偉い人映像化して・るろうに剣心 日中戦争編
愛新覚羅溥儀の皇帝即位から五年。昭和十二年(1937年)春。
満洲国の首都・新京の関東軍司令部の一角で、三人の男が煙る陽光のなかで言葉を交わしていた。
机の上の世界地図を睨みつけているのは、参謀・石原莞爾大佐。
その傍らで穏やかな眼光を湛えるのは、関東軍参謀副長・今村均少将。
そして川島芳子の下、付かず離れず順調に出世していた安国軍司令長官預かり・緋村千路大尉。
「……なぜ国際連盟は、頑なまでに満洲国の国家承認を認めんのだ」
石原が忌々しげに書類を放り投げ、苦虫を噛み潰したような声を出す。
今村は紅茶を片手に目を優しく細めて微笑んだ。
「関東軍がこうして満洲の心臓部に居座っているかぎり、世界は満洲を日本の『傀儡』だと思っているのさ。無理もない」
「だったら、関東軍を引き上げましょうよ」
千路が事も無げに、しかし一点の曇りもない真っ直ぐな青い瞳で言い放った。
「馬鹿を言うな!!」石原の怒鳴り声が室内に響く。
だが千路は純粋に尋ねる。
「なんでですか? 溥儀様が皇帝になり、国家として機能してる。
もう日本の軍隊の力なんか借りずとも、満洲独自の『満洲軍』がこの国を自らの手で守ればいいじゃないですか」
「満洲軍……。関東軍の担う負担を満洲軍が全て担えるようになれば、国家としても自立できるか……」
「ははは! そりゃあいい」今村が愉快そうに声をあげて笑った。
「日本の関東軍をやめて、名実ともに満洲の『満洲軍最高司令官』になったらどうだ、石原。君にぴったりだ」
「そんなことを本気でやったら、私が母国である日本軍と全面戦争をするはめになりますよ、今村少将!」
しかし、その天才的な頭脳はすでに、千路の言葉をきっかけに恐るべき速度で回転を始めていた。
「……しかし、理屈としては一理ある。満洲国が完全に自立すれば、日本の莫大な軍事費は大幅に減る。
日本本土の国防にとっても、決して悪い話ではない……」
「自慢の頭で、なにか具体的な解決策でも浮かんだか?」今村が顎をさすりながら尋ねる。
石原はフッと不敵な笑みを浮かべ、壁に掛けられた広大なモンゴル高原の地図を指差した。
「実は、内モンゴルの『蒙古聯合自治政府』を率いる徳王が、何度も私に接触をはかりに来ているのだ。
彼もまた、大国からの独立を夢見ている。
……もし、満洲の西側に広がるあの広大なモンゴルにも巨大な統一国家が生まれ、我が満洲と同盟を結ぶことができたらどうなる?」石原の目が、かつてないほど熱く輝いた。
「日本、ソ連、中国という三大国が四方から睨み合おうとも、容易に手が出せない、完璧な緩衝地帯となる
『真の独立国家同盟』ができるかもしれぬ」
その壮大すぎる、しかし本気で満洲の未来を憂う盟友の姿を見て、今村はしみじみとため息をついた。
「石原……お前、本当に立派な満洲人になったな。それでこそ『満洲軍最高司令官』だ」
「だから、私を日本と戦わせないでいただきたい、今村少将!! 」
「――ということでだ、千路!」
石原は机を叩き、千路を鋭く指差した。
「貴公を我が軍政部最高顧問直属の『特別班長(特務大使)』に親任する!
今すぐ隠密に国境を越え、モンゴルへ往け!
あの懐かしい『大頭領閣下(左之助)』にも会えるかもしれんぞ」
「特別班長……拝命いたします! ザンザさんに会えるなら、よろこんで!」
千路は満面の笑みを浮かべ、深く敬礼した。祖父譲りの活人剣を胸に、大嘘の国を本物に変えるため、千路は再び動き出す。
こうして、若き緋色の特別班長は、内・外モンゴル大統一を懸け、大草原の旅が始まったのである。
新京を離れた千路は、地平線の向こうまで続く内モンゴルの大草原を渡り、
徳王の巨大な白き天幕へと辿り着いた。
だが、千路がゲルの扉を開けた瞬間、室内に響き渡ったのは厳かな密談などではなく、
鼓膜が破れんばかりの凄まじい大怒号の応酬であった。
「モンゴル帝国の末裔がどんなもんかと思ったら、一回負けたぐらいで日和ってんじゃねえぞごらあ!!!」
「お前こそこの前まで中国軍にいたくせに、いきなり馬賊の大群引き連れて『北京に一緒に乗り込め』って頭湧いたこと言ってんじゃねえぞごらああああ!!!」
ゲルの中央で、胸倉を掴み合って顔を真っ赤にしているのは、78歳になっても健在な大ダミ声を響かせる相楽左之助と、
丸眼鏡を歪ませて青筋を立てている徳王であった。
二人の足元には、彼の怒りで叩き割られたであろうゲルの調度品の破片が転がっている。
「おろろ!? 二人とも落ち着いてくださいーーーっっ!!!」
千路は慌てて二人の間に割って入り、飛天御剣流の神速で二人の手を力ずくで引きはがした。
「千路!? お前、なんでここにいるんだよ!」
「緋村特別班長……! ちょうど良いところに来てくれた、この乱暴な老馬賊を今すぐつまみ出してくれ!」
「二人とも、ゲルの外まで声が丸聞こえです!
とにかくなんで喧嘩してるんですか?理由をお聞かせ願いたい」
事の発端は徳王率いるモンゴル軍と、左之助率いる中国軍が、
ラマ教の寺院がある百霊廟の荒野で戦ったことにある。
当時の左之助は蒋介石と共に中華統一を目指していた。
それがアジアの安定のために一番いいと思っていたからだ。
徳王と懇意にしていた関東軍も左之助を敵に回すわけにはいかず、
百霊廟の戦い時は中立を決め込んでいた。
結果左之助率いる中国軍が徳王のモンゴル軍を圧倒したが、
その後、共産党との合作を巡るいざこざで、張学良が蒋介石に幽閉されたと聞いてブチ切れた左之助が、
張学良派の軍団を引き連れ徳王側に寝返ったのだ。
その情報を掴んだ石原が好機と見て派遣したのが千路である。
千路は全てを理解し、徳王に告げる。
「徳王様。まずは半年前の『百霊廟の戦い』での日本軍の沈黙、同じ日本人として心からお詫び申し上げます。
なので、関東軍や日本軍(本土)の出方に、もうこれ以上振り回されるのは止めましょう!」
「何だと……?」徳王が眉をひそめる。
「満洲は今、満洲軍を組織し直し、満洲を満洲人自身で守れるように歩みだしています。
なので、モンゴルの人々も、自らの手でモンゴルを守る道を歩みださなければなりません。
そこで私が提案したいのが、内と外に分かれるモンゴルを統一し、
『大モンゴル連合軍』をここで創るべきだと思うのです!」
千路の提案に徳王が、そして左之助も目を見開く。
「日本軍の都合に合わせるから、百霊廟で見殺しにされる。
蒋介石に縋るから、張学良閣下のように裏切られて幽閉される。
だったら、大国に頼らない自分たちだけの軍隊を創り、
自分たちの力でこの広大な国を、民の笑顔を護り抜きましょうよ!」
千路の、一点の嘘もない真っ直ぐな青い瞳が輝く。
そして、左之助がフッと新斬馬刀を担ぎ直し、不敵に笑う。
「へっ……言うじゃねえか緋村のガキ。そういうことだ、徳王。
これからは日本や中国、そしてソ連をも縮こませる新大モンゴル帝国を創ろうじゃねえか!」
「……内外モンゴル連合の、大モンゴル帝国軍……」
徳王は二人の規格外の熱量に圧倒されながらも、丸眼鏡の奥の瞳に、
かつてない本物の「独立への希望」の火を激しく燃え上がらせるのだった。
――だが。歴史の冷酷な歯車は、この「本物の理想」へ向かおうとした石原の動きを、決して見逃さなかった。
千路が新京を離れ、広大なモンゴル高原へと潜入したまさにその裏で、東京の参謀本部(陸軍中央)が動いた。
満洲の完全独立と関東軍の解体という、国家への最大の「反逆」を察知し、
激しい危機感を募らせた関東軍参謀長・東條英機ら『拡大派』の秀才官僚たちが、一斉に牙を剥いたのである。
「軍政部直属の特別班長だと!? 石原の奴、治安遊撃隊長だったあの緋色の小僧にそんな全権を与えて、
私兵のように動かしているのか! 関東軍を日本から切り離すなど、断じて許さん」
奇しくも満洲事変で石原が千路のいない間に満洲を制圧したように、
石原自身も千路のいない間に拡大派に制圧されたのである。
「ちっ!こんなことなら満洲軍最高司令官にでもなっておくんだった」
石原の思い描いた満洲の平和は音を立てて崩れ、
昭和十二年(1937年)七月七日、関東軍の全権を握る東條英機が、
北京郊外の盧溝橋で響いた銃声を機に、戦火を中国全土へと瞬く間に拡大させていくのである。
そんなことなどつゆ知らず、特別班長となった千路と左之助は、
外(北)モンゴルに潜入している徳王の遠戚にあたる王族たちを訪ね、味方に引き入れようと奔走していたのである。
ソ連の厳重な国境監視網をくぐり抜け、秘密警察の目を盗み、
千路たちが大草原の片隅でようやく接触を果たしたのは、
徳王の遠戚であり、その誠実な人柄から民族の長老として深く慕われる外モンゴルの最高位活仏
――ディルワ・ホトクト(ディルバ活仏)であった。
師の隠れ家へ至るまでに二人が目にしたのは、ソ連の独裁者スターリンと親ソ派チョイバルサンによる『大粛清』の凄惨な血の嵐であった。
「我らモンゴル古来の指導者や知識人は、片っ端から『反革命的』や『人民の敵』だとの理由で連行されている。
