アーシェの物語
どこをどう走っただろうか。無我夢中で駆け出して、気が付けばアーシェは市外を見下ろす城壁の上に居た。脳裏に木霊する過去の亡霊たちの声から逃れたくて、必死に駆けて駆けて辿り着いた先が南東の城壁。そこは遥か先に黒々と続く大森林が横たわり、それはアーシェにとって懐かしくもうとましい、故郷の色だった。
「結局…ここに来ちゃうのか…」
こぼれ出た言葉は誰に聞かれるでも無しに、風に攫われた。大森林は深くて暗い。迷えば出られない死の森とも言われている事を、アーシェは外界に出て初めて知った。しかし、アーシェはその森が様々な色彩を持った豊かな森である事を知っている。そしてその奥には、懐かしい故郷の村がある。それを思い出すと、独りでに涙があふれ出てきた。一度溢れた涙は、止まる事を知らない。アーシェは嗚咽を堪えながら、しゃくりあげた。
「父様、母様…っ」
しかし、帰りたい、とは口が裂けても言えなかった。懐かしい故郷の思いでは、それ以上に昏い記憶を呼び起こす。行き場の無い辛さに心をかき乱されていると、場違いな程朗らかな声が、アーシェの背中に投げかけられた。
「おー、ここに居たか。随分と走り回ったぞ」
常と変らぬいつもの調子。ジークには泣いている所ばかり見られている。気恥ずかしさと悔しさで、アーシェは振り返らず答えた。
「…どうして来たの」
声が震えないようにするには、これが精一杯だった。
しかしジークはそれに応えず隣に陣取ると、良い眺めだなぁと身を乗り出した。
「魔石の精霊がここまで案内してくれた。お前、愛されてんな」
軽い調子のジークに苛立ち、アーシェは思わず吐き捨てた。
「――シリウスは疑ってるんじゃないか。俺が事前に魔石に何かしたんじゃないかって。でなけりゃ契約を交わした主人を、裏切るようなことはしない」
顔を上げてジークを直視しないのは、そうしなければなけなしの虚勢が崩れてしまうと思ったからだ。自身の握りしめた拳が小刻みに震えるのを苦々しく思っていると、変わらずのんびりとした声でジークが答えた。
「さてなぁ。しかしリーザはかなり怒ってたぞ。あいつにしては珍しく、シリウスに掴みかかってた」
ケラケラと軽い調子で笑うジークの声が癇に障り、アーシェは思わず振り向き怒鳴り返した。
「ふざけるなっ!どうしてそうやって笑っていられる?!シリウスが…シリウスが正しい!俺は…得体が知れないっ」
自分の口から飛び出した言葉であったが、それはざっくりとアーシェの心を傷つけた。自分でも蓋をして覆い隠してきた事実を改めて直視するのは、想像以上の苦痛を伴った。
「――アーシェ」
「……っ」
真っ直ぐに見下ろすジークの視線に射抜かれて、アーシェはびくりと硬直した。先程までの雰囲気が嘘のように、ジークの視線は鋭く険しい。しかしそこにはアーシェを糾弾する意図は視えず、ただ真実を見極めようとするジークの強い意思が見て取れた。
「…リーザから、シリウスがお前を得体の知れない魔物だと、そう言ったと聞いた」
傍目にも分かるほど、アーシェの体が小さく震えた。しかしそんな簡単な問いですら、今のアーシェは答えを持ち合わせていなかった。自分が何者なのか分からない。それはアーシェがずっと抱いていた大きなしこりであり、枷だった。
「――アーシェ。お前は、魔物なのか?」
ゆっくりと諭す様に問うてくるジークに、アーシェはうわ言の様に言葉を絞り出した。
「ち、違う…魔物じゃ…魔物じゃ…ないっ」
「じゃあなんで逃げるんだ?」
言われた言葉の意味が分からず、アーシェの思考が真っ白になった。しかし次の瞬間には怒りが込み上げてきて、アーシェは叩き付ける様に怒鳴り返した。
「うるさいっ!ジークは…っ!ジークは何も分かっちゃいない…っ!!」
アーシェの脳裏に渦巻くのは、今まで心の奥底に封印していた過去の記憶だった。ある日を境に、アーシェの周りから味方は居なくなった。どれだけ泣いて喚いて助けを乞うても、家族以外の誰もが目を背けた。今まで親しかった者たちから向けられる謂われない悪意と糾弾。それは幼いアーシェを奈落の底へと突き落とし、未だ癒えない傷を大きく作った。
「馬っ鹿やろう!ふざけんな!!」
「――っ?!」
ガツン!と大きな音をたてて、ジークの拳骨がさく裂した。余りの痛さにアーシェは思わず蹲る。唐突な衝撃に目を白黒させていると、ジークの声が頭上から降ってきた。
