彷徨う
行けども行けども、二人の前には変化のない闇が広がるばかりだった。音もなく、上下の感覚も希薄な暗闇の中、二人は当てもなくただひたすらに漂っていた。
暗闇がこれ程恐ろしいものだと、アーシェは初めて知った。目印もなく、音もない。本当に自分たちが前に進めているのかすら疑ってしまうような空間だ。アーシェはなぜジークがこうも平然としていられるかが、不思議だった。初めて飛ばされた鏡面世界は、まだ光と煌めきに溢れていた。しかし今のこの空間は、光すら無い。ただただ広がる静寂と漆黒の中、唯一の心のよりどころが、右手から伝わるジークの存在だった。
「シリウス達、居ないね…」
どれだけ進んだのだろう。元より道しるべなどもなければ、時間の感覚も分からない。本の数分かもしれないし、何時間も漂っているような気にもなる。せり上がってくる息苦しさに耐え切れずに、アーシェの恐怖心が、思わず零れた。
これだけ魔素がなければ、人がいればその人が纏う魔素のきらめきが、むしろこれ以上なく目立つはずだ。しかしアーシェの眼は一向に自分たち以外の魔素を捕らえることもできず、ただただ虚ろに暗闇を撫でるだけだった。
「親父たちはああ見えてかなりの実力者だし、シリウスに至っては魔術師だ。一番死にそうな俺たちがこうして生きてるんだ。あいつらも、何とかなってるだろ」
アーシェとは違い、ジークは変わらず泰然としていた。どこに向かっているのやら、時折立ち止まったり方向を変えたりしながら、アーシェをどこかへと引っ張っていく。ジークが居てくれて、本当に良かったと独り言ちる。アーシェ一人がこんな空間に飛ばされたとしたら、恐らく数分と持たなかっただろう。
「…何だか俺、いつもジークに助けてもらってるね」
「どうしたんだ?急に」
「いやさ、初めて俺がここに来た時も、ジークにこうやって助けてもらったなーって」
「…俺とすれば頼むからそんな状況は、そうそうご免なんだがな」
呆れたように答えるジークに、アーシェはくすくすと笑みをこぼす。そしてゆっくりと辺りに視線を飛ばすと、小さくため息をついた。
「…あの時と状況は似てるけど、環境は大違いだ。前に来た鏡面世界は星空みたいにキラキラ輝いてたし、なんて言うか…生きてた感じがしたんだ」
「生きてた?」
ジークの訝し気な声に、アーシェはこくりと頷き辺りを見回した。視線の先にはただひたすらの静寂。意識したとたん、アーシェはぶるりと体を震わせた。
「…そう。今のこの世界は、生きてる感じがしないんだ。何も無いだけじゃない。生き物の気配が欠片も無くて、しかも生まれる余地すら無い」
「生まれる余地…ってなんだ?どういう事だ?」
「無から有は生まれない。何も無いところからは何も発生しない。ここは、生き物の住む世界じゃない。完全に閉じてる。むしろ死んでるような空間なんだ」
それが一番しっくりくると、自分で言いながらもアーシェは思わず頷いてしまった。以前の鏡面世界は、魔道具の補助が無ければ数分と持たない、人にとっては過酷な環境だった。しかしそれは人が耐えうる許容量を超えた空間であったというだけで、命の萌芽が無かったわけではない。実際、アーシェはその片鱗を、この目で見ている。
「…今にして思えば、あの時見た海が閉じ込められたガラス石…」
アーシェは初めて鏡面世界に飛ばされたときに見た、水がたゆとうガラス石を思い起こした。一抱えはありそうなガラス石の中に、なみなみと注がれた綺麗な水。その上には滝が流れる島が浮かび、美しい緑が生い茂っていた。あれは魔素が潤沢に溢れた鏡面世界だからこそ、生まれたのではないか。他の光る小石達も、あるいは。それらを全て飲み込んでしまったあの赤いガラス石でさえ、もしかすると鏡面世界という特異な環境が生み出した結晶だったのではないだろうか。
「ああ、俺が助けに来る前に見つけたっていう大きなガラス石の事か?俺も見てみたかったが、親父どもも見つけられたこと、無いんだろ?」
「うん、そうなんだ。あの時も光る道にそってゆっくりと動いてたから、場所も一定じゃないんだよね。…無事だと良いのだけど…」
アーシェがしょんぼりと肩を落とした。あの静寂を体現したかのようなガラス石が、消えてなくなってしまったと思うと胸が痛い。どこかで生き延びていてくれればと、願わずにはいられなかった。
「今回の赤いガラス石だって、以前の探索じゃ見つからなかった。案外、どこかにひっそりと隠れられる場所があるのかもしれない。そう落ち込むものでも無いかも知れないぞ?」
ジークの言う事も最もだった。そもそもアーシェたちは、まだこの鏡面世界に潜り始めて、日が浅い。むしろ知らない事のほうが多いのだ。だがそれでも妙に悪いほうへと意識が向いてしまうのは、今の状況のなせる業か。アーシェは常と変わらないジークが、むしろ不思議だった。
「…ジークはいつも変わんないね」
「あん?」
「初めて迷宮で助けてもらったときは、単なるバカだと思ったけど…」
「…一度お前の俺に対する認識を、改めて聞いてみたいものだな?」
「だってドラゴンゾンビの時も巨人戦の時も!普通あんな奴に正面から突っ込んでいかないよ?!」
アーシェの言い分にも一理はある為、ジークはそっぽを向くとバツが悪そうに舌打ちした。デュークやランドルフ隊長が居たから良いものの、普通の感覚であればあんな捨て鉢な戦術は取らない。だがジークはいつだってギリギリではあっても、決して無策では無かった。だからこそ、ナルバの迷宮であっても中堅どころのパーティと目され、二年近くも一人の欠員もなくまとめ続けていられるのだろう。
