炎の海の主
「ジーーーーク!ガントスさーーーん!!」
渓谷の様になっている一帯を、アーシェは声を張り上げながら進んでいった。傍らに歩くシリウスは、まだ本調子では無いようで、アーシェの横をゆったりと付き従う。声を張り上げれば魔物に見つかる危険もあったが、アーシェ達には時間が無い。兎にも角にも、ジーク達を見つけることが最優先だった。
「ジーク…どこ行っちゃったんだろう…」
呼びかけもむなしく、アーシェの声は谷間の彼方に吸い込まれていく。ついにアーシェ達は、自分たちが歩いてきた渓谷よりも更に大きな渓谷にぶつかった。どうやら、アーシェ達が落ちた所は支流の一つだったらしい。眼前に広がる渓谷は、見上げるほどの高さの岸壁に囲われた、広い渓谷だった。恐らくこちらが本流なのだろう。しかしこれほど広く見晴らしの良い谷底に立っても、見知った姿は見当たらなかった。
「ジーーーークッ!!返事してよぉーーーーーっ」
アーシェの必死の呼びかけは、岩壁に当たって渓谷の奥深くへと反響していった。これだけ探しても見つからないとなると、最悪の事態が脳裏を霞める。アーシェにはシリウスの魔術があったが、ジークにはそれは間に合わなかった。もし、無防備なままあの炎の渦に突っ込んでいれば、一たまりもない。不安と焦燥に、アーシェの表情はどうしたって暗くなった。今のところ魔物には遭遇していないが、不意打ちの様に炎が間欠泉の様に噴き出してくる。考えたくない想像を振り払うようにじっとりと汗ばむ額を拭っていると、遠くの方から微かな音が聞こえた様な気がした。
「…シリウス、今何か聞こえなかった?」
思わず足を止め振り返る。しかし視界の中には、特段不審なものは見当たらなかった。しかし何となく空気がざわついている様な気がする。シリウスも違和感を覚えた様で、蒼白ながらも辺りを警戒し始めた。
「何か…急に落ち着かない気分にさせられますね」
「うん、よくわからないけど…嫌な予感がする」
アーシェは冷たい汗が、背に伝うのを感じた。理由は分からないが、このままここに居てはいけない気がする。しかし脅威の正体も分からず、闇雲に動くのは逆に危険だ。アーシェが辺りを見回すと、遠くに動く人影を捉えた。
「…ジークっ!!」
それは見知った仲間の姿だった。大きく手を振りながら、こちらに向かって駆けてくる。アーシェは仲間の無事な姿に安堵したが、かけられたのは鋭いジークの叫びだった。
「――アーシェ!!そっちに戻れ!!」
「…え?」
切羽詰まったジークの様子に、何事かと思わず立ちすくむアーシェ。しかしシリウスの行動は素早かった。さっとアーシェの腕をつかむと、咄嗟に今来た道を引き返した。細い支流へと身を躍らせると、ジークも物凄い勢いで飛び込んできた。
「シ、シリウス?!――ジーク!一体どうして…?!」
「その岩陰に隠れろ!!」
アーシェ達に続いて飛び込んできたジークは、しっとアーシェを黙らせると、体を小さくして谷の先を睨んだ。すると遠く彼方から、甲高い音が聞こえてくる。
「――来たっ!絶対に、声を立てるなよ?!」
『―――――ピィィィィィィィィィ!』
「?!?!」
甲高い音と共に、ごうっと熱風が吹き込んできた。思わず顔を背け、腕をかざす。しかしその一瞬の間にアーシェの視界が捉えたのは、眩いばかりの炎を纏った、巨大な鳥だった。
広い渓谷が狭く感じられるほどの巨体は、キラキラと輝く炎の羽に覆われている。目もくらむような高濃度の炎の魔素を伴ったそれは、一陣の熱風となってアーシェ達の目の前を通り過ぎて行った。渓谷内の魔素濃度は一気に高まり、所々渦巻いているのが見える。それ程までの圧倒的な存在感に、アーシェは腰が抜けそうになった。
「…い、今のは…?」
掠れた音が、シリウスの口から洩れる。シリウス自身、たった今目の前を横切った存在を、信じられないでいるようだった。
ジークはそうっと辺りを伺うと、ほっと息をついた。
「大丈夫そうだ。――見てみろ。その方が、話が早い」
ジークに導かれるまま足を踏み出すと、所々に炎がくすぶる光景が目に飛び込んできた。そこかしこに、黒く煤けた所もある。アーシェはぞっとした。あのままジークが見つけてくれなければ、自分たちは今頃跡形も無くなっていただろう。
「――あれが、今ここを横切ったものの正体だ」
