第80話:添付ファイルが無いので、まず自分の正気を疑った話
まず顧客より先に自分の環境と頭を疑うのはSEあるあるwですよね?
俺は自称天才エンジニアである。
理論は完璧。
ロジックは美しい。
想定外は想定済み。
――の、はずだった。
昼過ぎ。
俺はコーヒーを片手に、顧客から届いたメールを開いた。
件名は普通だった。
本文も普通だった。
挨拶も、依頼内容も、期限も、いつもの顧客メールだった。
ただ一つ。
添付ファイルが無かった。
「…………」
俺は、画面を見た。
もう一度見た。
さらにもう一度見た。
添付ファイル欄には、何も無かった。
「……ファイルが、無い」
俺は呟いた。
隣の皮肉屋SEが、椅子を少しだけ回した。
「添付忘れっすか?」
「いや、まだ分からん」
俺は即答した。
「まずは俺の環境を疑う」
「めんどくさいSEだなぁ」
皮肉屋SEが笑った。
だが、これは重要な手順である。
顧客から添付ファイルが来ていない。
だからといって、即座に、
『添付されていません』
などと返してはいけない。
万が一、俺のメールソフトだけが表示に失敗している可能性がある。
万が一、フィルタが悪さをしている可能性がある。
万が一、俺の目が壊れている可能性もある。
最後の可能性が一番高い気がするのは、少し悲しい。
俺はメールを開き直した。
無い。
Web版でも確認した。
無い。
スマホでも確認した。
無い。
俺は小さく頷いた。
「よし。俺の単独バグではない可能性が高い」
「言い方よ」
皮肉屋SEが言った。
そこへクール後輩が通りかかった。
「どうしました?」
「顧客からのメールに添付が無い」
「添付忘れですね」
「まだ断定するな」
俺は真顔で言った。
「まず複数人で整合性確認だ」
クール後輩は、一瞬だけ俺を見た。
その目は、
“この人、添付ファイル一つで何を始める気だ”
と言っていた。
だが、彼は優秀である。
余計なことは言わず、自分のPCで同じメールを開いた。
「無いですね」
「よし」
俺は頷いた。
「皮肉屋SE」
「はいはい」
皮肉屋SEもメールを開く。
数秒後、彼は言った。
「無いっすね」
「よし」
俺はさらに頷いた。
これで三者確認完了。
俺の環境だけが壊れている可能性は、かなり低くなった。
俺は椅子にもたれた。
「勝ったな」
「何にですか」
クール後輩が冷静に聞いた。
「切り分けにだ」
「勝利条件低くないですか?」
「SEはな、障害を倒す前に、まず自分を疑って倒すんだよ」
「哲学みたいに言わないでください」
皮肉屋SEが笑った。
しかし、ここまで確認した以上、次の工程は一つである。
Teamsで顧客に確認する。
俺はチャット欄を開いた。
文面は慎重にする必要がある。
『添付がありません』
では少し強い。
『添付が確認できません』
これだ。
こちら側でも確認したが、絶対に相手が悪いと断定しない。
大人の言い方である。
俺は送信した。
> お疲れ様です。
> 先ほどのメールですが、こちらで添付ファイルが確認できませんでした。
> お手数ですが、ご確認いただけますでしょうか。
送信。
数分後。
顧客から返信が来た。
> すみません、添付漏れでした。再送します。
俺は静かに拳を握った。
「勝利」
皮肉屋SEが吹き出した。
「いや、何に勝ったんすか」
「整合性確認に勝った」
「だから勝利条件が変なんすよ」
クール後輩が画面を見ながら言った。
「でも、手順としては正しいですね。自分だけ見えてない可能性ありますし」
「だろ?」
俺は少しだけ得意げになった。
「こういう小さい確認を雑にすると、あとで事故るんだよ」
「まあ、それはそうっすね」
皮肉屋SEが頷いた。
「添付忘れはまだ平和ですからね」
「そう」
俺は深く頷いた。