奴らが奪っていくのは、我らの命だけではない」ディルワ・ホトクトは震える手で数珠を握り締め、深く絶望に染まった声を絞り出した。
「昨日も、私が父や師と仰いだ高僧たちが引きずり回され、何千、何万という経典と共に美しい寺院が焼き払われた。
家畜と共に大草原を自由に生きる我らの誇りは『古い悪習』と断じられ、先祖代々紡いできた美しいモンゴル文字すらロシアの文字へ変えられようとしている。
チンギス・ハーンの名を囁くことすら許されぬ……。何百年と受け継がれてきた我らの魂も、美しき伝統も、
すべて赤き泥靴で根こそぎ踏みつぶされ、歴史から消されようとしているのだ。この大草原は、もう我らの国ではない……!」
老活仏の胸をかきむしるような悲哀の叫びに、千路の一点の嘘もない真っ直ぐな青い瞳が、激しく燃え上がる。
千路は静かに、石原莞爾から託された
「大国に依存しない独立国家同盟」の真摯な計画書をまっすぐにディルワ・ホトクトへと差し出した。
その濁りのない光に、老活仏の絶望に濡れた瞳へ、再び微かな希望の火が灯る。
「……緋色の若者よ、君のその瞳を信じよう。今の北モンゴルで、
チョイバルサンの独裁に激しく抵抗し、密かに民族の自立を狙っている唯一の男がいる。
我が軍のトップ、ゲレグドルジーン・デミド元帥だ。
私が命を懸けて、元帥との橋渡しをしよう」ディルワ・ホトクトの命がけの手引きにより、
千路たちは深夜、月明かりすら遮られた天幕の影でデミド元帥との極秘の密会を取り付けることに成功する。
軍服に身を包んだデミド元帥の鋭い眼光には、深い苦渋と、それを凌駕する強固な意志が湛えられていた。
「まさか、ディルワ師の手引きで日本軍の使者が私に接触してくるとはな」
デミドは静かに、しかし地響きのような低い声で語り始めた。
「チョイバルサンはスターリンの忠実な猟犬に成り下がった。
奴はソ連の歓心を買うためだけに、我らと同じ血の通った同胞を容赦なく秘密警察の銃口へと差し出している。
今の外モンゴルはソ連という巨大な怪物の家畜小屋に過ぎん。
我が民族の魂も誇りも、すべて赤き泥靴で踏みにじられているのだ!」
デミドは拳を血が滲むほどに強く握り締め、千路を真っ直ぐに見据えた。
「私は祖国を愛している。だからこそ、この手でハルハをソ連の呪縛から解き放ち、真の独立を勝ち取らねばならん。
千路殿、君が掲げる理想の同盟、それだけがこの暗雲を切り裂く唯一の光だ。私は北モンゴル人民軍総司令官の座を捨ててでも、
君たちの『本物の王道楽土』に全てを懸けよう」ここに、ディルワ・ホトクトが繋いだ魂の架け橋によって、
「南北モンゴル統一の盟約」が密かに成就したのである。
元帥の極秘の仲介により、千路たちは粛清の魔の手が迫っていた北モンゴルの有力な民族派将校たちと次々に接触。
彼らを水面下で味方に引き入れることに成功していく。
しかし、そのあまりにも急速な軍内の動きを、ソ連の秘密警察が見逃すはずはなかった。
「デミド元帥が不穏な動きを見せている。『日本のスパイ』として関東軍に通じた容疑、
ならびにチョイバルサン議長の転覆を企てた『反革命陰謀罪』の疑いがある。直ちにモスクワへ連行せよ」
千路たちの働きで北モンゴルの有志が集合しようとしていた矢先、デミド元帥は尋問と処刑のため、
モスクワへ向かう「死の列車(シベリア鉄道)」へと強制的に乗せられてしまったのである。
「元帥を絶対に死なせはしません。ザンザさん、列車を追います!」
知らせを聞いた千路の追跡劇が始まった。
二人はモンゴルの友軍による「遊牧民ネットワーク」で狼煙と早馬によるリレーを味方にし、広大なる大草原を一気に駆け抜ける。
国境を越えると、見渡す限りの草原からシベリアの深い針葉樹林の密林へと景色が変わるなか、
3日後、シベリア鉄道の要衝であるイルクーツク駅の手前で、
バイカル湖畔の切り立った崖とトンネルの連続に速度を落としていた重装甲列車の黒い煙を捉えることができた。
ソ連の重装甲列車内。何重もの鉄板で補強され、機関銃まで配備された「走る要塞」の客車内で、
デミド元帥は冷酷な運命を覚悟していた。
「そこまでだ、ソビエト赤軍!」千路の神速の逆刃刀が閃光となり、護送兵の小銃を一瞬ですべて叩き折る。
屋根を破って現れた左之助の拳が吠え、鉄壁を歪ませてソ連兵を気絶させた。
「千路殿、左之助殿……! よくぞ来てくれた!」
「デミド元帥、お迎えに上がりました! さあ、僕たちの国を造りに行きましょう!」
だが、元帥を奪還されたソ連赤軍は激怒。イルクーツクの基地から緊急発進した最新鋭の装甲車軍団と、
複葉戦闘機『ポリカルポフI-15』の編隊が、機銃掃射を浴びせながら猛追してきた。
前方には赤軍の絶望的な包囲網。完全に退路を断たれた。
「……いや、道ならあそこにあるぜ!」左之助が新斬馬刀で指差したのは、
バイカル湖畔の平原に着陸していた、ソ連軍の大型輸送飛行機だった。
「あそこにいいもんがあるぜ!前から乗ってみたかったんだ」
「お、おろろろろ!? ザンザさん、まさか……!」
左之助は不敵にニヤリと笑った。「当然操縦できるよな?」
「石原参謀から毎日のように飛行機の話聞かされているので多少の構造は……」
「わしも空軍の創設にかかわっているので多少の構造は……」
しどろもどろの千路とデミドだったが、左之助は気にしない。
「ハッ、二人して理屈がわかるなら上等だ! 飛べばどうにかなるだろォが! 乗り込みな!」
操縦席と副操縦席に座る千路とデミド。
「元帥、どれがスロットルですか!?」
「待て、確かこのレバーを前に押し込んで……いや、こっちのペダルだったか!?」
「おろろろ、早くしないと追っ手が来ちゃいます!」
離陸までにあたふたしている間に、秘密警察の装甲車軍団が猛スピードで突っ込んできた。
「おいおい、早くしろ緋村のガキ! 敵さんが目の前まで来ちまってるぞ!」
左之助はハッチから身を乗り出す。武器を探すと、そこには兵食用に積まれていた、大量の鉄製の「缶詰」の山があった。
「へっ……大砲より、こっちのほうが俺の性に合ってるぜ!」
左之助は特大の缶詰を掴むと、迫り来る装甲車へ、満身の力を込めて投げつけた!
ドガアァァン!!!ただの缶詰が、左之助の剛力によって砲弾と化す。
衝撃でフロントガラスが粉砕され、車は次々と大横転。
上空の戦闘機に対しても、左之助は『二重の極み』を乗せた缶詰をマシンガンの如く連射し、煙を吹かせて不時着へ追い込んだ。
「ザンザさん、浮きます!掴まって!デミド殿。今です、操縦桿を引いてください!」
「よし、全開だ!!」千路の合図でデミドが必死にスロットルを引き絞る。
輸送機はソ連軍の包囲網の頭上をかすめ、大空へと強烈に舞い上がった。
行きは馬、帰りは飛行機。近代の超スピードで雲の隙間を縫うウルトラ大脱出劇を演じた彼らは、
バイカル湖の白い闇を抜けて南モンゴルへと消え去った。
――静まり返ったシベリアの雪原。イルクーツクの現場で缶詰まみれになっている秘密警察の姿があった。
「どうしますか隊長? 逃げられました……。上にどう報告すれば……」
「……デミドは缶詰に当たって死んだとタイガの本部に伝えとけ!!」
こうして前代未聞の失態を隠すため、西シベリアの要衝・タイガにあるソ連特務本部は
「デミド元帥は移動中、タイガ駅にて缶詰の食中毒で死亡した」という大嘘の公式ニュースを世界へ発信したのである。
世界的に「死人」となったデミド元帥に、もう迷いはなかった。
元帥の命がけの脱出を知った外モンゴル軍の同志たちが一斉に蜂起。
彼らは秘密基地からソ連製の最新鋭『BA-6装甲車』の列や『マキシム重機関銃』を丸ごと強奪し、
千路やディルワ・ホトクトらと共に国境の防衛線を突破し、南モンゴルへと怒涛の亡命を果たすのである。
一方、南モンゴル。
張家口の防衛前線で、関東軍の援助もなく孤立無援のなか、傅作義の猛攻を前に天幕で頭を抱えている徳王。
その耳に、突如、天地を揺るがす凄まじい地鳴りが押し寄せてきた。
「なんだ……この地響き……!? 中国軍の別働隊か!?」
徳王が慌てて外に飛び出すと、地平線を引き裂くようにして、猛烈な砂塵のなかから見たこともない大軍勢が姿を現した。
それは馬の蹄の音を遥かに凌駕する、重厚な鉄のキャタピラと大型トラックのディーゼルエンジンの大咆哮だった。
先頭を駆けるのは、ソ連製の最新鋭『BA-6装甲車』の長い縦列。
そして、その背後にはマキシム重機関銃を背負った数万規模のハルハ(北モンゴル)の精鋭大軍勢が連なり、
トラックの荷台には、解体・格納されたあの巨大なソ連の大型輸送機『PS-84』が堂々と鎮座していた。
装甲車から飛び降り、満面の笑みで駆け寄ってきたのは、緋色の髪をなびかせる千路と、新斬馬刀を担いだ左之助だ。
「徳王様! 北の同志たちを連れて、今戻りました!」
さらに、隣の装甲車のハッチから、ディルワ・ホトクトと共に姿を現したのは、
世界中が「死んだ」と信じ込まされている北の軍最高権力者――ゲレグドルジーン・デミド元帥その人であった!