うねりながら続いている渓谷の先は、アーシェ達には見えない。しかしその遥か彼方、燃え盛る炎の空に向かって、一羽の巨鳥が舞い上がった。
「あ、あれは…!!」
『―――ピィィィィィィィィィ――』
微かに聞こえる鳴き声と共に、その身を炎でまとった巨鳥が空高く昇っていく。そして力強く羽ばたくと、空を覆う炎へと突っ込んでいった。そして幾度となく体当たりをしては、見えない壁に阻まれ打ち返される。しかし巨鳥は懸命に、その身を炎の空へと躍らせた。
「俺がここに落ちてきたときも、あいつはああやって空に向かってもがいていたんだ」
これ程までに離れているのにも関わらず、アーシェ達の目にはしっかりとその巨鳥が見て取れた。眩いばかりの炎を纏うその姿からは力強さが溢れているのにも関わらず、空の壁にはひび一つ入れられない。幾度か巨鳥は体当たりを試みると、力尽きたのかそのまま炎の海へと落ちて行った。
「全く…間に合って良かったぜ。後一歩遅かったら、手遅れだった」
やれやれと言った風に盛大にジークがため息をつく傍ら、アーシェは驚愕に目を見開いていた。あれ程までに巨大な魔素の塊など、見たことも無い。それこそ、神話に出てくる精霊王かと見紛う程だ。思わず問い詰めるも、ジークはゆっくりと首を振るとアーシェの肩に手を置いた。
「あいつが何者かは分からないが、取りあえず今は時間が無い。向こうに洞穴があるんだ。そこに、ガントスの親父たちが隠れている」
「本当?!皆無事?!」
「ああ。取りあえずは、大丈夫だ」
まさかジークがガントス達と合流しているとは思いもしなかった。無事と聞いて、アーシェは思わず胸を撫でおろした。
巨鳥が飛び去ったのと同じ方角にジークが進み、アーシェ達もゆっくりとその後を続いく。所々未だくすぶっている火種があり、注意深く道を選ぶ。程なくして、岩肌に亀裂の出来た洞窟が見えた。
「ここだ。親父たちはここに隠れている。俺はこの近くに落ちた所を、たまたま親父たちが見つけてくれたんだ」
運が良かったと笑うジークに、アーシェは呆れてしまった。運が良い、どころの話では無い。
「親父!アーシェ達を見つけて来たぜ!」
洞窟の入り口は大人が一人通れるくらいの幅しかなかったが、中はそれなりに広いようだ。
「おお、無事だったか!!」
「ガントスさん!!」
馴染のある低い声と共に、闇の中からのっそりと獣面が現れた。所々鬣が煤けていたりするものの、ガントスは概ね元気そうだった。更に後ろから、ネルが続く。
「おやまぁ、本当に、アーシェじゃないかぇ」
ガントスとは一転、ネルはさもこれから街にでも出かけそうな、気軽な装いだった。異国の民が着ると言う珍しい衣装と、大ぶりの扇子。目のやり場に困るはだけ具合も、いつもの物だった。
「良かった!二人とも無事…っ!」
「馬っ鹿やろうっ!!!」
アーシェは鼓膜を震わすほどの振動に、思わずのけ反った。突然の怒号に、ジークとシリウスも驚いている。一人傍らのネルだけが、いつもの笑みを浮かべていた。
「護衛対象のお前が、どうしてこんな所まで来てやがんだっ!!お前を守るのが俺達の仕事だっ!!勘違いするんじゃねぇっ!!」
髭の先までぴんと伸ばして、牙を向かせてアーシェに吠えた。
護衛対象に助けに来られてしまうなど、一体何の為の護衛か。ガントスは最初、ジークが現れたときには左程驚きはしなかった。行方不明になった冒険者と貴重な試作品を回収するためであれば、有り得る事だからだ。しかしアーシェも伴っていると聞いた時には我が耳を疑った。自らの盾を守るため、敵陣にその身を晒す馬鹿はいない。ガントスの怒りも最もであった。
「いいかっ!お前ぇは何が何でも、生きのびなきゃなんねぇんだ!それが自分からこんな場所までのこのこ出てくるなんて――っ!」
「うわぁぁぁっぁぁぁぁん!!!ガントスさん~~~!!!」
「おぉう?!」
突然泣き出したかと思うと、アーシェはぎゅっとガントスに抱き着いた。獣人としては体格な立派なガントスにしがみつくと、小柄なアーシェなど更に小さく見える。しかしぎゅっと掴む手はか細いながらも強かった。決して離すまいと言った気迫が、溢れていた。
「本当…本当、良かった…!心配したんだよ…っ」
「ちょ…っ!お前…!人の話を…っ!!」
