幕間: 〜トイレから帰ったら世界が終わっていた件〜
俺は別に、サボっていたわけではない。
そこはまず最初に言っておきたい。
ただ、イベント対応の合間にトイレへ行っただけだ。
人類には排泄という基本機能がある。
それを怠ると社会人以前に生物として終わる。
だから俺は、ごく自然にトイレへ行った。
ごく自然に用を足し、
ごく自然に手を洗い、
ごく自然に作業部屋へ戻った。
そして扉を開けた瞬間、俺は思った。
「……あれ?」
誰もいなかった。
本当に、誰もいなかった。
さっきまで人がいたはずの作業部屋には、
見事なくらい人の気配が消えていた。
荷物もない。
声もしない。
空気だけが妙に静かだった。
「……え、終わった?」
俺は一瞬、自分が異世界転移でもしたのかと思った。
だが残念ながら、そこは異世界ではなく現実だった。
しかもかなり間の悪い現実だ。
数秒だけ思考を巡らせる。
連絡はない。
呼び戻されてもいない。
全員いない。
つまり、たぶん、帰った。
「……じゃあ、もういっか」
そう判断して俺も帰った。
正直夕会も引き継ぎももう終わってる。
つまり俺が留まっていてもやれることはほぼ無い…筈だ。
今思えば、この時点で負けていたのかもしれない。
◇
家に着いてしばらくしてから、スマホが鳴った。
嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感は、大体当たる。
エンジニアの勘というやつだ。
障害予兆検知と同じで、当たってほしくない時ほど当たる。
画面を見る。
上司だった。
「うわ」
思わず声が出た。
メッセージを開く。
『控え室行ったら誰もいなかったんですが?wwwww』
「いや、それはこっちの台詞なんですが?」
思わず即返した。
『トイレ行って帰ってきたら全員帰ってたので、
引き継ぎも終わってたし、もういっかってなって
なって帰りました』
事実である。
盛ってない。
一切盛ってない。
すると上司からすぐ返ってきた。
『人生はままならないものですね……w』
「いや、他人事みたいに言わないでくださいよ」
こっちはちょっと被害者なのだ。
トイレから帰還したら世界が終了していた。
あれはもう個人の努力でどうにかなる領域ではない。
だが上司はそこを責めなかった。
責めなかった代わりに、面白がった。
それが一番タチが悪い。
◇
翌日。
俺は仕事の合間に、改めてやり取りを見返していた。
「いやでも、普通だよな……?」
トイレから戻ったら全員いない。
確認できる相手もいない。
引き継ぎも終わってる。
だったら帰る。
自然だ。極めて自然だ。
俺は自分の正当性を再確認し、静かに頷いた。
そこへ、上司が来た。
「何を難しい顔してるの?」
「難しくはないです。昨日の件、やっぱり俺普通だよなって確認してました」
「あー、あれ」
上司は一秒で理解した顔をした。
「普通だと思うよ?」
「ですよね?」
「うん。普通」
勝った、と思った。
が、次の一言で俺は負けた。
「でも面白かったから、つい」
「そこなんですよ」
俺は即座に抗議した。
「俺、別に悪くないですよね?」
「悪くないね」
「じゃあ被害者じゃないですか」
「被害者だね」
「なのにネタにされたんですよ?」
「だって綺麗だったし」
「何がですか」
「トイレ行って帰ってきたら全員帰ってて、じゃあもういっかって帰る流れ」
「綺麗か?」
「綺麗」
上司は断言した。
なんなんだこの人は。
普通なら、こういう時は多少なりとも注意とか反省とか、そういう方向へ行くはずなのだ。
だがこの人は違う。
責めない。
怒らない。
ただ面白がる。
しかもその態度が妙に自然だから困る。
「いや、でも防ぎようなくないですか?」
「うん、防ぎようはない」
「だったら俺の勝ちでは?」
「社会人的には勝ちかもね」
「ほら」
「でも会話では負けてるね」
「なんでですか」
「だって面白かったし」
「その理屈おかしいでしょ」
「おかしいかな」
上司は首を傾げた。
こっちは傾げたい。
「俺、一応それなりに偉い立場なんですけど。
管理者ですし。」
「知ってるよ」
「なのに扱いが軽くないですか?」
「それはそう」
「認めるんですか」
「だって面白い部類だし」
「ひどい」
上司は小さく笑った。
「でもさ」
「はい」
「それで怒られてないんだから、いいじゃない」
「まあ……それは、そうですけど」
「でしょ?」
この人はこういうところが強い。
正論で押し潰すわけじゃない。
圧で黙らせるわけでもない。
ふわっと軽く言う。
なのに、なぜか最終的にこっちが「まあそうか……」となる。
理不尽だ。
いや、理不尽ではない。
たぶん正しい。
正しいのが余計に腹立たしい。
「納得いかない顔してる」
「納得してないので」
「でも反論は弱い」
「ぐっ……」
「ほらね」
上司は楽しそうだった。
この人、絶対今のやり取りを遊んでいる。
しかも厄介なことに、仕事ができる人間がこの温度で遊んでくると妙に強い。
雑談なのに主導権を握る。
責めてないから反撃しづらい。
でも最後は勝って帰る。
ずるいだろ、それは。
◇
昼休み、俺は一人でコーヒーを飲みながら思った。
やはり強い。
俺も別に無能ではない。
少なくとも自分ではそう思っている。
判断もするし、現場も回すし、人に指示も出す。
だが、その上にいるこの人は、なんというか、強さの種類が違う。
仕事ができるだけじゃない。
会話が軽い。
空気が柔らかい。
なのに、気付けば相手のペースになっている。
「勝てねぇな……」
思わず呟いた、その時。
「何に?」
後ろから声がした。
振り向くと、上司だった。
「うわ、いた」
「いたよ。さっきから」
「怖いんですが」
「で、何に勝てないの?」
俺は一瞬迷ったが、まあいいかと思って正直に言った。
「上司にです」
「へえ」
「いや、なんか普通に強いんで」
「何それ」
「仕事もそうですけど、雑談の処理能力が高すぎるんですよ」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「半分かぁ」
上司は少しだけ笑って、それから言った。
「別に勝たなくていいんじゃない?」
「え?」
「勝とうとするから疲れるんでしょ」
「それは……まあ」
「たまに一発返せれば十分じゃない?」
「いや、でも毎回やられっぱなしは悔しいんですが」
「じゃあ頑張って」
軽い。
軽いのに、妙に雑ではない。
その温度感がずるい。
「今の、励ましてます?」
「応援してる」
「本当に?」
「本当に」
「全然信用できない」
「失礼だなあ」
そう言いながら、上司は笑った。
その顔を見て、俺は理解する。
ああ、たぶん当分勝てない。
正面から行っても無理だ。
たぶんこの人相手には、勝つんじゃない。
食らいつくのが正解だ。
たまに一矢報いて、
でも最後は向こうが一枚上。
そんな感じで、少しずつ距離を詰めていくしかない。
前途多難である。
だがまあ、悪くない。
少なくとも――
「トイレから帰ったら全員帰ってた件は、俺悪くないですよね?」
「まだ言ってる」
「大事なことなので」
「悪くないよ」
「よし」
「でも面白い」
「そこですよ!」
やっぱり勝てる気がしなかった。