元帥の呼びかけに応じ、北の秘密基地から最新兵器と飛行機を丸ごとトラックに積み込んで国境を越えた「助っ人の大軍」が、
まさに今、千路たちと同時に張家口の窮地へと滑り込んできたのだ。
左之助が驚愕に震える徳王の肩をドンと叩いて笑った。
「見ろよ徳王!関東軍が日和って動かねえなら好都合だ。
大国の都合に縋るのをやめた瞬間、ソ連の最新兵器フル装備の本物の『大モンゴル連合軍』が完成しちまったんだからよ!」
前線に配備されたモンゴル統一軍が、攻め寄せる傅作義の中国軍を見据える。
「徳王様、デミド元帥の軍と共に、押し寄せる中国軍をここで迎え撃ち、僕たちの国を、民の笑顔を守り抜きましょう!」
「……ああ。応ともさ!!」徳王の目に、失われたはずの『独立の炎』がかつてないほど激しく燃え上がった。
大国のエゴによって引き裂かれていた広大なゴビ砂漠の南北が今、
圧倒的な大群勢の地鳴りとともに、真の統一軍として歴史の表舞台へと躍り出たのである――。
「どうせ徳王の敗残兵どもだ、一気に踏み潰せ!」
張家口の目前まで攻め寄せていた中国軍閥・傅作義の兵たちが一斉に小銃を構える。
しかし彼らの前に現れたモンゴル兵は、かつてのような弓矢を持つ騎兵ではなかった。
ソ連製最新鋭『BA-6装甲車』の重厚な鉄の壁と、地平線を埋め尽くす南北統一モンゴル軍の圧倒的な大軍であった。
「全車、一斉射撃! 誇り高きモンゴルの真の力を思い知らせてやれ!」
デミド元帥の硬質な号令とともに、45mm砲と重機関銃が火を噴き、油断していた傅作義の中国軍を真っ向から撃ち砕く。
「へっ、大砲の撃ち合いなら、こっちのほうが一枚上手だぜ!」
大パニックの敵陣へ左之助が飛び降り、新斬馬刀を振り回して敵の装甲車にその拳を叩き込む。
「くらいやがれ! 『二重の極み』!!」
「飛天御剣流――『九頭龍閃』!!」
左之助と千路の大技が傅作義の前線本陣を瞬時に無力化。張家口で完璧な大敗北を喫した傅作義の軍勢は、
命からがら、去年の勝ち戦の拠点である戦略の要衝『百霊廟』へと退却していった。
しかし、大草原の狼たちの猛追は止まらない。
「勢いを緩めるな! 傅作義が逃げ込んだ百霊廟へ、そのままなだれ込むぞ!」
千路と左之助、そしてデミド元帥率いる統一軍は、敗走する中国軍を追って百霊廟へと電撃的に侵攻した。
全面戦争(日中戦争)の混乱を突いたその電撃戦の前に、百霊廟の中国軍防衛線はなす術なく崩壊。
千路たちは去年の雪辱の地である聖地を、完璧な大勝利で大奪還したのである。
「緋村特別班長、相楽大頭領、君たちこそ真の友だ! 我が民族は甦った!」
大歓声に沸く百霊廟の城内で、徳王は涙を流して二人の手を固く握りしめた。
自分たちの力だけで掴み取った本物の自立。
これこそが、新京の石原莞爾が夢見た満蒙独立同盟の偉大なる第一歩であった。
百霊廟からも追われ、完全に敗走していく傅作義の軍勢を城壁の上から見下ろしながら、
左之助は新斬馬刀を荒々しく肩に担ぎ直し、不敵な笑みを浮かべて叫んだ。
「おい、傅作義! 近々張学良を迎えに行くから、蒋介石と美味しい中華用意して待ってろよ!!」
その豪快な声は、草原の風に乗って去りゆく中国軍へと響き渡った。
モンゴル統一軍大勝利の大歓声が響き渡る祝杯の席へ、
満洲の愛新覚羅溥儀の密偵が千路のところにやってきて満洲の現状を伝える。
「……石原参謀が、日本に送還された……!?」
「あぁん? 何だって?」左之助が眉をひそめる。
「九月二十七日付です……。僕たちがモンゴルの奥地を駆けている間に、
東條関東軍参謀長が石原参謀を作戦部長の職から引きずり下ろして、軍の中央から完全に放逐した……。
それだけじゃない、日本軍は満洲の資源を奪うために、満洲国軍の中国人兵士たちを、
中国本土の侵略戦争(日中戦争)へ強制連行しようとしています!」
「……あいつら、どこまで汚えマネすれば気が済むんだよ!!」
左之助の怒号が城内の天井を震わせる。
自分たちが命懸けで本物の独立を証明したまさにその裏で、
国家の怪物は満洲の理想を叩き潰し、民を使い捨ての道具にしようと暴走を始めていたのだ。
新斬馬刀を荒々しく肩に担ぎ直し、左之助が千路を睨みつける。
「どうする? このままモンゴル統一軍を引き連れて、新京へ東條の首を撥ねに行くか?
今の俺たちなら、関東軍の喉元を食い破るくれぇ朝飯前だぜ!」
「……いいえ、満洲を戦場にしたくはありません。」
千路は静かに、しかし鋼のように強い眼差しで首を振った。
「戦えば、傷つくのはまた日満双方の名もなき民たちです。
……関東軍の兵士たちも、僕たちの仲間である満洲国軍の兵士たちも、
石原さんが更迭されて黙っていられるはずがない。
いっそ、満洲国軍の全軍に不戦を呼び掛けて、東條を孤立無援にするのはどうでしょう?」
……ニヤリと、左之助の唇が不敵に吊り上がった。
「へっ……言うじゃねえか緋村のガキ。銃を抜かずに、あの生真面目な官僚の禿どもを精神的にハメ殺そうってわけか。
おもしれえ、その賭け乗った!」
こうして、千路と左之助による、前代未聞の「無血の満蒙大包囲作戦」が幕を開けた。
左之助と徳王は、百霊廟を奪還した『南北モンゴル連合軍』を率いて、
満洲の西側国境へと怒濤の勢いで進軍し、無言の軍事プレッシャーをかけた。
中国本土で戦う日本軍にとって、背後のモンゴルから正体不明の大軍勢が迫る恐怖は凄まじく、
新京の東條英機はパニックに陥り、満洲国内の兵力を動かせなくなる。
一方千路が向かった先は安国軍司令長官室。
安国軍司令長官・川島芳子に向かって、真っ直ぐな青い瞳をぶつけた。
「東條参謀長は満洲の兵を中国本土の戦争へ連行しようとしています。
だから、満洲国軍の全軍に不戦を呼び掛けて、東條を孤立無援にしたいんです!
どうか川島司令……あなたの力を貸してください!」
「ボイコット? ……ふ、ふふ、あはははは!」
芳子は細い煙草をくわえたまま、信じられないものを見たというように大爆笑した。
「あんた本当に最高ね、千路坊や! あのハゲを精神的にハメ殺そうってわけ? 面白すぎるじゃない!」
芳子はケラケラと笑いながら千路の頬を軽くつつき、一瞬で不敵な特務のエース――安国軍司令長官の顔へと切り替えた。
「いいわ、その作戦、この私が全力でプロデュースしてあげる!
単なるボイコットじゃ生ぬるいわ。関東軍の腰を完全に抜かしてあげるから、見てなさい!」
芳子は兄の溥儀を動かし、国務院から一つの公布を出せた。
それは『三者面談』『子供の運動会』『授業参観』を一斉に開催させるものだった。
物流を担う従業員が一斉に有休をとり、交通網は完全にマヒ。
輸送や兵站がストップし、その日、満洲は完全停止された。
「す、凄すぎます、川島司令! まさかここまで完璧に東條参謀長を孤立させてしまうなんて……!」
「ふふん、男をハメるのなんて私の本業よ。……さあ千路、お膳立ては完璧に整えてあげたわ。
今すぐ作戦室に乗り込んで、あの白目を剥いてる東條の胸ぐらを思いっきり引きちぎってきなさい!」
「はい! 行ってきます!」
「千路わかってるわね?ここまでしてあげたんだから今夜は‥‥」
芳子が気づいたらもう千路はいなかった。
「相も変わらずあのガキは‥‥」
国境からは左之助の数万の軍勢、国内からは千路と芳子による完全なボイコット。
完璧に行き詰まり、新京の作戦室で血走った目で頭を抱える東條英機の前へ、千路が堂々と正面から姿を現した。
「……緋村! 貴様、満洲軍に何を吹き込んだ! なぜ誰も動かん!」
激怒する東條の胸ぐらを、千路は猛然と引き寄せ、地響きのような声で恫喝した。
「お前たちが勝手に始めた戦争に、満洲人を巻き込むなあああァァァッッ!!!」
「これ以上、僕の仲間たちを不毛な戦争の消耗品にするというなら、内と外から関東軍を完全に孤立させてへし折る!
