第78話:パピルスの頃から紙が強すぎる件
俺は自称天才エンジニアである。
理論は完璧。
ロジックは美しい。
想定外は想定済み。
――の、はずだった。
「紙、なくならないっすね」
昼休憩明け。
俺が月次処理の書類を前に、すでに半分魂を抜かれた顔をしていると、皮肉屋SEがコーヒー片手にそう言った。
こいつは今日、まだ休憩を取れていない。
だから俺は優しくするべきだった。
優しくするべきだったのだが。
「お前が仕事投げてきたせいで、俺の月次が終わってねぇんだよ」
「いや、障害対応だったじゃないですか」
「それはそう」
反論できなかった。
障害対応。
この四文字はズルい。
どれだけ予定が詰まっていようが、どれだけ心の中で「今日は俺の仕事を終わらせて優雅に遊ぶ」と決めていようが、障害対応と言われた瞬間、優先度テーブルが強制的に書き換わる。
通常業務。
月次処理。
会議。
追加案件。
障害対応。
赤文字点滅。
「で、終わったんですか?」
「終わったよ。お前のデイリータスクはな」
「ありがとうございます」
皮肉屋SEは、悪びれもなく頭を下げた。
いや、悪びれてはいる。
たぶん。
顔に出ていないだけで。
「で、俺の仕事は?」
俺は目の前の書類の山を見た。
紙。
紙。
紙。
紙。
IT企業のはずなのに、紙。
電子承認システムもある。
ワークフローもある。
ログも残る。
権限管理もできる。
なのに最後に出てくるのは紙だ。
「おかしいだろ」
「何がです?」
「ITの現場なのに、最後が紙なの」
「それはまあ……」
皮肉屋SEは一瞬だけ視線を逸らした。
「上の世代が電子に適応できないからでは?」
「言うな」
「俺くんが先に言いそうな顔してたんで」
「言うな」
分かっている。
理由は分かっている。
紙の方が安心。
押印されている方が安心。
手元に物理的に存在する方が安心。
画面の中の承認より、赤いハンコの方が“通った感”がある。
気持ちは分かる。
分かるんだが。
その気持ちの代償として、俺の机の上に紙の山が築かれている。
「しかしですね」
皮肉屋SEが言った。
「紙って、セキュリティ的には強いですよ」
「それなんだよなぁ」
俺は深く頷いた。
ムカつくが、分かる。
Firewallよりも、最後に紙と押印が残っている方が強い場面がある。
どれだけネットワークを突破されようが。
どれだけ権限を奪われようが。
どれだけAIで偽装メールを作られようが。
最終的に総務のおじさんが言う。
『で、紙の承認書は?』
強い。
あまりにも強い。
サイバー攻撃者の心を折る、物理承認という名のラスボス。
「でも、それを支えてるの人間の工数なんだよ」
「はい」
「つまり紙が強いんじゃなくて、人間が燃えてるだけなんだよ」
「はい」
「はいじゃないんだよ」
俺は書類を一枚持ち上げた。
紙は軽い。
だが、束になると重い。
仕事も同じだ。
一個一個は大したことがない。
確認。
押印。
照合。
提出。
保管。
だが、それが積み上がると、人を殺す。
「昔はさ」
俺はぼやいた。
「紙なんて滅ぶと思ってたんだよ」
「未来予想ですね」
「そう。全部電子化されて、AI秘書がいて、承認も自動で、紙なんて博物館にある古代文明の遺物になると思ってた」
「現実は?」
俺は目の前の山を指差した。
「パピルスの頃から人権持ちすぎだろ、こいつ」
皮肉屋SEが噴いた。
「紙、強すぎますね」
「強すぎる。石板、パピルス、羊皮紙、紙、電子化、AI時代、そして紙」
「戻ってきてますね」
「帰ってくんな」
「でも必要なんですよね」
「それがムカつく」
そう。
そこが一番ムカつく。
単なる時代遅れなら、怒ればいい。
非効率だと切り捨てればいい。
だがAI時代になった結果、完全電子化の方が危ないのではないか、という説が一周回って説得力を持ち始めている。
昔のクラッカーは、一部の天才だった。
今は違う。
AIがあれば、普通の人間でも危険域に近づける。
知識の補助輪。
コードの補助輪。
文書偽装の補助輪。
音声模倣の補助輪。
悪意だけあれば、以前よりずっと遠くまで行けてしまう。
だったら重要部分だけでも物理を残す。
オフラインを残す。
人間確認を残す。
紙を残す。
理屈は分かる。
分かるのだが。
「俺らが夢見てた未来と違うんですけどぉー」
俺は机に突っ伏した。
「大丈夫です」
皮肉屋SEが言った。
「未来ではあります」
「どの辺が?」
「AIと紙が共存してます」
「サイバーパンクと昭和の悪魔合体じゃねぇか」
「日本らしいですね」
