鏡面世界
「…っ!!」
目も眩むほどの真っ白な光に包まれ、アーシェは反射的に目を瞑っていた。顔を腕で庇いながら、小さな体を更に縮こませる。何らかの衝撃に身構えたが、しかし一向にそんなものはやってはこなかった。
「――へ?ぅええええええ?!」
そして恐る恐る目を開けてみて、視界一杯に広がる景色に目を丸くした。
そこは闇が支配する世界だった。どこまでも続く真っ暗な空間。しかし見回すと、淡い小さな明かりがぽつぽつと見える。まるで暗い夜空に瞬く星々の様で、全体に幻想的な雰囲気を醸し出していた。よく目を凝らしてみると、一面に散らばっている小さな明かりがゆっくりと動いている。あまりに神秘的な世界の広がりに、アーシェは驚愕に我を忘れた。
「す、すごい…。まるで夜空に包まれているみたいだ…」
思わずつぶやいた言葉の通り、そこは夜の静寂が支配していた。全く未知の世界であるのにも関わらず、不思議と恐怖心をアーシェに与えない。むしろ懐かしさすら感じさせる世界の広がりに魅入った様に頭を巡らせていくと、そこにあるはずの物が無い事に気が付いた。
「…あ、あれ?―――う、浮いてる?!」
足元に地面が無かった。良く目を凝らして見ても無数の瞬きを内包した闇が延々と続くだけ。一瞬飲み込まれてしまうような恐怖に襲われ慌てると、不運にも暴れた手足が台座を蹴り上げてしまった。
「ああーーっ!!そ、そっちじゃないーーっ!!」
無様にバタバタともがくものの、反動がついた体はどんどん台座から遠ざかってしまう。あっという間に台座の光が小さな淡い点になった時、くんっと、体が別方向に引かれるのを感じた。
それは本当に微かな力だったが、どうやら飛ばされた軌道とは違う方向に流されている。それは周りにあった光の粒も同じで、みんな一様にその流れに乗っかり、どこかへと流されているようだった。
「うわぁ…。この空間全部に、光りの道が無数に走っているんだ…」
きょろきょろと辺りを見回してみれば、光りの道と思しき流れはそこかしこに存在していた。流れがゆっくりなもの、早いもの、交差するもの。小さな淡い光たちはその流れを思い思いに浮遊しながら、或いはとどまり、或いは別の流れへと押し出され、緩やかな軌跡を描いていた。
「これ、丸い石なんだ!」
丁度アーシェの目の前に隣の流れから押し出された光が、ゆっくりと近づいてきた。手に取ってみると、それは赤子の頭程度の丸い石だった。完全な球状をした石は、しかし鉱石にはあり得ない淡い光を宿している。あたかも生まれたての魔石のような、そんな神秘的な輝きを宿していた。
「…あ!あれ、大きい!」
前方に目を向けると、光の帯の先に一際明るい石が浮かんでいた。流れに乗って近づいてみれば、それは他の石よりも随分と大きく、青みを帯びている。明らかに他の石たちとは別格のそれは、アーシェでも一抱え程の大きさであり、しかもその姿かたちにアーシェは息を飲んだ。
それはもはや石とは呼べず、透明なガラス玉のようであった。
薄いガラスで覆われたその中には、驚いたことに島が浮かんでいた。球体の下半分には清廉な水が溢れており、その上に緑豊かな大地がある。その島の真ん中には小さな滝があり、水しぶきを上げて川へと流れ、最後には海へと還っていく。音も無く、ただ静かに繰り返されるその情景は、静謐さを湛えながらガラスの中に納まっていた。
(すごい…。これ、まるで一つの世界だ…)
箱庭のようなその景色に、アーシェは言葉も忘れて魅入った。
耳を澄ませば水しぶきの音が聞こえてきそうなほどのガラスの玉は、どの流れにも属さずただ静かにそこに浮いていた。手を伸ばせば触れられる距離にも関わらず、触れればその神秘的な世界を壊してしまいそうで、アーシェは呆然とその世界に魅入った。
そうしているうちに、徐々に体が流されていくのを感じた。ゆっくりと遠ざかるガラス玉。名残惜しげに見送ると、アーシェは視線を転じてぐるりと辺りを見回した。
「困った…完全に迷子だ…」
はたと現実に戻れば、思わず背中に嫌な汗が伝う。アーシェは最早、自分がどこにいるか分からなかった。
上下の間隔すら怪しい空間だ。何とかして台座にまで戻りたいところだが、既にそれがどこにあるのか見当もつかない。そもそも、最初に台座を蹴りあげてしまった時、自分はどっちの方向に飛ばされた?辺りを見回しても、小さく揺らめく丸い石が無数にゆらめいているだけで、何の助けにもなりそうになかった。
