第71話:約束の果実酒を「残らないもの」と言われた日
約束の酒は、消耗品ではない。
ただし。
空気を読まない親戚の一言は、最悪の形で心に残る。
子供の日だった。
娘と甥っ子に何を買うか、という話になった。
最近は本当に便利な時代である。
Amazonで注文すれば、物によっては翌日には届く。
「俺、Prime会員だから明日届くぞ」
そう言った瞬間、娘と甥っ子の目が輝いた。
現金である。
だが子供とはそういうものだ。
プレゼントという概念は、彼らにとって愛情表現であると同時に、純粋な物流イベントでもある。
俺はスマホを開きながら、候補を見ていた。
そんな時だった。
親戚の叔母が、横から何気ない調子で口を挟んできた。
「いいわねぇ。じゃあ母の日だから、お母さんにも服でも注文してあげればいいんじゃないの?」
母の日。
その言葉に、俺は少しだけ手を止めた。
「ああ、もう渡したよ」
「何を?」
「酒」
俺がそう言うと、叔母は少しだけ眉を動かした。
そして、言った。
「お酒なんて、無くなるものより、服とか形に残るものがいいでしょ?」
その瞬間。
俺の中で、何かが静かに停止した。
怒鳴ったわけではない。
顔に出したつもりもない。
ただ、頭の奥で、カチリ、と音がした。
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違う。
そうじゃない。
これは、酒を渡した話じゃない。
約束を渡した話だ。
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その酒は、ただの酒ではなかった。
甘い果実酒だった。
強い酒ではない。
高級な酒でもない。
飲んだ瞬間に誰もが唸るような、すごい酒というわけでもない。
ただ、俺にとっては意味があった。
和叶がまだ小さかった頃。
いや、小さいと言っても、もう人の話を理解し、自分の言葉で返してくるくらいには育っていた頃だ。
テレビか何かで、綺麗な瓶の酒が映っていた。
淡い色をした、果実酒。
和叶はそれを見て、目を輝かせた。
「これ、ジュース?」
「いや、酒だな」
「お酒?」
「大人になったら飲めるやつ」
「じゃあ、和叶が二十歳になったら飲める?」
「飲める」
俺は何気なくそう答えた。
すると和叶は、少し考えるような顔をしてから、言った。
「じゃあ、二十歳になったら一緒に飲もうね」
その一言を、俺はずっと覚えていた。
子供の口約束だ。
普通なら、その場の会話で終わる。
だが、俺は覚えていた。
覚えてしまっていた。
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だから今回、俺はその酒を選んだ。
和叶が二十歳になったら一緒に飲もうと言っていた酒。
もちろん、完全に同じものではない。
子供の頃にテレビで見たそれが何だったかなんて、正確には分からない。
だけど、甘くて、綺麗で、女の子が少し背伸びして飲めそうな果実酒。
そんな酒を選んだ。
これは花の代わりではない。
アクセサリーの代わりでもない。
母の日だから、何か物を渡したい。
その発想だけで選んだものではない。
和叶が二十歳になったら。
その時に、母と一緒に開けられるように。
「あの子、こんなこと言ってたよね」って笑えるように。
そういう時間を、少し先に置いておきたかった。
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だから、俺は言った。
「いや、好みとかあるだろ。服は難しいし」
これは建前だった。
本当はもっと言いたいことがあった。
酒には意味がある。
服には服の意味がある。
花には花の意味がある。
形に残るから上で、残らないから下、という話ではない。
だが、それをこの人に説明する気にはなれなかった。
説明したところで、届かない。
そういう種類の人間がいることを、俺はもう知っている。
叔母は、さらに続けた。
「本人の好みと合うものは違うって」
いや、だから。
違うんだよ。
好みの話じゃない。
正解の話でもない。
何が実用的かの話でもない。
これは、約束の話だ。
だが、叔母の中ではきっと違う。
叔母の中では、母の日とは形に残る物を渡すイベントであり、酒は飲めばなくなる消耗品であり、だから服の方が上なのだ。
単純な構造。
分かりやすい価値観。
そして、信じられないほど浅い。
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横で、母が小さく言った。
「……いや、良いよ別に」
その声には、疲れが混じっていた。
拒絶ではない。
怒りでもない。
ただ、これ以上この話を広げたくない、という静かな終了宣言だった。
俺はそれを聞いて、スマホの画面に視線を戻した。
娘と甥っ子は、相変わらずプレゼント候補で揉めている。
こっちはこっちで平和に騒がしい。
俺はその騒がしさに意識を逃がしながら、心の中でだけ、静かにログを取った。
俺は思う。
世の中には、物しか見えない人がいる。
値段。
形。
残るかどうか。
人から見てどうか。
一般的に正しいかどうか。
そういう分かりやすい基準でしか、贈り物を測れない人がいる。
別に、それ自体が悪いとは言わない。
形に残る物が嬉しい人もいる。
花が嬉しい人もいる。
アクセサリーが嬉しい人もいる。
だが。
意味で渡したものを、物の寿命で評価された瞬間。
俺は、その人間とは同じ話をしていないのだと理解する。
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酒は、飲めばなくなる。
それはそうだ。
だが、飲んだ時間は残る。
誰と飲んだかは残る。
その時に何を話したかは残る。
瓶が空になっても、約束まで空になるわけではない。
そんな簡単なことが、どうして分からないのだろう。
いや。
分からなくていい。
分からない人に分からせようとするほど、俺はもう若くない。
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その夜。
母は、俺が渡した果実酒の瓶を見ていた。
「綺麗な色だね」
「だろ」
「和叶、こういうの好きそう」
「たぶんな」
「二十歳になったら、飲めるかな」
「飲めるだろ。甘いやつにしたし」
母は少し笑った。
その笑い方を見て、俺は思った。
ああ。
届いている。
なら、それでいい。
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外野が何を言おうが、関係ない。
約束は、当事者の間にだけ残ればいい。
形に残るかどうかなんて、どうでもいい。
本当に残るものは、だいたい形がない。
記憶。
約束。
言葉。
その時の空気。
そういうものばかりが、人間をしつこく動かしている。
そして同時に、もう一つ思った。
この世界には、形に残るものしか信じない人間がいる。
だが、そういう人間ほど、自分の言葉がどれだけ人の中に残るかを知らない。
良い意味ではなく。
最悪の意味で。
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俺は果実酒の瓶を見ながら、心の中で呟いた。
和叶が二十歳になったら。
そんな約束を、俺はまだ覚えている。
当の本人は、もう取りに来られないというのに。
それでも、あれから数年が経って。
もうすぐ、母の日が来る。
その時、俺はたぶん今日のことを思い出す。
叔母の言葉ではない。
母が瓶を見て、少し笑ったことを。
その小さな笑顔を。
……なぁ、和叶。
約束の酒、母に渡したぞ。
母の日には、兄と母と俺で飲む。
だから、お前は。
そっちで笑っていれば、それでいい。
【観測ログ No.0427】
Log Type:Family Noise
Human Type-ID:AUNT-01
Codename:形に残るもの信仰型外野
観測成功率:98%
観測内容:
意味のある贈り物を、物理的残存性のみで評価。
背景・約束・感情文脈の受信に失敗。
本人は善意の助言をしているつもりだが、実際には他者の選択理由を踏み抜いている。
備考:
説明コストが高すぎるため、会話による修復は非推奨。