嫌なら今すぐ、満洲軍への出兵命令を白紙に戻せ!」
千路が突きつけた満洲軍の血判状、そして外側からの左之助のプレッシャー。
東條は千路の圧倒的な活人剣の殺気と、完璧な包囲網の前に、完全に腰を抜かしてしまった。
満洲国軍の相次ぐ不抵抗とボイコット、そして特別班長・緋村千路が放った魂の恫喝により、
新京の関東軍司令部で傲然と踏ん張っていた東條英機参謀長の現地統治は、完全に足元から瓦解し、行き詰まっていた。
しかし、東條を追い詰めた真の包囲網は、千路の現場だけではなかった。
同時期、山形県酒田の地方師団へと左遷されていた石原莞爾は、中央からの放逐にへこたれるどころか、
その天才的な頭脳をフル回転させて東京の陸軍省へ次々と極秘の直言を送り続けていた。
『東京の今村へ。新京の東條は千路の「サボタージュ」に完全に足元をすくわれ、満洲軍の手綱を失ってパニックを起こしている。
大局を誤る前に、今すぐあの無能を更迭せよ』その電文を、東京・三宅坂の陸軍省のデスクで受け取った男がいた。
陸軍省きっての要職――「兵務局長」の椅子に座る、今村均中将であった。
今村は石原からの電文を読み終えると、丸眼鏡の奥の目を優しく細め、フッと微笑んだ。
手元にあるのは、東條英機の「関東軍参謀長・免職」の人事書類である。
本来なら陸軍内部の大物の首を切るなど大騒動になるところだが、
いまや千路が現場で東條の満洲軍のボイコットという「決定的な統治不全の実績」を叩きつけてくれたおかげで、
更迭の大義名分は完璧に揃っていた。
「……緋村、よくやったな。お前が現地で東條の欺瞞を暴いてくれた。
石原、お前の呪いも届いたぞ。これでようやく、あいつを満洲から引き離すことができる」
今村は静かに、しかし力強く人事書類に朱の判を押した。
千路と交わしたあの「民のための盾となろう」という満洲での約束を、
今村は東京の権力の中枢から、完璧な政治的アシストという形で果たしたのである。
昭和十三年(1938年)五月。東條英機は千路たちのネットワークに完全に主導権を握られ、
追われるように逃げ帰る「事実上の現場からの更迭(排斥)」を食らい、
新京の駅のホームから屈辱的に日本へ去って行くのであった――。
昭和十三年(1938年)七月。新京から東條英機を屈辱とともに追い落としてから、わずか二ヶ月。
千路と愛新覚羅溥儀ら『戦線不拡大派』は、東京の兵務局長・今村均中将という強力な同志と共に、
満洲の平和を維持すべく薄氷の政治戦を続けていた。
しかし、東京へ逃げ帰った東條英機は、千路たちに満洲の主導権を握られた屈辱に血の涙を流し、
自らの失脚を覆すための「次なる狂犬」を解き放った。東京の陸軍省で軍事課長を務める田中新一大佐である。
「緋村には、合法的にこの満洲の中枢から退場してもらう。
それも、奴が喜んで飛びつくような『人道』という名の大義名分を用意してな」
数日後、特別班長である千路は、作戦室へと呼び出された。
「緋村特別班長。君に、国家の命運を分ける極秘の人道任務を託したい」
田中が提示したのは、満洲北端の国境駅「満洲里」の報告書だった。
ナチス・ドイツの迫害から逃れ、シベリア鉄道を越えて行き場を失った大量のユダヤ人難民が、
今まさに国境線に押し寄せ、悲鳴を上げているという。
「我が国はナチスと同盟(防共協定)を組んでいる手前、軍の公式な動きとしては彼らを拒絶せねばならん。
だが……君の持つ『治安遊撃隊長』としての実績と不殺の信念があれば、
軍の枠を超えて彼らを秘密裏に保護し、満洲国内へ受け入れる道(河豚計画)を切り開けるはずだ。
これは東京の今村兵務局長とも裏で握った話だ。君にしか頼めない」
千路の、一点の曇りもない真っ直ぐな青い瞳が、難民救出という言葉に激しく熱く輝いた。
「ナチスの迫害から、民の笑顔を護るため……。わかりました、僕が極北へ向かいます!」
だが、田中の罠はこれだけでは終わらない。千路が満洲里へ発とうとしたその刹那、
田中は「もう一つ、和平のカードがある」と言葉を重ねた。
「君の相方の相楽左之助頭領が、かつて蒋介石に幽閉された恩人・張学良を救い出すため、
単身で中国奥地の西安へ向かったという情報がある。
満洲里での難民保護が落ち着き次第、君も極秘の交渉大使として西安へ向かってくれ。
張学良の身柄を穏便に日本側へ確保できれば、泥沼の日中戦争を終わらせる決定的な和平の引き金になる」
「日中の和平を……! 必ず、やり遂げてみせます!」
千路は、己の「優しさ」と「情義」のすべてを利用した田中の隔離工作だとも知らず、
深く敬礼し、新京を後にした。極北の満洲里、そして遥か南西の西安へ――。
千路を数ヶ月、あるいは一年近くにわたり、
満洲の防衛中枢から完全に隔離する完璧なチェス盤の罠であった。
千路が去った作戦室で、田中新一が獰猛な笑みを浮かべて机を叩く
「今村や石原の不拡大の呪縛も、これで終わりだ。
南京が落ちた今、次はソ連の領土を狙う!」
――ユダヤ人難民の保護と受け入れを定めた実在の計画『河豚計画』の現場全権を遂行するため、
満洲北端の国境駅「満洲里」へと向かう。
特急列車の客車内。吹き付ける地吹雪の音を背に、
千路はこの地で合流したハルビン特務機関長・樋口季一郎少将と向き合っていた。
手元にある難民の資料をめくりながら、千路はふと胸に抱いた違和感を口にした。
「……ユダヤ人保護。ずいぶんと人道的な配慮ですね」
千路の言葉に、樋口少将は静かに煙草に火をつけ、苦い煙を吐き出した。
「……残念ながら、奴らの目的は単なる人道的配慮ではない。
このユダヤ人難民の中には、多くの最先端技術を持った技術者がいる。
ユダヤ人に恩を売って、その技術を日本に齎すのが真の狙いなのだよ。
田中は、人道を隠れみのにして彼らの『頭脳』を買い叩こうとしている」
「じゃ、じゃあ! 樋口少将も最初からそれが目的で!?」
千路が驚愕し、青い瞳を揺らす。しかし、千路の鋭い視線を受け止めながらも、樋口は隠すことなく本音を語った。
「……できるだけ人道的配慮はする。しかし、優秀な技術者がいるのなら味方につけたいのが本音だ」
「強制的に協力させるんじゃないんでしょうね?」千路が詰め寄る。
その瞳に宿る烈火のごとき活人剣の意志に、樋口はフッと微笑み、首を振った。
「もちろんだ。技術力は国家の存亡にかかわる。自発的に協力してくれる人材ではなければならん。
銃口を突きつけて作らせた兵器など、戦場では使い物にならんからな」
「その言葉を聞いて安心しました」千路は静かに胸をなでおろし、まっすぐに樋口を見据えた。
「あくまで判断は彼ら次第。それでいいですね?」
「異存はない」
樋口は煙草を灰皿に押し付けた。大人の冷徹な現実のなかに、確かな「誇り」がある。
大国の暴走から満洲の民を、そしてモンゴルの誇りを護るための、
彼なりの必死の「防衛戦略」があることを千路は直感していた。
――数時間後、満洲里駅。
酷寒の夜風が吹き荒れるホームは、ナチス・ドイツの迫害からシベリア鉄道を越えて逃れてきた、
何千人ものユダヤ人難民の悲鳴と絶望で溢れかえっていた。
駅の改札には、同盟国であるドイツへの配慮から
「公式ビザのない難民は一人とも国内へ通すな」と、銃を構えた関東軍強硬派の現場兵士たちが壁となって立ち塞がり、
緊迫した睨み合いが続いていた。
「ビザのない者は退去させろ! 逆らう者は力ずくで排除せよ!」強硬派の指揮官が銃剣を突き出し、難民たちを押し返そうとする。
「そこまでだ! 銃を収めなさい、関東軍の兵士諸君!」千路がその間に堂々と割って入った。
千路は懐から、新京で田中大佐から託された大本営直属・特別班長の「全権特命書類」を烈風の中で広げ、
強硬派の指揮官の目の前へ厳然と突きつけた。
「私は特別班長・緋村千路。軍中央の最高命令に基づき、これよりこの地に到着した全難民の保護、
および満洲国内への特別輸送作戦を執行する。
命令に逆らう者は、中央への叛逆とみなす!」
田中の署名が記された公式書類の圧倒的な重みの前に、強硬派の兵士たちは驚愕し銃口を下げる。
「よく言った、緋村特別班長」樋口少将が千路の肩を叩き、歩み出る。
「田中が用意した大義名分だろうと、使えるものはすべて使うのが私のやり方だ。
我がハルビン特務機関の全力を挙げ、私の独断で、全難民へ満洲国の臨時『特別通過ビザ』を即座に発給する!
