第87話:東雲希望
三次元はクソゲーだ。
俺――東雲希望は、
そう思っていた。
あの人と出会うまでは。
今にして思えば、
大分拗らせていたと思う。
けど今なら言える。
二・五次元こそ至高であると。
これはまだ、
俺が結城紫苑という怪物や、
逢沢航という悪友に出会う前の。
二次元大好きっ子だった頃の話。
「ただいまー」
返事はない。
今日もテーブルの上には、
おにぎりが二つ置いてある。
高校生になったばかりなのに。
育ち盛りの息子に、
おにぎり二個って。
まぁ、
作ってくれるだけありがたいのかもしれないけど。
それでも俺は不満だった。
共働きなのは分かる。
分かるけど。
それでも、
家に帰ってきて誰もいない空間というのは、
思っている以上に静かだった。
「……ただいま」
もう一度言ってみる。
返事はない。
当たり前だ。
俺は鞄を床に置き、
テーブルの上のおにぎりを見下ろした。
ラップに包まれたそれは、
きちんと二つ並んでいる。
母さんの字で、
小さなメモが置いてあった。
『チンして食べてね』
「……おにぎりを?」
思わず突っ込んだ。
いや、温めるけど。
温めるけどさ。
高校生男子の夕飯として、
おにぎり二個は少ない。
あまりにも少ない。
部活帰りの奴なら、
この時点で暴動が起きる。
俺は一個目のおにぎりを手に取った。
中身は鮭だった。
うまい。
うまいけど。
足りない。
圧倒的に足りない。
「三次元はクソゲーだ……」
俺はそう呟きながら、
テレビをつけた。
誰もいないリビングに、
バラエティ番組の笑い声だけが響く。
それが何となく嫌で、
すぐに消した。
静かになった部屋で、
俺は二個目のおにぎりを食べる。
具は昆布。
うまい。
うまいけど。
やっぱり足りない。
腹も。
声も。
何かも。
満たされなかった。
「あーあ……」
俺は空になった皿を見ながら、
ソファへ倒れ込んだ。
静かな部屋。
時計の音だけがやけに響く。
「明日、
俺の誕生日なのになぁ……」
別に。
愛情が無いとは思っていない。
母さんも父さんも、
ちゃんと働いている。
家のために。
俺のために。
それくらい分かってる。
分かってるけど。
……なんというか。
「もうちょっとこう……」
言葉が上手くまとまらない。
ケーキが欲しい訳じゃない。
プレゼントが欲しい訳でもない。
ただ。
少しくらい、
特別感が欲しかった。
それだけだ。
俺は天井を見上げた。
静かだ。
静かすぎる。
「……暇だな」
ぽつりと呟く。
そして。
何となく立ち上がった。
ふと思い立って、
街へ出る事にした。
時間は十八時。
高校生が外へ出るには、
不自然ではない。
でも、
早くもない。
そんな時間だった。
玄関でスニーカーを履く。
ガチャ。
ドアを開ける。
夕方と夜の間みたいな空気が、
肌へ触れた。
少し冷たい。
でも、
嫌いじゃなかった。
俺はイヤホンを耳へ突っ込み、
誰もいない道を歩き始める。
あの頃の俺はまだ。
この夜が、
人生を少しだけ変えるなんて、
思ってもいなかった。
「ちょっと失礼」
背後から声をかけられた。
振り返ると、
制服姿の警察官が立っていた。
「君、幾つ?」
「……十五です」
「高校生?」
「はい」
警察官は俺の顔と、
少し先の繁華街を交互に見た。
時間は十八時過ぎ。
補導されるような時間ではない。
でも。
一人でふらふら歩く高校生を見れば、
声をかけたくなる気持ちも分かる。
「どこ行くの?」
「……ちょっと、街まで」
「一人で?」
「はい」
「家の人には?」
「言ってないです」
しまった。
そう思った時には遅かった。
警察官の表情が、
ほんの少しだけ真面目になる。
「何かあった?」
「……別に」
嘘ではない。
何かあった訳じゃない。
ただ。
何もなかった。
それが少しだけ、
嫌だっただけだ。
「家、近い?」
「はい」
「そう。じゃあ気をつけてね。
あんまり遅くならないように」
「……はい」
警察官はそれ以上、
強くは言わなかった。
ただ、
最後に少しだけ柔らかい声で言った。
「明るい道通って帰りな」
俺は小さく頷いた。
そしてまた歩き出す。
職質された。
別に悪いことはしていない。
なのに少しだけ、
自分が世界からはみ出しているような気がした。
「はぁ……」
俺は小さくため息を吐いた。
何をやってるんだろう。
家を飛び出して。
補導みたいな事されて。
街をふらついて。
別に、
行きたい場所があった訳でもない。
「……帰るか」
ぽつりと呟く。
イヤホンを外し、
来た道を戻ろうとした。
その時だった。
――♪
「……ん?」
何か聞こえる。
足が止まる。
遠くから。
風に乗って。
微かに。
音が聞こえた。
「これは……」
耳を澄ます。
ギター。
ドラム。
ざわめき。
そして。
透き通るような声。
「……歌?」
駅前広場の方だった。
夜になりかけた街。
人の流れ。
ネオン。
その隙間から、
歌だけが真っ直ぐ届いてくる。
不思議だった。
別に、
特別上手い訳じゃない。
なのに。
何故か耳を持っていかれる。
気づけば俺は、
音のする方へ歩き出していた。
まるで。
何かに引っ張られるみたいに。
「はぁっ……
はぁっ……」
息が切れる。
胸が痛い。
足も重い。
俺は別に、
運動が得意な方じゃない。
むしろどちらかと言えば苦手だ。
五十メートル走十秒。
我ながら酷いと思う。
体育教師にも、
「もうちょっと頑張れ」と、
毎年同じ顔をされた。
でも。
その時の俺は、
走らずにはいられなかった。
歌が聞こえる。
遠く。
でも確かに。
まるで。
何かに呼ばれているみたいだった。
「なんなんだよ……これ……!」
駅前へ近づくにつれて、
人混みが見えてくる。
ざわざわした空気。
立ち止まる人達。
スマホを向ける高校生。
そして。
その中心。
簡易ステージの上に、
一人の女の子が立っていた。
スポットライトも無い。
大きな舞台でもない。
それなのに。
そこだけ、
世界の中心みたいに見えた。
長い黒髪。
白い衣装。
マイクを握る指。
そして。
真っ直ぐ前を見ながら歌う姿。
その瞬間。
俺は初めて思った。
「……三次元って」
心臓がうるさい。
息が苦しい。
なのに目が離せない。
「こんな顔、
するんだ……」
堂条純恋。
後に。
俺の人生を、
良くも悪くも、
最悪の方向へ変えていく女との。
最初の出会いだった。




