第49話:俺くん、何故か自分の声を育成している
休日の午後。
珍しく、俺は自室で静かに作業をしていた。
静か、といっても、一般的な意味での静かではない。
「ア、イ、ウ、エ、オ」
「カ、キ、ク、ケ、コ」
「バ、ビ、ブ、ベ、ボ」
部屋の中に、自分の声が延々と響いている。
俺はマイクの前で真顔だった。
「ぱぴぷぺぽ、ばびぶべぼ、だぢづでど……よし」
録音を止める。
波形を確認する。
少しだけ首を傾げる。
もう一度録る。
「……今の“ぼ”は甘いな」
自分でも何を言っているのか分からないが、分かる。
こういうのは、分かる人には分かる世界というやつだ。
背後で、ドアが静かに開いた。
「あなた、さっきから何してるの……?」
嫁だった。
俺は振り返らず答えた。
「音のつながりを確認してる」
「何の?」
「俺の」
「何の?」
「俺の声の」
数秒、沈黙。
気配だけで分かる。
嫁が、理解を諦めるか続行するかを迷っている。
「……つまり、自分の声を録ってるってこと?」
「そう」
「何のために?」
「自分の声を学習させるため」
「誰に?」
「機械に」
「何で?」
「歌わせるため」
さらに数秒、沈黙。
俺はこの沈黙を知っている。
“聞けば聞くほど状況が悪化する時の沈黙”だ。
「ちょっと待って」
嫁は落ち着いた声で言った。
「今の流れ、全部日本語だったよね?」
「そうだが」
「なのに一個も分からなかったんだけど」
「安心しろ。説明はできる」
「不安になる言い方やめて」
俺は椅子を半回転させ、嫁の方を見る。
「要するに、俺の声を元に、俺じゃない俺を作る」
「怖い」
「違う。怖くない。技術だ」
「その台詞、だいたい怖い人が言うやつなのよ」
失礼な。
俺はデスク上のメモを指差した。
そこには走り書きでこう書いてある。
・50音
・破裂音
・少し音程をつける
・連続音は今後検証
「……何これ」
「録音方針」
「何でそんな本格的なの」
「経験則だ」
「何の?」
「昔の」
そこで嫁は、ああ、という顔をした。
「また昔の変な創作趣味?」
「変ではない。文化だ」
「その文化、だいたい説明が長いのよ」
否定できない。
俺は椅子を戻し、ファイルを再生した。
スピーカーから、自分によく似た、だが少しだけ整いすぎた声が流れる。
『こんにちは』
嫁が止まった。
『今日は良い天気ですね』
「……え、何これ」
「俺だ」
「俺じゃない」
「そう。それがいい」
「よくないでしょ普通は」
「普通は知らん」
俺は少しだけ満足していた。
この“俺だけど俺じゃない感じ”が、実にちょうどいい。
本人に寄りすぎると生々しい。だが離れすぎると面白くない。
この中途半端さは、かなり使える。
嫁がスピーカーと俺を交互に見る。
「え、ちょっと待って。これほんとにあなたベースなの?」
「ベースは俺」
「なんか、あなたよりちょっと爽やかなんだけど」
「機械の忖度だろう」
「便利ね、その世界」
その時、スマホが鳴った。
画面を見ると、上司からだった。
嫌な予感しかしない。
通話に出る。
「はい」
『もしもし、今何してるの?忙しい?』
「休日ですが」
『知ってる。今何してるか聞いてるの。』
「趣味の作業を」
『珍しいね。何系?』
一瞬だけ迷ったが、説明を省いてもどうせ詰められる。
俺は正直に言った。
「自分の声を録音して、学習用に調整してます」
普通の人間なら、ここで沈黙する。
だが、上司は違った。
『ああ、なるほど』
「なるほどなんですか」
『母音と子音の出方を揃えたいんでしょ?』
「……はい」
『破裂音も入れた?』
「入れました」
『なら、単独音だけじゃなくて繋がりも見たくなるね』
「その予定です」
嫁が横で固まっている。
“何で通じ合ってるのこの人たち”という顔をしている。
上司は妙に納得した声で言った。
『俺くん、そういう無駄に深い趣味だけは昔から安定してるね~』
「褒めてます?」
『半分は』
「残り半分は」
『キモイ』
「でしょうね」
嫁が小声で口を挟む。
「その上司さんも分かる側なの……?」
「分かる側というか、分かろうとする側だな……」
電話の向こうで、上司が笑った気配がした。
『で、成果は?』
「俺だけど俺じゃない感じです」
『それ、一番面白いやつじゃん』
「そうなんですよ」
『仕事にも使えそ?』
「さすがに使いません」
『そうか。なら安心ね』
「何を警戒してたんですか」
『月曜に“僕、実は二十四時間稼働可能です”とか俺くんの声で流されたら嫌でしょ?』
「嫌ですね」
『へぇ~…俺くんでも嫌なんだね』
当たり前だ。
『で。要件だけど、明日の会議で使う資料を纏めといたから後でTeams確認しといてね。』
「承知しました。」
『絶対だよ?君、夢中になると寝食忘れて没頭するからさ。』
「ぐっ。否定出来ない…」
『シシ鍋でも食べて、しっかりね。』
「まだそれ引っ張るんですか。だからたまたま…いや、承知しました。失礼します。」
『うん。それじゃよろしく♪あ。SE君にも連絡しといてね』
「…承知しました」
通話を切ると、嫁が深いため息をついた。
「分かった」
「何が」
「あなたの趣味が変なのは前から知ってたけど、今日ので再確認した」
「心外だな。かなり理屈は通ってるぞ」
「理屈が通ってる変さが一番厄介なのよ」
それは、そうかもしれない。
俺は保存ボタンを押し、新しいフォルダ名を入力した。
voice_test_ver1.wav
「…そのファイル名…まだ増えるの?」
「当然だろ。今回は単独音寄りだ。次は連続性も試す」
「増えるんだ……」
「比較しないと分からない」
「何が」
「どの俺が一番使いやすいか」
「“どの俺”って言い方やめて」
嫁は額を押さえたあと、諦めたように言った。
「まあ、楽しそうだからいいけど」
「そうか」
「ただし」
「何だ」
「夜中に“ばびぶべぼ”はやめて」
「……善処する」
「やめるとは言わないのね」
言質は慎重に扱う主義だ。
嫁が部屋を出ていき、ドアが閉まる。
再び静かになった部屋で、俺は波形を見つめた。
昔は、こういうのはもっと面倒だった。
切って、貼って、直して、崩れて、また直して。
それでも歌った時は妙に嬉しかった。
今は、その百倍楽だ。
だが、根っこの楽しさは、あまり変わらない。
「……次は連続音だな」
誰に言うでもなく呟いて、俺は新しい録音ボタンを押した。
「か、き、く、け、こ――」
休日の俺は、たぶん少しだけ有意義で、
かなりどうでもいいことに、本気だった。
因みに作者はこれを夜中に真剣にやって、嫁からLINEで夜中に騒ぐのやめて。と怒られた事があります。
UTAUって楽しいよね。無限に遊びたくなるよね。つまり作者は悪くないです。
ツールがいけないです。