堂々と、この河豚計画を断行させてもらうぞ!」
樋口少将の力強い言葉とともに、
ハルビン特務機関の全力を挙げた臨時の『特別通過ビザ』が発給された。
千路は、凍てつくホームで不安に震える何千人ものユダヤ人難民を前に、その澄んだ声を響かせた。
「皆さん、安心してください! ここから先は、もう誰も皆さんを傷つけません。
……これより、二つの選択肢を提示します。
満洲国には、皆さんのための衣食住の用意があります。
この地に残り、都市発展や技術開拓に協力してくださる方には、我々が生活のすべてを全力で保証します!」
千路の言葉に、難民たちの間にざわめきが広がった。千路はさらに言葉を重ねる。
「そして、このままアメリカや南米への亡命を望み、上海まで行きたい方は、
この緋村特別班長が責任を持って護衛し、上海の共同租界まで誘導します。
ご自身の意志で、進む道を選んでください!」
「強制ではなく、選択させるか。君らしいな、緋村」
樋口少将が感銘を受けたように目を細める。
「残留組の生活基盤と秘密研究所の設営は、我が特務機関が責任を持とう」
樋口少将に満洲の未来を託し、千路は次の任務へと移行する。
「では樋口閣下、僕はこれより、上海行きを希望した難民たちの護衛として、満鉄の特別列車へ同乗します!」
ナチスの秘密警察や国内強硬派による襲撃の手から難民を完全に護り抜き、
上海へ送り届けるまでの長い旅路。千路が神速の逆刃刀で暗殺者たちを誰も殺さずに退けていくなか、
特別列車は満洲国を縦断する。
数千の難民はついに、戦火の届かない安全な「上海共同租界」へと無事に足を踏み入れた。
任務を完遂し、上海の港で安堵の息を漏らす千路。しかし休む間もなく共同租界の管理局へと向かった。
そこでは、現地のユダヤ人財閥や有志によって組織された「上海難民救済委員会」の代表たちが、一刻の猶予もない面持ちで待ち構えていた。
千路は特別班長として、ハルビンから満鉄の特別列車で護送してきた数千人の「公式難民名簿」を机の上に広げ、現地の代表へと手渡した。
「――これが、満洲里から上海まで無事に送り届けた全難民の身元受け入れ書類です。
ハルビン特務機関の樋口少将の署名も入っています。皆さんの衣食住、および今後の渡航手続きの引き継ぎをお願いします」
名簿を受け取った救済委員会の代表は、震える手で書類をめくり、信じられないといった様子で千路を見つめた。
ナチスの秘密警察や関東軍強硬派の追撃を潜り抜け、これほど多くの同胞が、傷一つなく上海へ辿り着いたのは奇跡に等しかった。
「……あなたが、緋村班長ですね。満洲からここまでの命懸けの護衛、同胞を代表して心から感謝いたします。
あなたの『誰も殺さず、誰も見捨てない』という強い信念がなければ、この命のバトンは繋がらなかったでしょう」
代表の真摯な感謝の言葉に、千路は静かに微笑み、首を振った。
「いいえ。僕はただ、目の前で理不尽に奪われようとしていた命を護りたかっただけですから」
公式な引き継ぎ手続きがすべて完了し、港の埠頭へと戻ると、そこには手続きを終えた難民たちが集まっていた。
列車の中で千路が命懸けで守り抜いた子供たちが、母親の手を離れて千路の元へと駆け寄ってくる。
言葉は通じなくとも、子供たちは千路の外套の裾を握りしめ、覚えたての拙い言葉で「ありがとう」と何度も繰り返した。
周囲の大人たちからも、割れんばかりの拍手と、神への感謝を捧げる祈りの声が沸き起こる。
笑顔で手を振り返し、これからアメリカや南米へと旅立っていく彼らの未来を心から祝福しながら、
千路は上海の青い空の下で、ようやく安堵の息を漏らした。
そのとき、その温かい余韻を切り裂くように、背後から冷徹な気配が近づいてきた。
「――お見事でしたな、緋村特別班長」
周囲の喧騒とは明らかに異質な、計算され尽くした声。
千路がハッと警戒して振り返り、逆刃刀の柄に手をかけると、
そこには鋭い眼光を崩さぬまま、不敵な笑みを浮かべる一人の男が立っていた。
男は両手を軽く上げ、大袈裟に首を振る。
「刃を収めていただきたい。私は怪しい者ではありません。
……いや、あなたから見れば十分に怪しいか。申し遅れました、李士群と申します。
重慶の汪兆銘副総裁の意を受け、水面下で動いている者です」
「汪兆銘の……」
国民党ナンバー2の名を聞き、千路の青い瞳が微かに見開かれる。
李士群は周囲を警戒するように声を潜めた。
「西安へ向かおうとされているのでしょうが、あそこにはもう、あなたの探す張学良はいませんよ」
「何だって……!?」
「彼はすでに、蒋介石の手で重慶へと移されました。
そして……あなたの探す『相方』、相楽左之助もまた、張学良を追って重慶へと向かっています。
どうです、あなたも重慶へ来ませんか?」
予想外の告白に、千路が息を呑む。
李士群の口から語られたのは、主である汪兆銘と敵対する蒋介石の張学良を巡る政治的構図だった。
「我が主・汪兆銘の願いはただ一つ、これ以上の戦火の拡大を防ぐこと。
張学良が生きて幽閉されている限り、満洲や、相楽殿のモンゴル勢力を刺激し続ける。
いつ爆発するか分からない信管は、蒋介石の手から奪ってさっさと『処分』したいのです。
……まあ、我が方としては、日本へ亡命させて政治的に無力化する形でも構わないのですがね」
「……張学良を、我々に引き渡すというのか」
千路の言葉に、李士群は深く頷いた。
「我が主は、首都南京を落とされてなお、日本との全面戦争(泥沼)を望んではいない。
しかし、蒋介石の狙いは逆です。彼は張学良を左之助殿に返し、
あの大陸を震え上がらせている『内外モンゴル統一連合軍』を丸ごと味方に引き入れる気だ。
日本軍に対抗するための、巨大な盾としてね」
李士群の目が、妖しく光る。
「相楽殿が重慶へ向かっている今、張学良がモンゴル側へ渡ることを止めるすべはありません。
拒めばあの頭領の手によって、重慶は火の海になる。
……そこで緋村班長、あなたの出番です」
一歩、李士群が距離を詰めた。
「蒋介石と結託したモンゴル軍が日本を叩く。
……そうなれば遠くない未来、あなたはかつての相方である相楽殿と、
互いの命を賭して戦うことになるかもしれない。……そんな結末は、見たくはないでしょう?」
「僕がザンザさんと!?」
李士群の口から最悪の未来を突き付けられる千路。
「たとえあなたと相楽殿が刃を交えずに済んだとしても、
中国とモンゴルが完全に手を結べばどうなるか。
……いまの局地的な日中戦争は一気に形を変える。
中国・モンゴル連合軍対、日本・満洲。そこへ、北のソ連までが好機と見て牙を剥き、
この大陸を真っ二つに叩き割る、未曾有の大戦争の幕開けです」
一呼吸置き、李士群は本題を突きつける。
「なので、我々が張学良を引き取る際、左之助が暴れないよう、
あなたがなだめて抑え役になっていただきたいのです」
「ザンザさんを……」
千路は、相棒である左之助の真っ直ぐな情義を思った。
しかしその情義が誰も望まない結末になるのは明白だった。
「分かりました。ザンザさんは、僕が必ず止めます。
戦線の拡大は私も避けたい。ザンザとの交渉役、承りましょう」
千路の決意を確認した李士群は、満足げに頷いた。
こうして千路は、複雑に絡み合う三者の思惑を胸に、
李士群と共に上海の港を立ち、新たなる地――霧の都・重慶へと向かうのであった。
李士群の案内で、重慶の深い霧に包まれた国民政府軍事委員会の本庁舎に着く千路。
そのタイミングを見計らったように、もう一台の大型車両が滑り込むようにして停車した。
その車中から現れたのは、蒋介石の特務機関の案内で到着した相楽左之助だった。
「――ザンザさん!」
「おう、千路じゃねえか。お前も重慶に呼ばれた口か?」
車中から取り出した新斬馬刀を肩にかけ豪快に笑う左之助。
再会を喜ぶのも束の間、上海から同行してきた李士群が静かに進み出た。
「お二方、積もる話は後です。蒋介石閣下と汪兆銘副総裁がお待ちです。こちらへ」
李士群の案内に従い、重厚な扉の向こうにある執務室へと通される。
そこには、現在の中国の最高権力者である蒋介石と、その傍らで複雑な笑みを浮かべる汪兆銘が並んで座っていた。
左之助は用意されていた椅子にドカリと腰を下ろすと不敵に笑った。
「久しぶりだな、蒋介石。……で、美味い中華は用意してあんのか?」
その不躾な態度にも、蒋介石は表情を崩さず、静かに視線を投げかけた。
「相楽頭領、先日の百霊廟の戦いでは痛い目に遭わされました。
まさかあなたが、内外のモンゴル統一軍を率いて現れるとは夢にも思わなかった。
