第72話:家庭持ちにとって飲み屋街は、期間限定の異世界である
なぜ男たちは定期的に夜の街へ繰り出すのか
仕事が終わったら帰宅。
寄り道はしない。
何故なら、帰る場所があるからだ。
いや、正確に言えば、帰らなければならない場所がある。
妻がいる。
子がいる。
風呂がある。
洗濯物がある。
明日の弁当がある。
そして、何より。
「パパ、今日ロブロックスできる?」
帰宅と同時に発生する、家庭内ログインボーナスがある。
これは避けられない。
逃げられない。
社会人とは、会社から退勤した瞬間に自由になる生き物ではない。
会社モードから家庭モードへ、ただちに切り替わるだけの生き物である。
だからこそ。
たまに飲み屋街に出ると、バグる。
駅前の明かり。
知らない人の笑い声。
どこからともなく聞こえるカラオケ。
焼き鳥の匂い。
雑に光る看板。
明らかに体に悪そうなのに、何故か生命力だけは強そうなラーメン屋。
すべてがイベントである。
普段の俺なら、真っすぐ帰る。
寄り道などしない。
余計な金は使わない。
翌日のパフォーマンスを考える。
睡眠時間を逆算する。
風呂の順番を考える。
娘の機嫌を考える。
妻の要件通知に備える。
だが、その日の俺は違った。
俺は飲み屋街にいた。
つまり、異世界に転移していた。
しかも、チート能力なし。
あるのは、財布と、若干のテンションと、明日の不安だけである。
「いやー、久しぶりだなぁ」
俺は思った。
久しぶりの非日常。
家庭持ちにとって飲み屋街とは、遊び場ではない。
期間限定の異世界である。
しかも門限つき。
そして入場料は高い。
だが、空気が違う。
普段、家と職場の往復で削られていた何かが、雑に回復していく感覚がある。
別に何か大事件が起きたわけではない。
ただ、知らない店に入る。
知らない人と話す。
酒を飲む。
歌が流れる。
誰かが笑う。
それだけで、妙に楽しい。
たぶん、人間は本来、こういう無駄で動いている。
合理性だけで生きるには、体の設計が雑すぎる。
そして俺は、snackにいた。
スナック。
この令和の時代において、いまだに独自の生態系を維持している夜の小型コロニーである。
そこでは、初対面という概念が弱い。
隣に座った人間が、数分後には歌っている。
奥にいた兄貴が、いつの間にかマイクを持っている。
知らない人間同士が、何故か同じ曲で盛り上がる。
普段の会社なら、会議で一言発言させるだけでも根回しが必要なのに、スナックでは目が合っただけで歌が始まる。
人類、職場ではもっとそのノリを出せ。
いや、出すな。
たぶん地獄になる。
俺は最初、ただ飲んでいた。
大人しくしているつもりだった。
家庭持ちである。
翌日もある。
無茶はできない。
そう思っていた。
思ってはいた。
だが、人間には適性というものがある。
俺は、場の空気を見る。
誰が乗りたそうか。
誰が遠慮しているか。
誰が歌いたいのに、自分からは行けないか。
そういうものを、無駄に見てしまう。
そして見てしまった以上、拾ってしまう。
隣の兄貴が、カラオケに反応した。
ほんの一瞬だった。
だが、俺は見逃さなかった。
「あ、これ歌いたいやつだ」
俺の中の観測システムが起動した。
ORACLEではない。
もっとしょうもない。
SNACKLEである。
夜の観測装置、SNACKLE。
観測対象、人類。
ログ種別、酔客。
観測成功率、わりと高い。
俺はマイクを渡した。
「どうぞどうぞ」
隣の兄貴は歌った。
歌い終わった。
場が温まった。
次に奥の兄貴を見る。
いける。
俺はまたマイクを渡した。
「どうぞどうぞ」
奥の兄貴も歌った。
結果、場が回り始めた。
俺は思った。
あれ?
俺、何してるんだ?
飲みに来たはずなのに、何故か場の運用をしている。
会社でもない。
会議でもない。
プロジェクトでもない。
なのに俺は、謎のファシリテーションをしている。
しかも無償で。
いや、違う。
無償ではない。
俺は酒を飲んでいる。
つまり、報酬はアルコールである。
最低の業務委託だった。
その後の記憶は、ところどころ曖昧である。
楽しかった。
それは間違いない。
ただし、酒は強かった。
翌朝。
俺は布団の中で、ほぼ死体だった。
頭が重い。
体がだるい。
胃が静かに抗議している。
アルコールというやつは、飲んでいる時は陽気な友人の顔をして近づいてくるくせに、翌朝になると借金取りみたいな面で玄関を叩いてくる。
強い。
あいつは強い。
状態異常ボスである。
そこには男たちの夢が詰まっているから。