「添付されてないなら、まだいい」
クール後輩がこちらを見た。
「いいんですか?」
「いい。送れてないものは、まだ取り返せる」
俺はそこで、声を低くした。
「本当に怖いのは、送れてしまっている時だ」
職場の空気が、少しだけ変わった。
皮肉屋SEの顔から笑みが消える。
クール後輩も、静かに頷いた。
「違うファイル添付」
「最新版だと思ったら旧版」
「A社向けをB社へ」
「社内メモ入り」
「検証用データ入り」
一つずつ挙げるたびに、空気が重くなる。
メールにファイルが無い。
それはまだ、可愛い事故である。
メールにファイルがある。
そして、そのファイルが間違っている。
それは、事故ではない。
事件である。
「添付忘れは謝れば終わる」
俺は言った。
「だが、誤添付は謝っても終わらない」
皮肉屋SEが、遠い目をした。
「開封済みって概念、怖いっすよね」
「怖いな」
「送信済みトレイって、たまに墓場に見えるんすよ」
「やめろ」
俺は本気で止めた。
その時。
背後から声がした。
「盛り上がってるね」
上司だった。
赤いジャケットの上司が、いつの間にか立っていた。
手にはマグカップ。
表情は穏やか。
だが、目だけが仕事モードだった。
俺は姿勢を正した。
「顧客メールの添付が無かったので、確認していました」
「で?」
「こちら三名で確認。添付無し。Teamsで顧客へ確認。添付漏れとのことで再送待ちです」
「うん」
上司は頷いた。
「良い確認」
俺は少し救われた気分になった。
だが、上司はそこで終わらなかった。
「でも、俺くん」
「はい」
「自分が送る時も、そのくらい確認してる?」
「…………」
俺は沈黙した。
皮肉屋SEが、露骨に横を向いた。
クール後輩が、無表情で水を飲んだ。
上司は優しく微笑んだ。
「相手の添付漏れには厳しいのに、自分の送信前確認が甘い人、いるよね」
「それは……」
俺は言葉を探した。
しかし、見つからなかった。
なぜなら、心当たりがあったからである。
添付した気がする。
確認した気がする。
最新版を選んだ気がする。
その“気がする”が、いちばん危ない。
上司は、マグカップを少し持ち上げた。
「送信前は、件名、宛先、本文、添付、ファイル名、版数」
「はい」
「声に出さなくてもいいけど、目では追う」
「はい」
「特に添付は、“あるか”じゃなくて、“合ってるか”を見る」
「はい……」
「送れてないより、送れてしまった方が怖いから」
俺は静かに頷いた。
その言葉は重かった。
添付が無い。
それは、空振りである。
添付が違う。
それは、味方への誤射である。
空振りなら、もう一度振ればいい。
だが、誤射は、撃った瞬間に現場が燃える。
「……肝に銘じます」
俺がそう言うと、上司は満足げに頷いた。
そして、去り際に一言だけ残した。
「ちなみに私、昔一回やったことある」
俺たちは全員、固まった。
上司は振り返らずに続けた。
「だから怖いって知ってる」
その背中は、やけに説得力があった。
皮肉屋SEが、小さく呟いた。
「経験者の重みだ……」
クール後輩も頷いた。
「生存者バイアスですね」
「違う。たぶん、それは事故報告書バイアスだ」
俺は言った。
その後、顧客から再送メールが届いた。
添付ファイルは、今度こそ存在していた。
俺はそれを開く前に、まずファイル名を確認した。
次に版数を確認した。
そして中身を確認した。
最後に、俺は小さく呟いた。
「ヨシ」
背後から、上司の声が飛んできた。
「何が?」
俺は即答した。
「確認します」
現場猫には、まだなれない。
でも俺は今日、
添付ファイルが無いだけで、少しだけ賢くなった気がした。
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