……ですが、我々はこれ以上の無駄な血を流したくはない。
ここは一つ、張学良をお返ししますので、もう一度我々と手を組んでいただきたい」
蒋介石が左之助のモンゴル軍を味方に引き入れようと揺さぶりをかける。
すかさず、隣の汪兆銘が口を挟んだ。
「しかし閣下、張学良を安易にモンゴルに渡せば、
また関東軍にあらぬ言いがかりをつけられ、新たな戦争の火種になりかねませんぞ。
張学良の身柄は、満洲か日本軍に引き渡した方が無難かと……。
千路殿も、そう思わんかね?」
日本の特別班長である千路の立場を利用し、張学良を日本側へ隔離しようとする汪兆銘。
大物二人の思惑が火花を散らす中、千路の青い瞳はどこまでも冷静だった。
「……周囲がどうこう言う前に、とりあえず張学良さん本人の意見を聞きましょう。判断は彼次第です」
千路の真っ直ぐな言葉に、李士群が静かに頷いた。
「では、私が独房へご案内いたします」
千路と左之助が立ち上がり、李士群と共に部屋を出る。
その時、蒋介石もまた席を立とうとした。だが、汪兆銘が慌ててそれを手で制する。
「これこれ閣下、あんな薄汚い独房など、あなたのようなお方が足を運ぶ場所ではありませんぞ」
汪兆銘は蒋介石を引き留めながら、すれ違いざまに李士群へと鋭い視線を送った。
(李士群……うまくやれよ。張学良を日本へ引き渡す算段をつけろ)
一方の蒋介石も、汪兆銘の動きに気づきながらも、冷徹な目を李士群に向け、心の中で呟いていた。
(何やら裏で動いているようだが……まあ、どう転んでも私に不利益はなかろう。
李士群……うまくやれよ。モンゴル軍を引き入れる口実を作れ)
二人の権力者の思惑を背に、李士群はただ深く一礼し、一同を地下の独房へと導いた。
鉄格子に囲まれた薄暗い独房。
その中に座る男の姿を見つけた瞬間、左之助が格子戸を開けて中へと踏み込んだ。
「久しぶりだな。……大分やつれたな、張学良」
「大頭領! お久しぶりです! まさか、こんな場所であなたに会えるとは……!」
張学良は目の前に現れた左之助と千路に驚愕するも、懐かしい顔を見て、その表情が歓喜に満ちる。
「私が捕まったことで、あなたが蒋介石と袂を分かち、
モンゴルへ渡って内外のモンゴル統一軍を作ったと聞いたときは驚きましたよ」
「ははは! 傅作義がしっぽ巻いて逃げる様、お前にも見せたかったぜ」
左之助は快活に笑い、格子越しに張学良の肩を叩いた。
「まあ、積もる話は表に出てしようや。さあ、ここから出すぜ」
しかし、張学良から出た言葉は思いもよらぬものだった。
「待ってください! 大頭領! 私はここを出る気はありません!」
「なんだと?」
左之助の眉が跳ね上がる。千路もその言葉に驚く中、張学良は引き締まった表情で語り始めた。
「私がここにいることこそが、中華統一の要なんです!」
「……どういうことだ?」
「今、国民党と共産党がなんとか共闘しているのは、私が牢にいながらも彼らを必死につなぎとめているからです。
もし私がここを出れば、再びかつてのように国民党と共産党が衝突してしまう」
「だからって。こんな所にいつまでもいるわけにはいかないだろ?」
国共合作政策を必死につなぎ留めたい張学良の心意気に感心するも、この現状は放っておけない左之助。
「大頭領は、中国の農村における、過剰なまでの共産党支持を知っていますか」
「何が言いたい?」
「蒋介石は所詮、軍閥上がりです。農民にとって彼らは、自分たちを搾取する大将でしかない。
しかし、共産党は違います。彼らは地主から土地を取り上げ、貧しい農民たちに公平に分配している。
……おそらく、最終的にこの広大な中華の統一を果たすのは共産党でしょう。
だから頭領。私はここに囚われ、彼らを繋ぎ止める楔となることで、
新たなる中華の誕生に一役買いたいのです!!」
自身の自由と引き換えに、大陸の未来を護ろうとする張学良の壮大な覚悟。
それを真っ正面から受け止めた左之助は、呆れるどころか、その顔に底知れない不敵な笑みを浮かべた。
「おもしれえ。……俺とお前、どっちが中華を統一するか勝負ってことだな」
張学良は一瞬目を丸くしたが、すぐに頭領の規格外の器に魂を震わせ、力強く微笑み返した。
「私は負けません!」
「わかった。じゃあ、もう何も言わん」
左之助は未練なく踵を返した。
彼らのやり取りを背後で静かに聞いていた李士群が、歩き出した左之助に声をかける。
「張学良をこのままにしておくんですか?」
「お前も聞いていただろう。これからは共産党だってよ。……お前はどう思う?」
左之助は歩みを止めず、横目で李士群を睨み据えた。
李士群は表情を微かに歪ませ、静かに息を吐き出した。
「私は特務機関のトップですよ。
地主に骨まで搾り取られて、飢餓と貧困で干からびている農村の現状など、嫌というほど知っています。
……共産党か。たしかに、あの男の言ったことは芯を喰っている」
「じゃあ、暗殺なんて狡い真似はしないよな?」
釘を刺すような左之助の鋭い眼光。汪兆銘から張学良の「処分(暗殺)」を裏で命じられていたはずの李士群だったが、
彼はフッと自嘲気味に微笑み、肩をすくめた。
「ふっ、たしかに、このまま生かしていた方がよさそうだ」
千路は、己の信念を貫き通す張学良と、それを受け止めた左之助、
そして心境に変化を生じさせた李士群の姿を静かに見つめ、
誰も殺さずにこの場が収まったことに安堵の息を漏らすのだった。
独房の薄暗い地下通路を上がると、一人の男が静かに佇んでいた。
仕立ての良い将校服の外套をまとい、紳士的に微笑を浮かべて声をかける。
「――見事な引き際でしたな、相楽頭領。そして、緋村特別班長」
低く、気品のある声が地下通路に響く。
「あぁ? 誰だお前は」左之助が怪訝そうに眉をひそめると、
隣の李士群が、それまでの余裕を完全に消し去った張り詰めた声で耳打ちした。
「……国民政府の軍事委員会政治部副部長であり、共産党の最高幹部……
周恩来中将です」
(誰も立ち入れないように手配していたが…、まさか共産党ナンバー2が直々に盗み聞きをするとは…)
「周恩来……!」千路の青い瞳が鋭く見開かれる。
蒋介石の懐深く、この重慶の国民党本部に堂々と陣取る共産党の巨頭。
その男を前にして左之助の目はギラリと肉食獣のように輝いた。
「へえ……お前が噂に聞く、共産党のいちばん偉い大将か。
ちょうど今、お前らの評判を中で聞いてきたところだ。
地主をぶっ叩いて、貧乏な農民どもに土地をタダで分けて回るたあ見上げた心がけじゃねえか」
周恩来はフッと声を立てて上品に笑った。
「塞外に名を馳せる大頭領のお褒めに預かり光栄です。
ですが、我々が目指すのは単なる富の分配ではない。
搾取から解放され、この大陸に生きるすべての民が、平等に生きられる世の中を作ることです」
「すべての民が、平等に生きられる世の中……」
その言葉が、千路の胸の奥に深く突き刺さる。
それは満洲国で五族協和の王道楽土を目指す千路の理想そのものだった。
左之助はニカッと白い歯を見せ、嬉しそうに鼻を鳴らした。
「へっ、言うじゃねえか。あの張学良の堅物がお前に未来を賭けたくなる気持ちも、ちょっとは分かったぜ。
……だがな、俺の内外モンゴル統一軍も、ただの暴れん坊の軍閥で終わるつもりはねえ。
中華を統一すんのがお前らか俺たちか、楽しみにしとけよ!」
「ええ、楽しみにしていますよ。あなたのような義に厚い漢が未来の好敵手であるならば、
この果てしない大陸の明日も、決して捨てたものではない」
周恩来は満足げに深く頷くと、千路と左之助に向かって、敬意を込めて道を譲るように一歩下がった。
短くも、互いの魂の器を認め合うような熱い視線の交錯。
その時、それまで緊迫した面持ちで二人の後ろに控えていた李士群が、
フッと目を光らせ、滑り込むように言葉を発した。
「――共産党にご興味がおありでしたら、会ってみたらいかがですか。共産党のトップ、毛沢東に」
李士群の提案に、左之助は足を止め、ニヤリと口元を歪めた。
「ほう、それは面白そうだ」
千路もまた、周恩来の言葉に未来の希望を感じていた。
「はい、私もぜひ」
この大陸をこれ以上戦火で汚さないためのヒントが、その最高指導者の言葉にあるかもしれない。
千路の真っ直ぐな青い瞳に、強い決意の光が宿る。
李士群は二人の反応に満足すると、今度は一歩下がっていた周恩来へ、
「周恩来殿、異存はございますか?」
満洲とモンゴルに多大な影響を持つ大頭領と不殺の超人。
二人の器と影響力を、共産党側としても決して見過ごすわけにはいかない。
「大歓迎ですよ。延安の地で、首を長くしてお待ちしております」