怒鳴りつけて逃げ出されたことはあっても、泣きながら抱き着かれたことは初めてだった。いくら振りほどこうにも小さな体から信じられないほどの力で抱き着かれ、ガントスは一気に気勢をそがれてしまった。盛大にため息をつくと、きまり悪そうに鬣を掻いた。
「…ったく、全くお前ってやつは…!」
「ほほほほほ。流石妾のアーシェよのぅ。ガントスが、形無しだわ」
コロコロと笑うネルに、うるせぇ!とガントスが吠える。どんなに怒鳴られたとしても、今ばかりはそれすらも嬉しかった。魔素溜まりに取り残されると言う事は、死よりもむごい状況が待っている。最悪の事態すら覚悟していたアーシェとしては、ガントスに怒鳴られる位、大したことでは無かった。
ふと、一人欠けていることに気が付いた。
「…ガントスさん、ネル…。あの、トレル、は…?」
おずおずと声をかけるアーシェに、さっとガントス達の顔が強張った。その反応に、アーシェは一気に血の気が引いた。真っ青な顔になったアーシェに、ゆっくりとガントスが口を開いた。
「あいつは洞窟の奥に寝かしている。一応、無事は無事だ。だが…」
「トレルは今、妾の香で仮死状態にしておる。――魔道具が、壊れてしまったのでの」
アーシェは息を飲んだ。これだけ高濃度の魔素が充満している中、魔道具が壊れたとなると致命的だ。ガントスは洞窟の中を指さすと、アーシェに入るよう促した。
洞窟は天井の高い空洞になっていた。左程奥がある訳では無いが、大人が七、八人入る分には問題は無い。眼が暗闇に慣れてくると、洞窟の奥にトレルが寝かされているのが見て取れた。
「ここに落ちてきたとき、トレルは強かに岩肌に叩き付けられての。その際、魔道具が壊れてしまった様なのじゃ」
痛々しい声で、ネルがトレルの傍らに座った。アーシェも急いで駆け寄り、その表情を伺う。頬に手を当てると、驚くほど冷たくなっていた。
「――トレルは剣士だ。魔素耐性が低い。急にこれだけ濃い所に放り込まれて、一気に錯乱しかけたんだ」
語るガントスの言葉は苦々しい。シリウスの様に魔術の素養が無いものが、これだけの魔素溜まりに晒されれば魔素酔いは一気に進む。体が、高濃度の魔素の処理に追いつかないからだ。廃人になりかかりそうなところガントスは一度トレルを昏倒させ、ネルが得意の薬で仮死状態にしたのだと言う。確かに、仮死状態であれば魔素の影響は最小限に抑えられる。だがそれも一時的だ。トレルの魔道具が壊れてしまっている以上、長く留まれば早晩死に至る。
「――俺たちの魔道具も、そろそろ限界だ。もって後一時間位だろう。それまでに脱出方法を見つけなきゃならねぇんだが、どうしてもそれが見つからねぇ。あるいはあの鳥が空の壁を壊してくれるんじゃねぇかって期待はしているんだが、そうそう悠長に待っている訳にも行かなさそうでな。何とかしたいところなんだが…」
重苦しく語るガントスに、アーシェの体が更に冷たくなる。本当に、時間は無いらしい。
「…取りあえず、トレルの魔道具を見せてくれ」
アーシェはそっとトレルの胸の上に置かれている、魔道具に手を伸ばした。
大人のこぶし大程度のその魔道具は、アーシェ達が持たされた試作機と比べると、一回りは小さくなっていた。見たところ、全く機能していない分けでは無さそうだが、魔道具の一部が凹んでいる。本来の半分の力にも満たないそれでは、意識のないトレルの体をギリギリ何とか生かせているといった所か。アーシェは震える手を何とか抑え込みながら、魔道具の蓋を開いた。中には、壊れた台座と、そこから転がり出てしまった魔石が一つ。どうやら、台座が壊れたときに周りに書かれた魔術文字を削ってしまった様だ。魔道具は描かれた魔術文字で正しく機能する。壊れてしまった原因は、これの様だ。
「故障の原因は分かったよ。でも、残念だけどここじゃ直せない」
目に見えて、ガントスとネルの落胆が伝わってくる。アーシェは申し訳なさで胸が詰まった。トレルの命の灯は、今この瞬間にもむしばまれている。無力な自分が悔しかった。
「――ならとっととトレルと一緒に、ここを脱出するまでだ」
力強いジークの言葉に、アーシェははっとした。そうだ、今ここで悩む時間も惜しいのだ。アーシェはゆっくりと顔を上げると、二人を振り仰いだ。
「ガントスさん、ネル。取りあえず、どうしてこうなったのか、教えてくれる?」
ガントスとネルは一瞬目合わすと、ここに至る経緯を語りだした。