「てめぇは一人でそうやって逃げて喚いて!説明の一つも無しに、何を分かれってんだこのクソガキっ!」
「~~~~そんなのっ…!そんなの分かり切ってるじゃないか!!皆が得体が知れないって俺の事を言う!誰も…誰も俺のいう事なんか信じない…!」
思わず叫び返したアーシェだが、次の瞬間強い力で肩を掴まれた。
「俺は会った事も無い他人の話をしてるんじゃない。『俺達の』話しだ。お前は俺達に何一つ説明していない。何も言わずに、逃げただけだ」
真っ向から叩き付けられたジークの怒りに、アーシェは驚きと困惑で顔を歪めた。ジークの怒りの意味が分からない。ジークは何故これ程までに怒っているのだろう。そこには恐怖や嫌悪、嘲りと言った感情が見受けられない。
アーシェを魔物や化け物と罵った者たちは、必ずそう言った感情をぶつけてきた。最初は遠巻きに。その内直接的に。自分に向けられる負の感情には人一倍敏感なアーシェだったが、しかしジークの表情にはそう言った負の感情が一切なかった。
「お前が魔物じゃないなら逃げる必要はない。魔物じゃないならそう説明すればいい」
それはまさに、一滴のしずくだった。
「お前は俺達に何も言っていない。それじゃあ信じられないってやつが出てもおかしくない。それはお前が、俺達に『分からせるきっかけ』すら与えてないからだ」
水面に出来る波紋の様に、或いは砂に染み込む水の様に。ゆっくりとジークの言葉がアーシェの中に響き渡って行くのを、アーシェは他人事のように呆然と感じた。
「てめぇもガキじゃねぇんだ。口もあって賢い頭もある。自分が何なのかなんて、自分の言葉で尽くして説明しろ。その上で信じる信じないは俺達の勝手だが、お前はその可能性すら自分で潰している」
「…そんな…信じてくれる…はずがない…」
うわごとの様な呟きは、ジークの力強い言葉にかき消された。
「んなもんてめぇが勝手に決めるな。言っただろ。信じる信じないは、俺達の勝手だ。だがそれすらもしねぇで逃げるってのはどういう事だ。俺達はその程度の仲間だったのか?」
仲間と言われ、アーシェは大きく目を見開いた。言葉の意味が分からず、ぐるぐると頭の中を巡る。やっとその意味を理解した時には、うめき声の様な声しか出なかった。
「仲間…だとまだ、…思ってるのか?気持ち…悪くないの…か?」
風にかき消されそうなほどか細い声は、しかししっかりとジークの耳まで届けられた。
「普通仲間の事は、気持ち悪いとは思わねぇだろ。お前は向こう見ずで無鉄砲で後先考えない癇癪玉だが、俺はお前を認めている。何よりお前は仲間の為に命を張った。それが一番、大事な事だ」
「そんな…俺…いつも助けられてばっかりで…」
「レッドボアの時、助けてくれただろ?迷宮で初めて会ったときだって、お前が居なけりゃドラゴンゾンビとも巨人とも、全員無傷と言う訳には行かなかった。お前は逃げずに、俺達の為に命を張ってくれた。お前は俺達を助けた。それは曲げようも無い事実だ」
「そんな…そんなの…」
ぼやける視界を悟られない様に、アーシェは思わず俯いた。
ジークが言っている事は詭弁でしかない。あれは全て、成り行きだったとアーシェは思っている。しかしそれでも仲間と言ってくれるジークの言葉が嬉しくて、アーシェはくるりと背中を向けると、ごしごしと目の端を拭った。
心に染みたジークの言葉が、脳裏に響く怨嗟の声をかき消していく。
アーシェは俯いたまま無言でいると、ゆっくりと顔を上げて大森林の方角を見つめた。時刻は夕暮れ時が迫っており、暗闇の帳がゆっくりと東の空から迫っていた。それはアーシェにとって暖かくも辛い時間だ。
「…シリウスは流石だ。ほんの小さな疑惑の芽から、俺が魔物じゃないかって仮説を立てた。魔力が視えるのも、生まれる前の事を知っているのも、体の作りが違うのも…。全てそう考えればつじつまが付く」
ぽつり、とアーシェが語り出した。落ち着いた声は、しかしどこか決意を秘めた、静かな力強さがにじみ出ている。これから訪れる夜の時間を想起させるような、静かでそれでいて凪いでいる不思議な声だった。
「なぁジーク…。俺、何歳に見える?」
それは故郷を出て、アンネリーにすらその全てを語っては居ない、アーシェ自身の物語だった。