周恩来は外套を翻し、重慶の闇の奥へと足音もなく消え去っていった。
(……これで、張学良を生かす理由ができた)
主である汪兆銘からは張学良の「処分(暗殺)」を仄めかされていた。
だが、左之助と千路という二人の巨頭が、あの男の言葉に突き動かされて共産党の本拠地「延安」へと向かったのだ。
張学良という存在をこのまま生かし、檻の楔として機能させ続けた方が、
今後の激変する大陸の勢力図において、汪兆銘の、ひいては自分自身の特務機関の価値を最大限に高められる。
――その夜、重慶の暗い一室。李士群は周囲の警戒を完全に払った隠密回線を使用し、
遥か北にある新京の関東軍司令部へと、一本の国際電話を繋いでいた。
受話器の向こうからは、田中新一大佐の声が響く。
『……上海での件、そして重慶の件、すべて報告は受けている。
その後の緋村の動きはどうだ』
「田中殿。千路は毛沢東に会いに延安へ向かいました。ご心配なく。とうぶん満洲には戻りませんよ」
『フッ……よくやった。重慶どころか、自ら進んで延安まで足を延ばすとは。さすがは緋村だ』
電話の向こうで、田中が満足げに笑う。
『これで新京の憂いは完全に消えた。これより盤面を動かす。
中央の不拡大派(今村)どもの制止命令など無視してソ連との国境を食い破る』
通信を終えて受話器を置いた李士群は、暗闇の中で深く口角を上げるのであった。
「日本がこちら(中国)ではなく、北(ソ連)に目を向けてくれるのは好都合だ」
すべては李士群という男の、恐るべき政治的計算だった。
そして李士群の思惑通り、
関東軍強硬派は満洲東部国境の張鼓峰において、ソ連軍との凄惨な武力衝突(張鼓峰事件)の火蓋を切った。
関東軍の動きを何も知らない千路と左之助は、
周恩来から命を受けた共産党員の案内で、重慶から長江を北上し、幾多の丘陵を越えて、
ついに共産党の本拠地――延安へと足を踏み入れた。
案内されたのは、崖に穴を掘って作られた「ヤオトン」と呼ばれる質素極まりない洞窟住居だった。
部屋の奥、安物の木造机で安煙草の煙をふかしながら、粗末な木炭をくべた火鉢に手をかざしている大柄な男がいた。
彼こそが、中国共産党の最高指導者・毛沢東であった。
千路「……中国を揺るがす共産党の最高指導者と聞いていましたが、けっこう意外なところに住んでいるんですね」
毛沢東「ハハハ! 驚いたか、緋村班長。ここは夏は涼しく、冬は温かい。
それに、何より蒋介石の飛行機から爆弾を落とされてもビクともせん。
我々のような持たざる者には、最高の城さ」
左之助「持たざる者かよ。そもそも『共産党』ってのは一体なんなんだ?
地主をぶっ叩いて農民に土地を分けるってのは聞いたが、お前らの目指す世の中の正体が、俺にはまだよく分からねえんだよ」
毛沢東「簡単なことさ、相楽の頭領。
この大陸の歴史はな、いつの時代も、一握りの富める者が大勢の貧しい農民を徹底的に搾取し、貪り食う歴史だった。
蒋介石の国民党も、結局はその利権を吸い上げる軍閥の集まりに過ぎん。
……だが、我が共産党は違う。富める者も貧しい者も、この大陸に生きるすべての民が等しく働き、
誰一人として理不尽に搾取されない世の中を創る。それが、我々の掲げる理想の正体だ」
左之助「言うじゃねえか毛沢東!周恩来の野郎も大したタマだった。張学良の奴がお前達に大陸の未来を賭たわけだ」
千路「すべての民が、理不尽に搾取されない世……」
毛沢東の口から出た、周恩来と同じ言葉を聞き、千路は懐から丁寧にまとめられた書類を机の上に置いた。
千路「毛沢東殿。今のあなたの言葉、本物だと信じます。
……だからこそ、提案があります。我が満洲国は、関東軍という大国の暴走システムを排し、
満洲人の手による強固な『満洲国軍』と、真に独立した平和な国へと生まれ変わります。
我々はあなた方を侵略する意志はない。ここに、極秘の『中満不可侵条約』の締結を求めます」
毛沢東「……関東軍を追い出して独自の防衛線を敷き、我が八路軍とは不可侵を結ぶか。
緋村特別班長。お前がただの『不殺の剣客』ではないことは分かっていたが、これほどの大戦略家とはな。
日中戦争の泥沼化を嫌う我々にとっても、満洲が関東軍の暴走から切り離されるのは大歓迎だ。
いいだろう、この条約、喜んで結ぼう」
毛沢東は躊躇なく署名に応じた。
ここに千路の独自外交によって中満不可侵条約が結ばれたのである。
毛沢東「……不可侵条約を真に成立させるためにも、相楽頭領に一つ忠告がある。進めようとしている『モンゴルの完全な国家独立と宣言』、これだけは今すぐ思いとどまるべきだ」
左之助「あぁ? 何だと?」毛沢東「内外モンゴルを軍事的に『統一』し満洲の同盟軍となるまではアリだ。
だが一つの『国家』として世界に独立宣言すれば、北のソ連が外モンゴルを奪われたと激怒し、全力で噛み潰しにくる。必ずソ連との全面戦争になるぞ」
左之助「ソ連?」
毛沢東「今この瞬間も、満洲東部国境の『張鼓峰』で関東軍の強硬派がソ連軍を挑発し、全面衝突が始まっている。
圧倒的な近代兵器の前に、あの日本軍でさえ大量の死体の山を築いているのだ。
近代兵器を持つ強者同士の正面衝突は、互いに最新兵器を撃ち合い、天文学的な数の死者を出す殺戮の泥沼だ。
モンゴルが独立を宣言すれば、あなたたちの愛する故郷が、その凄惨な生地獄になる。
強力なソ連製兵器を持っているからこそスターリンも本気になる。
どれだけ個人の力があっても、国土全土に降りかかる近代兵器の鉄の雨は防ぎきれない。
相楽頭領、民にその鉄の雨の地獄を味わわせるおつもりか?」
左之助「ソ連軍を蹴散らすことなぞ造作もないが……」
千路「ええ。ですが、民を巻き込むような戦火に発展することだけは、絶対に避けなければなりません。
満洲国だって、せっかく溥儀様を皇帝としてお迎えしたというのに、関東軍の暴挙のせいで未だ国際連盟から国家として認められていないのです。
大国のエゴに振り回され、国際社会から孤立する苦しみは、僕が一番よく知っています。
近代兵器の理不尽によって、モンゴルの民の命を『鉄の雨』の犠牲にするような過ちは、断じて犯してはならない。
‥‥‥毛沢東殿。ご忠告ありがとうございました。その言葉に、改めてあなたから民を想うお気持ちを感じられました。
我々はモンゴルの国家独立を一時的に伏せ、牙を隠して時を待ちましょう」
左之助「わかった。国家としての統一は時期が来るまでお預けだ。だがな毛沢東、お前らが民を泣かせるような真似をしてみろ、その時はこの新斬馬刀でお前らの天下を叩き割ってやるからな」
毛沢東「ククク……ハハハハ! 恐ろしい男たちだ。その気になれば東アジア征服できる大頭領と、時代を創り変えんとする不殺の大戦略家か」
左之助「とりあえず俺はモンゴルに戻って、徳王やデミドに今後のことを話し合おうと思う。……お前も来るか?」
千路「はい、お供します。しかし張鼓峰の状況次第では、すぐに満洲へ戻るかもしれません。田中大佐の暴走がこれ以上広がれば、満洲国そのものが崩壊しかねませんから」
左之助「へっ、関東軍のお守りは大変だな。しっかし中満不可侵条約とは思い切ったことするじゃねえか。蒋介石や汪兆銘じゃなく、毛沢東と結ぶなんざ、お前の人選もにくいな」
千路「蒋介石も汪兆銘も、口では国や民のためと言いながら、その目は常に己の利権や権力闘争、そして『他者を利用すること』しか見ていませんでした。
……ですが、毛沢東殿。あなたは、本気でこの大陸の底辺にいるすべての民が、理不尽に搾取されない世の中を創ろうとしている。
理想のために現実の冷徹な重みを知り、民の命を守るためにザンザさんを止めた。あなたの語る理想の根底には、嘘偽りのない『民への愛』があります。
だからこそ、僕はあなたと条約を結んだのです」
毛沢東「ハハハ。私はただ、この大陸の底で泥にまみれて生きる名もなき民草を、誰よりも信じているに過ぎん。
蒋介石や汪兆銘の目は、常に天辺の椅子しか見ていない。だが、国を真に支えているのは大国の上層ではなく、この大地で泥水を啜って生きる数億の民数億の民なのだよ。
相楽頭領、私が民を泣かせる大国と同じ傲慢に染まったなら、いつでもその新斬馬刀で私の天下を叩き割るがいい」
左之助「よく言った毛沢東! 堅物の張学良が惚れ込むわけだぜ。
じゃあ俺たちもお前に負けねえように、民のための強いモンゴルと満洲を創り上げてやろうじゃねえか!」
千路「はい。ザンザさん、行きましょう。僕たちの戦いは、ここからです」
重慶の陰謀を潜り抜け、延安で未来の約束を交わした未来の国家主席と伝説の老兵と不殺の大戦略家。