「やめろ。その言葉で全部許そうとするな」
そこへ上司が通りかかった。
赤いジャケット。
短い髪。
片手にタブレット。
もう片方の手に、紙の書類。
未来と昭和を両手に装備した女である。
「俺くん」
「はい」
「この承認、電子では回したけど、念のため紙もお願い」
俺は黙って上司を見た。
上司は涼しい顔をしている。
「……念のため?」
「念のため」
強い。
この人の“念のため”は強い。
過去に何度も俺を救ってきた言葉でもある。
だから否定しづらい。
だが今日だけは言いたい。
念のためで俺のHPを削るな。
「上司さん」
「何?」
「紙、いつ滅びます?」
上司は少し考えた。
そして、真顔で言った。
「人間が不安を持つ限り、滅びないんじゃない?」
俺は天を仰いだ。
終わった。
紙は終わらない。
人間が不安を抱く限り。
確認したいと思う限り。
手元に残したいと思う限り。
紙は滅びない。
パピルスからAI時代まで生き残った情報媒体は、今日も俺の机の上で、平然と山を作っている。
「ちなみに俺くん」
上司が続けた。
「月次、どこまで終わった?」
「半分です」
「十分。続きは明日でいいよ」
救いの言葉だった。
天使かと思った。
だが次の瞬間、上司は微笑んだ。
「ただ、さっき追加で一件来てるから、それだけ先に見て」
悪魔だった。
俺はLINE通知を見た。
見たくない。
開くまで中身は確定しない。
軽い確認かもしれない。
ただの連絡かもしれない。
あるいは、追加案件かもしれない。
シュレディンガーのLINE。
そしてTeamsには、もはや最初の案件名だけを残して中身が完全に別物になったスレッドが眠っている。
テセウスのTeams。
IT現場は哲学に満ちている。
満ちていなくていい。
「俺くん」
皮肉屋SEが言った。
「明日もよろしくお願いします」
俺は静かにコーヒーを飲んだ。
勝利のコーヒーブレイク。
ただし何に勝ったのかは分からない。
皮肉屋の仕事は終わった。
会議も回した。
月次も半分終わった。
追加案件も見なければならない。
で。
俺の仕事は?
俺は答えを探した。
紙の山が、無言でこちらを見ていた。
俺はそっと目を逸らした。
紙は滅びない。
俺の仕事も、終わらない。
よし来たマスター。
これはもうタイトルこれで行こう。
# 第○話 パピルスの頃から紙が強すぎる件
「紙、なくならないっすね」
昼休憩明け。
俺が月次処理の書類を前に、すでに半分魂を抜かれた顔をしていると、皮肉屋SEがコーヒー片手にそう言った。
こいつは今日、まだ休憩を取れていない。
だから俺は優しくするべきだった。
優しくするべきだったのだが。
「お前が仕事投げてきたせいで、俺の月次が終わってねぇんだよ」
「いや、障害対応だったじゃないですか」
「それはそう」
反論できなかった。
障害対応。
この四文字はズルい。
どれだけ予定が詰まっていようが、どれだけ心の中で「今日は俺の仕事を終わらせて優雅に遊ぶ」と決めていようが、障害対応と言われた瞬間、優先度テーブルが強制的に書き換わる。
通常業務。
月次処理。
会議。
追加案件。
障害対応。
赤文字点滅。
「で、終わったんですか?」
「終わったよ。お前のデイリータスクはな」
「ありがとうございます」
皮肉屋SEは、悪びれもなく頭を下げた。
いや、悪びれてはいる。
たぶん。
顔に出ていないだけで。
「で、俺の仕事は?」
俺は目の前の書類の山を見た。
紙。
紙。
紙。
紙。
IT企業のはずなのに、紙。
電子承認システムもある。
ワークフローもある。
ログも残る。
権限管理もできる。
なのに最後に出てくるのは紙だ。
「おかしいだろ」
「何がです?」
「ITの現場なのに、最後が紙なの」
「それはまあ……」
皮肉屋SEは一瞬だけ視線を逸らした。
「上の世代が電子に適応できないからでは?」
「言うな」
「俺くんが先に言いそうな顔してたんで」
「言うな」
分かっている。
理由は分かっている。
紙の方が安心。
押印されている方が安心。
手元に物理的に存在する方が安心。
画面の中の承認より、赤いハンコの方が“通った感”がある。
気持ちは分かる。
分かるんだが。
その気持ちの代償として、俺の机の上に紙の山が築かれている。
「しかしですね」
皮肉屋SEが言った。
「紙って、セキュリティ的には強いですよ」
「それなんだよなぁ」
俺は深く頷いた。
ムカつくが、分かる。
Firewallよりも、最後に紙と押印が残っている方が強い場面がある。
どれだけネットワークを突破されようが。
