第2話 電車の向こう側
短編集『あなたのとなり』
「電車の向こう側」
向かいのホームの男性に恋する女性が織りなす物語。
私には、好きな人がいる。
電車のホームの向こう側。スーツを着こなし涼しい顔で、下り電車を待っている。
私の会社は上り側だ。あの人に一目惚れしてから、どうして私の会社は下りではないのだろう。といつも考えてしまう。
なにかあったわけではない。ただ、あの人が放つ雰囲気に、私は飲まれてしまった。
あぁ、恋とはこういうものなのか。恋愛経験のない、人を好きになったこともない私が、ここまで一人の人を『好き』と認識できたことに驚く。
彼をみると、周りなど見えなくなる。
学生と社会人が入り交じる混雑したホームで、彼だけが、私の中で一際目立っていた。
平日に休みを貰い、私は高鳴る胸を抑え、下りホームへ向かった。いつにもましてホームが混雑している。しかし、一度でいい。彼のとなりにいくだけでいい。その想いを胸に、人並みをかき分けていく。
—
妻はいつも不機嫌だった。俺が仕事から帰ってくれば、「もっと稼いでこい」という。休みの日には「ダラッとしてるんだったらいないほうがマシ!」。上の子からは「パパ臭い」と言われ、下の子にはパパと認識されない。
家には自分の居場所がなかった。
会社に行く駅の下りホーム。仕事だけが自分の居場所のように感じていた。部下からは頼られ、上司は優しく、家庭環境の同情をしてもらえる。
少し……疲れていた。
他に自分を大切にしてくれる人がいるのではないか?となりに優しく寄り添ってくれる人がどこかにいるなら、俺はそっちに吸い寄せられそうになる気がしていた。
「あの!」
急に後ろから女性の声がした。
「はい?」
物思いに耽っていたため、返事の声が裏返る。
「いつも、貴方を見ていました。えっと、いわゆる一目惚れ、です。」
突然の出来事に言葉を失う。
目の前の女性は一回りほど違う若い女性のように見えた。ふんわりと漂う甘い香りに、化粧っ気のない優しい顔立ち。額に浮かぶ汗が、人波をかき分けてきたのだとわかる。
「えっと、ごめん、頭の中が混乱してる。」
絞り出した答えがこれだった。
こんな俺を好いてくれる人がいきなり現れてしまった。しかも若い。一目惚れされるような風貌でもない自分が、なぜか好かれている。
「ぶしつけて申し訳ないですが、よろしければ、私と付き合ってください!」
—
私は今まで、告白したことも告白されたこともない、ただの一般人。
でも、この恋だけはしっかり伝えたかった。
私が初めて好きと思える人。初めて自分を捧げたいと思えた人。
勇気を出し、心臓が止まりそうになりながら頭を下げて告白した。
その時、私の視界に映ったのをみて、時が止まった。
左手の薬指に、光るものがある…。
動揺を隠しながら、それでも彼のそばにいられるのなら、悔いはない。そう思った。
「ごめん。気持ちは嬉しいけど、俺、妻と子供いるし、応えられない。」
子供も…いたのか……。
いや、それでも私は諦めきれない。命を捧げてもいいと思えた人がここにいた。奥さんも、子供がいてもいい。私は、貴方のとなりにいたい!
«下り列車が入ります、黄色い線まで下がってお待ちください»
その時、私は思ってしまった。『命を…捧げても……』
—
電車が激しい音を立てて急停止した。
人だかりが波のようにうねる。
電車の窓にはヒビが入り、赤く花を散らしたようになっていた。
「次のニュースです。」
画面に映ったニュースキャスターが冷たく言い放つ。
「JR京浜東北・根岸線の石川町駅で、人身事故がありました。警察によりますと、二人に面識はないとみられ、事故の原因を詳しく調べています……。」
短編集『あなたのとなり』は思いついた時、不定期に更新する短編として投稿していきます。
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