こうして、一つの会談は『中満不可侵条約』の締結という巨大な成果を生み、左之助のモンゴル軍は一時的な「潜伏」を決意した。
歴史の歯車は静かに、しかし確かに新たなる未来の時を刻み始める。
延安からモンゴルの荒野へと戻った千路と左之助を待っていたのは、
かつて共に戦火を潜り抜けた「戦友」たちが集結していた。
チンギス・ハーンの血を引く内モンゴルの気高き王族・徳王。
北の大粛清から逃れてきた北モンゴルの最高位活仏、ディルワ・ホトクト。
ソ連製の最新兵器を引っ提げて亡命してきた北モンゴル軍総司令官・デミド。
さらにその脇を固めるのは、モンゴル統一軍の精鋭。
徳王を支える盟友であり、民族の最高長老・雲王。
関東軍との外交を一手に担う蒙古軍総司令・李守信。
法学博士であり、政府の最高ブレインとなる呉鶴齢。
内政のスペシャリストであり、総務部長となる陶克陶。
近代財政の天才であり、財務部長となる吉爾嘎朗。
そして、軍の近代化を担う総参謀長・烏古廷。
左之助は壁に巨大な斬馬刀を立てかけ、延安での毛沢東との会談を一同に伝えた。
「――ってわけだ。ソ連から引っ張ってきた最新の戦車や重砲は、百霊廟で傅作義を蹴散らした俺たちの最強の牙だ。
だが、今ここで大々的に『モンゴル独立国』を世界に宣言すれば、近代兵器の応酬で、俺たちの民を一瞬で肉塊に変えちまう。
だから徳王、千路や毛沢東の言う通り、国家の独立宣言は、時期が来るまで待ってもらえねえか?」
左之助の決断に、徳王は深くため息をつきながらも、その気高い瞳を曇らせることはなかった。
「……分かりました、相楽の頭領。
せっかく満洲国が溥儀様を迎えても、未だ国際連盟から承認されずに孤立している現状は緋村特別班長から聞いた通り。
我々が同じ轍を踏むわけにはいかない。
しかし、独立が叶わぬとなれば、我らはこれからどのような形でこの地を治め、関東軍の介入を防げばよいのですか?」
全員が考え込む中、それまで静かに聞いていた千路がゆっくりと歩み出て、一つの青写真を机の上に広げた。
「国家としての独立宣言が早すぎるというのなら、まずは『政府』を創りましょう。
――名付けて、蒙古聯盟自治政府です」
「自治政府だと……?」徳王が目を見張る。
「はい。表向きは完全な独立国ではなく、日本の防共の壁として機能する『自治政府』の体裁を取るのです。
そうすれば、関東軍も無警戒にこの存在を承認せざるを得ない。
ですが、その操り人形の皮の内側で、僕たちは本当のモンゴルを創り上げる」
千路の言葉を引き継ぐように、隣にいたディルワ・ホトクトが静かに数珠を握り締め、その鋭い眼光を光らせた。
「なるほど、緋村特別班長。その『蒙古聯盟自治政府』を、北(外モンゴル)の『反ソの受け皿』にするというわけですか。
現在、北ではソ連の犬となったチョイバルサンによる凄惨な大粛清が行われ、多くの同胞が恐怖に震えている」
デミド総司令官もまた、不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「二人の言う通りだ。我ら二人の連名で北の同胞たちに密使を送り、
粛清から逃れてくる兄弟たちを、その自治政府の名目で関東軍の目を盗んで、
すべて我らの軍(蒙古軍)の兵として吸収していくのだ。
彼らはソ連への激しい怒りを抱いた、最高の志願兵となるはずだ」
千路はまっすぐに徳王と左之助を見つめ、力強く言い放った。
「田中大佐は、僕を新京から隔離したつもりで喜んでいる。
ですが、その隙に僕はこの『蒙古聯盟自治政府の設立案』、
そして延安で勝ち取った『中満不可侵条約』という二つの最強の手札を持って、一度新京へ戻ります。
そして、奴らの喉元にこの計画を突きつけ、合法的に認めさせてみせます!」
その言葉にモンゴル軍一同が固唾をのんで頷く。左之助も千路の肩を叩く。
「おもしれえ! 千路、お前がこれから新京へ乗り込んで、
あの泥狐どもにこの新政府を認めさせる大勝負に打って出るわけだな!」
こうして、モンゴルの秘密の幕舎で、歴史を揺るがす「蒙古聯盟自治政府」の構想が産声を上げた。
千路は、大国たちのエゴを逆手に取る天才的な外交戦略の書類を胸に抱き、
次なる政治戦の舞台――暴走の火種が燻る新京の関東軍司令部へと、再び牙を剥いて舞い戻るのだった。
新京、関東軍司令部・作戦室。重厚な扉が静かに開いたとき、
室内にいた軍事課長・田中新一は、そこに立った人物を見て言葉を失った。
「――お久しぶりです、田中大佐」
夕暮れの逆光を背に受けて現れたのは、特別班長・緋村千路と、
モンゴル軍と関東軍のパイプ役・李守信であった。
「これはこれは、緋村特別班長。上海へユダヤ人難民を送り届けた後は、延安へ向かったと聞いたが……
なぜ李守信と君がいる?勝手な行動は軍法会議物だぞ」
「そちらこそ、私の不在をいいことに勝手に国境線でいざこざを起こし、
張鼓峰でソ連軍を相手に大損害を被ったことこそ、軍法会議物では?」
千路のド正論カウンターパンチを喰らいぐうの音も出ない田中。
その田中の表情を鼻で笑うように、李守信が静かに進み出て、
作戦机の上に二通の分厚い書類を激しく叩きつけた。
その表紙に踊る文字を見た瞬間、田中の視線が釘付けになる。
一通は毛沢東直筆の署名が記された『中満不可侵条約』。
そしてもう一通は、徳王や外モンゴルの巨頭たちの連名による『蒙古聯盟自治政府設立案』であった。
田中が、貪るように書類をひったくり、電撃が走ったように声を震わせた。
「蒋介石との抗日戦で泥沼化しているこの最中に、背後の共産党ゲリラを外交で完全に封じ込めたというのか……!?
しかも、モンゴルを完全独立させるのではなく、我が国の『防共の壁』としての『自治政府』を建てるだと……。
「緋村、なんとも我が関東軍に都合の良い盤面を創り上げて戻ってきたのだな
緋村特別班長、君の挙げたこの大勲功、軍政部最高顧問として即座に承認しよう!」
「ありがとうございます、田中大佐」
田中が「これでソ連との全面戦争に集中できる」と油断している隙に、
千路が公認させたこの新政府の内側では、左之助や徳王によって、
ソ連の大粛清から逃れてきた優秀な将兵が次々と吸収されていく。
関東軍の用意した操り人形の皮を被りながら、その中身は、大国の暴走を内側から力ずくで叩き潰すための、
真に強固な『満蒙同盟』の軍事基盤として完全覚醒しようとしていた。
1937年10月28日、
帰綏にて蒙古聯盟自治政府成立式典が開催された。
伝統的な民族衣装を身にまとった徳王を筆頭としたモンゴルの王族たち。
その反対側には、軍装の関東軍が整列していた。
その中には、今回の功績により、盟友である今村の計らいで特務大佐となった緋村千路の姿もあった。
式典の始まりを告げるように、大活仏ディルワ・ホトクトが、チベット仏教の伝統的な経典の朗読と、
国家の安寧を願う特別な祈祷を厳かに執り行う。
しかし、香炉の香りが立ち込める壇上の中央に据えられた最高権力者「主席」の席は空席であった。
関東軍は徳王ではなく最高長老の雲王を主席に任命したのだ。
雲王はこれに断固反対し、病を理由に式典への出席をボイコットした。
関東軍の傲慢が生んだ冷たい空席を背に、
雲王にモンゴルの未来を託された徳王が壇上でマイクの前に立つ。
そして大草原の彼方まで響き渡る声で、徳王は力強く演説を始めた。
「我が蒙古民族は、過去数百年にわたり、他民族の過酷な圧迫と残忍な搾取に喘いできた。
だが、我らの魂に流れる蒼き狼の血は、未だ死んではいない!
本日、成吉思汗紀元七百三十二年十月二十八日、
我らはここに独自の『蒙古聯盟自治政府』の樹立を全世界に宣言する!」
徳王は一呼吸置き、集まった民衆、そして並び立つ関東軍をまっすぐに見据える。
「我らは成吉思汗の偉大なる精神を復興し、祖先から受け継いだ固有の領土を回復し、
蒙古民族の復興という偉大なる大業を果たすのである!」
そして式典に並ぶ千路の顔を見て言い放つ。
「 我ら蒙古政府は、東アジアの平和を護るため、友邦・日本(千路)と緊密に提携する!」
この地に、誰一人として搾取されぬ強固な『防共の楽土』を築き上げることを、ここに厳然と誓うものである!」
徳王が右拳を天に突き上げた瞬間、大地を揺るがす「ウラー!」の三唱が帰綏の街に響き渡った。
馬頭琴の重厚な音色と民衆の地鳴りのような歓声が交錯する中、
青空へと一斉に放たれた無数のハトが、新たな政府の誕生を祝うように大草原の空を白く染めていく。
会場の一角、配備された装甲車の前で、新斬馬刀を豪快に肩に担いだ相楽左之助が、
デミド元帥と並んでそのスピーチを誇らしげに聞いていた。