どれだけ権限を奪われようが。
どれだけAIで偽装メールを作られようが。
最終的に総務のおじさんが言う。
『で、紙の承認書は?』
強い。
あまりにも強い。
サイバー攻撃者の心を折る、物理承認という名のラスボス。
「でも、それを支えてるの人間の工数なんだよ」
「はい」
「つまり紙が強いんじゃなくて、人間が燃えてるだけなんだよ」
「はい」
「はいじゃないんだよ」
俺は書類を一枚持ち上げた。
紙は軽い。
だが、束になると重い。
仕事も同じだ。
一個一個は大したことがない。
確認。
押印。
照合。
提出。
保管。
だが、それが積み上がると、人を殺す。
「昔はさ」
俺はぼやいた。
「紙なんて滅ぶと思ってたんだよ」
「未来予想ですね」
「そう。全部電子化されて、AI秘書がいて、承認も自動で、紙なんて博物館にある古代文明の遺物になると思ってた」
「現実は?」
俺は目の前の山を指差した。
「パピルスの頃から人権持ちすぎだろ、こいつ」
皮肉屋SEが噴いた。
「紙、強すぎますね」
「強すぎる。石板、パピルス、羊皮紙、紙、電子化、AI時代、そして紙」
「戻ってきてますね」
「帰ってくんな」
「でも必要なんですよね」
「それがムカつく」
そう。
そこが一番ムカつく。
単なる時代遅れなら、怒ればいい。
非効率だと切り捨てればいい。
だがAI時代になった結果、完全電子化の方が危ないのではないか、という説が一周回って説得力を持ち始めている。
昔のクラッカーは、一部の天才だった。
今は違う。
AIがあれば、普通の人間でも危険域に近づける。
知識の補助輪。
コードの補助輪。
文書偽装の補助輪。
音声模倣の補助輪。
悪意だけあれば、以前よりずっと遠くまで行けてしまう。
だったら重要部分だけでも物理を残す。
オフラインを残す。
人間確認を残す。
紙を残す。
理屈は分かる。
分かるのだが。
「俺らが夢見てた未来と違うんですけどぉー」
俺は机に突っ伏した。
「大丈夫です」
皮肉屋SEが言った。
「未来ではあります」
「どの辺が?」
「AIと紙が共存してます」
「サイバーパンクと昭和の悪魔合体じゃねぇか」
「日本らしいですね」
「やめろ。その言葉で全部許そうとするな」
そこへ上司が通りかかった。
赤いジャケット。
短い髪。
片手にタブレット。
もう片方の手に、紙の書類。
未来と昭和を両手に装備した女である。
「俺くん」
「はい」
「この承認、電子では回したけど、念のため紙もお願い」
俺は黙って上司を見た。
上司は涼しい顔をしている。
「……念のため?」
「念のため」
強い。
この人の“念のため”は強い。
過去に何度も俺を救ってきた言葉でもある。
だから否定しづらい。
だが今日だけは言いたい。
念のためで俺のHPを削るな。
「上司さん」
「何?」
「紙、いつ滅びます?」
上司は少し考えた。
そして、真顔で言った。
「人間が不安を持つ限り、滅びないんじゃない?」
俺は天を仰いだ。
終わった。
紙は終わらない。
人間が不安を抱く限り。
確認したいと思う限り。
手元に残したいと思う限り。
紙は滅びない。
パピルスからAI時代まで生き残った情報媒体は、今日も俺の机の上で、平然と山を作っている。
「ちなみに俺くん」
上司が続けた。
「月次、どこまで終わった?」
「半分です」
「十分。続きは明日でいいよ」
救いの言葉だった。
天使かと思った。
だが次の瞬間、上司は微笑んだ。
「ただ、さっき追加で一件来てるから、それだけ先に見て」
悪魔だった。
俺はLINE通知を見た。
見たくない。
開くまで中身は確定しない。
軽い確認かもしれない。
ただの連絡かもしれない。
あるいは、追加案件かもしれない。
シュレディンガーのLINE。
そしてTeamsには、もはや最初の案件名だけを残して中身が完全に別物になったスレッドが眠っている。
テセウスのTeams。
IT現場は哲学に満ちている。
満ちていなくていい。
「俺くん」
皮肉屋SEが言った。
「明日もよろしくお願いします」
俺は静かにコーヒーを飲んだ。
勝利のコーヒーブレイク。
ただし何に勝ったのかは分からない。
皮肉屋の仕事は終わった。
会議も回した。
月次も半分終わった。
追加案件も見なければならない。
で。
俺の仕事は?
俺は答えを探した。
紙の山が、無言でこちらを見ていた。
俺はそっと目を逸らした。
紙は滅びない。
俺の仕事も、終わらない。
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