い詰めるよりも、撤退して報告することを選んだ。自分では判断しかねる案件だと思ったからであった。
彼の上司であるリトは、その選択を肯定した。何も分からない状態で戦闘をしても、危険なだけだと思ったからである。
しかし、しかしだ。リュカが報告した少年に関する情報が、「黒のスラックスを履いた男子学生」のみでは、正直どうしようもない。
『せめて、どの学校か特定できればいいのだけれど……魔力の香りは?追えそう?』
「あー、一応あちこちフラフラしてるんですけどーやっぱり建物隔てると全然ダメですねー」
『そうよね……本当に、何か他の情報はないの?』
「えー、他にですかー?」
リュカはリトの言葉に、うーんと首をかしげる。
この前の出来事を思い返して、少しでも情報がないかを探してみたが、残念ながら、学校を特定できるような物はなかった。
「……バカそうだったなー、くらいしか……」
『それで特定できたら苦労はないわよ』
「うーん、あ!あとあれ、いきなり急所狙ってきたんでー、きっと喧嘩慣れしてると思うんですよー」
リュカは一度、顎を殴られ気絶させられたことを思い出す。あの時は完全に油断していたのもあったが、あっさりやられてしまった。
一応リュカは軍の所属であり、それなりに訓練を積んできているのだ。そんなリュカを一撃で気絶させた(しかもアンロック前の状態で)のは、素人にできることではないだろう。
それに、その後の戦闘にしても「拳に慣れている」という主の言葉を発していた。身のこなし方も、無駄や迷いがなく、場数を踏んでいるそれのようであったし。
『喧嘩……でも、断ち切る急流の拳を出せた理由がそれだけ、というのは無理があるわよね』
「ですよねー」
リトの納得しきれない声に、リュカはあっさり同意する。自ら言ったことではあったが、あの技を使えた理由が、それだけのはずはないのだ。そんな、センスで使えるようなものではない。
『明日になれば、また学校が始まるわ。私も気をつけてみるけど、あなたの方が自由に動けるはずよ』
電話越しに、リトのしっかりとした声が届く。
九月にはなったが、まだ夏と言っても支障はない太陽の光。それに照らされたリュカは、気を抜けばどこかに行ってしまいそうな意識を、リトの声で懸命に繋ぎ止めた。
魔界よりも涼しい気候ではあるが、青空と太陽の光には、未だに慣れない。
どこまでも続く青い空も、キラキラと光る太陽も、とても綺麗だと思うのに。
『平日の夕方に出会ったのなら、その場所は彼の通学路である可能性が高いわ。周囲を警戒するように』
「うへぇー、了解ですー」
『また通りかかるかもしれないから、今日も見張りお願いね』
「えぇー!?また、おれ現世で待機なのー!?」
リトの命令に、リュカは大きく叫んだ。既に現世待機は二日を越えている。そろそろ家に帰りたい。
『しかたないじゃない、彼の顔を見たのは、あなただけなんだもの』
「うぇー、まぁーそうですけどー」
リュカの報告が報告だったため、現状、彼の名前も、家も、学校も分からず、顔を示す何かもない。あるのは、リュカが見た、彼の顔という記憶だけなのだ。
『帰ってきたら、この前おいしいって言ってたドーナツを買ってくるわ。一緒に食べましょう』
「うぅ…………おれ、チョコがいい……半分だけじゃなくて、いっぱいチョコがかかってるやつ……全部のやつ……」
『はいはい』
リュカは半泣きになりつつリクエストを出し、それを了承の代わりとした。ドーナツはおいしい。罪はない。自分が行くしかないのは分かっている。悲しいことに、リュカは現世で言うところの社畜であったのだ。
リトは、電話越しのためリュカの姿は見えないのだが、声色から項垂れていると察したため、なだめるような声を出した。
『この前も言ったけれど、アクアンが断ち切る急流の拳の使える人間を手離すとは思えないわ。だから、その人間を探せば、そこにアクアンが……そして、天界の鍵があるはずよ』
なだめる声が一変し、真剣な声色に変わる。その内容は、先日リュカの報告の後、コーダと考察したものであった。
『とりあえず情報がほしいわ。捕まえて、連れ帰るのが優先すべき第一目的だけれど、深追いはしないで。無理だと思ったら撤退して』
「りょーかいですー」
リュカも、釣られて背筋を伸ばしながら(声は間延びしたままであったが)、無理を言うくせして心配性な上司に、まったくもうという気持ちになる。
仮にも軍だ。状況が状況なだけに「死んでもいいから情報を持って来い」と言い出しても仕方のないはずなのに。
これだから、この上司は。
「ドーナツ、楽しみにしてますからねー」
『終わってからよ、終わってから。ちゃんと買って来るから、任務に集中しなさい』
「はーい」
ぶわりと強い風が吹き、リュカの髪を揺らした。ゆらゆらとはためく髪を、右手でするりと耳にかける。
『相手は、あのアクアンよ。気をつけなさい』
「……はい」
今までで一番緊張感の隠った声は、すぐに風にさらわれる。押さえきれなかったポニーテールも、風にぶわりと踊った。
「あの人間も、可哀想ですねー」
絵の具をぶちまけたような青い空に、やわらかいミントグリーンが溶けていくようだった。