「ジークって一見バカで考えなしで無鉄砲そうなところがあるけど、何ていうかいっつも変わらないんだ。落ち着いてるとも違うけど…。なんかこう、安定してるよね」
「色々と問いただしたいところではあるが…安定ってなんだよ?」
「今だってこんな異常な状況だっていうのに、ナルバの普通の迷宮に居るのと同じみたい。普通なら、きっと発狂しててもおかしくないよ?」
それは言葉にして初めて、アーシェの中にしっくりと落ちてきた。常にジークという男は、一歩引いて回りを見ているような、冷静な部分がある。
「あーー…そうだなぁ…。それはまぁ、昔の癖、だなぁ」
「昔の癖?」
「まぁ…そうだな…。俺とデュークが昔傭兵団に居たことがあるって話、知ってるだろ?」
「うん、確か家族同然の付き合いだったんだよね?」
それは以前、リーザに聞いたことがあった。
「うーーーん、家族同然というより、まぁ家族だな。デュークは孤児として団に拾われた子供で、俺はそんな傭兵団で生まれたんだ。あいつは戦士の血を引いてるってんで、団の大人達から戦い方をよく仕込まれてた。俺の親父は団長だったから、自ずとデュークと一緒にいる時間は、長くなった」
「え!ジーク、団長の息子だったの?!」
「と言っても、血は繋がって無いんだけどな。なんでも、愛した女が目にかけていた女の子供らしい。良く分からんが、まぁ俺は一応親父からは息子として扱って貰ってた」
話がそれた、とジークは咳払いして、話を戻した。
「別に団長の息子だからって、特別扱いされていたわけじゃない。団に引き取られた他のガキどもと一緒くたに扱われてたし、俺も余程のことも無ければそんなこと考えもしなかった。ただ…まぁすげぇ奴だったんだよ、親父が。だから物心つく頃には、親父みたくなろうとして、必死になってた」
実際、呑み込みも早かったらしい。ジークはめきめきと団の中で頭角を現していった。しかし周囲からも次期団長と目されていたと語るジークの言葉に、思わずアーシェは顔を上げてしまった。常にない程、苦々しいものを含んでいたからだ。
「…まぁ、その後色々あって、俺は団を追い出された。それ以来、親父には会ってねぇ」
「ええ?!ちょっと、ジーク、端折りすぎ!!」
思わず喚くアーシェに、ジークは盛大に舌打ちをした。しかし食い下がるアーシェにため息をつくと、がしがしと頭を掻きながらしぶしぶと口を開いた。
「まぁなんつうか…。息子の俺が言うのも何だが、すごい人だったんだよ、親父は。でもその親父からすると、俺には信念ってのが足りないらしい。『信念の炎を燃やし、常に冷静であれ』。これが親父の口癖だったんだが、曰く、俺にはその信念が無いんだそうだ。――で、喧嘩して団を飛び出た」
流石に最後の方は格好が付かないと思ったのか、バツが悪そうにそっぽを向いてしまった。
「信念の…炎?」
「ああ。それが何だかは俺も分からん。でも喧嘩別れして団を飛び出して、そん時に何を好き好んでかついてきたのが、デュークだ」
「デュークが?…団の人たちと上手く行ってなかったの?」
あの面倒見の良いデュークが人と不仲になる姿は想像できなかった。案の定、ジークはふるふると頭を振ると、分からないとため息をついた。
「どうしてデュークが団を抜けようと思ったのか、俺は知らん。聞いてもあいつは教えてくれねぇ。あのまま居れば、俺なんかより良い団長になったと思うんだが…。まぁともかく、あいつも俺と一緒に飛び出してきたんだ」
家出という年では無かったがなと、ジークは一人苦笑した。しかしアーシェには笑えなかった。どういう経緯であれ、居場所を追われるという辛さは、アーシェには笑うことができなかった。
「それで…どうしたの?」
「どうもこうも、俺もデュークも、ずっと傭兵団で育っちまった。だから、戦うこと以外出来ることがない。仕方ないから最近現れたっていうナルバの迷宮に来たのが、二年前だ」
それから気が付けば二年。まさかこんなに長く潜ることになるとは思わなかったと、ジークは独り言ちた。その目線は、遠く彼方を見つめている。ジーク本人としても、これだけ長く団を離れることになるとは思わなかったのだろう。
「――それで見つかった?その…信念」
「いや、全くだ。そもそも、親父の信念が何だったのかも、俺は知らない。…まぁでも、教えてもらった事は役に立ってるさ。俺みたいなやつ、この迷宮じゃあ半年と持たなかったさ」
そう言うジークの口調は、いつものそれに戻っていた。
ジークは彷徨っている。アーシェはそう直感した。生まれ育った団が好きで、尊敬する育て親が傍にいて。その環境からある日突然放り出されて、どこに拠り所を求めるべきか見えないのだろう。しかしジークは育ての親が問いかけた答えを見つけるまでは、決して団には戻らない。その意地は、しっかりと感じ取れた。
アーシェは思わず自分を顧みた。自ら望んで団を飛び出したジークと、異端と忌まわれ外の世界へと突如放り出されたアーシェ。状況は違えど、故郷に対する思いは同じだ。アーシェも、今故郷に戻るのは無理だ。今度こそ、殺されてしまう。しかし自分を慈しみ育ててくれた両親には、心の底から会いたいと思った。