「…取りあえず、この流れがどこに向かっているのか確認しないと…」
泣きそうになる心を何とか鼓舞し、アーシェは自分が流されている方向に目をやった。正直に言えば、不安と恐怖に今にも叫びたい気持ちだ。しかし涙でにじむ視界をごしごしと擦ると、アーシェはキッと前を向いた。
光りの道を構成しているのは、無数の小さな丸い石。それが流れている為道の様に見えるだけで、実際はそこにわかりやすく道がある訳では無い。またよくよく見ていると、道から外れて浮いている石もあり、流れを見極めるのは至難の技だった。しかしどうやら、どの道もゆっくりと円を描いて軌道が作られているようだった。
「――と言う事は、どんどん内側の円に向かって飛び移って行けば、最終的には台座の近くまで行ける…?」
アーシェは一縷の望みを見た気がした。しかし問題は、その見極め方だ。光りの道も、完全な円を描いているわけでは無く、蛇行している物や楕円を描いている物もあるかも知れない。思わず浮かんだ嫌な考えに蹲りたくなる気持ちを叱咤し、アーシェは手始めに隣の流れに移動しようとした。
「…あれ?――!!これ、鏡だ…!!」
足をバタつかせて何とか隣の流れへともがいていると、前方に同じようにもがく自身の姿が見えた。暗い為によく分からなかったが、触ればひんやりとした感触を返してくる。延々と広がる暗闇の世界かと思っていたが、どうやら鏡のせいで必要以上に広く感じさせられているようだ。アーシェは思わず安堵の溜息をついた。少なくとも、無限の広がりを持っているかのように見えるこの空間にも、限りがあると言う事だ。
「でも一体どうしてこんな作りに…?」
恐らくあの台座は転送魔法が施された魔道具だろう。この不思議な空間に飛ばされた時、アーシェは全く未知の世界に放り込まれたのかと、瞬間恐怖した。しかし、こうやって辺りを鏡が覆っていると言う事は、あくまでもこの空間はナルバの迷宮の中にある、『部屋』の一つのはずだ。上下左右の感覚なしに浮いていると言うのは違和感が拭えないが、それでも鏡で区切られた空間と言う事は作為的な意図を感じる。何か明確な意図を持ってして作られたこの空間に、アーシェは首を捻るばかりだった。
「!!」
どこからか、アーシェを呼ぶ声が聞こえたような気がした。しかし耳を澄まし辺りを見回しても、残念ながら人影は見えない。気のせいかと思いつつも、アーシェは精一杯声を張り上げた。
「ここだよーーっ!ここにいるーーーーっ!!!」
だがしかし、それに応える声は無情にも無かった。アーシェの叫びは虚空に吸い込まれ、より一層、孤独を際立たせる。誰もいない空間に一人きりである事を嫌が応でも認識させられ、アーシェは今度こそ蹲り顔を埋めた。
「うぅ…もうやだ…。早くここから出たいよ…。皆の居るナルバに戻りたい…」
一度タガが外れた思いは一気にその統制を失い、ぽろぽろと大粒の涙になって目から溢れだした。止めどなく溢れる涙を止める事も出来ず、ただアーシェは泣きじゃくった。
「…え?」
どれだけ涙を流していたのだろう。こつん、と何かがアーシェの頭に触れた。顔を上げてみると小さな丸い石が、ふよふよとアーシェの近くに浮かんでいる。そして良く見まわしてみれば、アーシェの周りに無数の丸い石が集まってきて、明るさを増していた。
「もしかして…慰めてくれてるの…?」
石たちは何も語らない。しかしアーシェの為に石が集まってきてくれたかのような、そんな錯覚をアーシェに抱かせた。
「アーシェーーーー!!」
はっとアーシェは顔を上げた。今度こそ、聞き馴染んだ声が自分を呼ぶのが聞こえる。
「ジーーーーク!!ここだよーーっ!!」
見回しても誰も見えない。しかしアーシェは確かに、ジークの声を聴いた。アーシェは必死に暗闇に目を向けて、見知った顔が無いか目を凝らした。
「――見つけたぞっ!」
「…!ジークっ!!」
弾かれる様に声のした方を見上げると、見慣れたくすんだ金色が目に飛び込んできた。不安定ながらもしっかりとこちらに泳いでくるジークは、この闇が広がる世界の中で一際輝いて見える。アーシェは居てもたっても居られなくなり、鏡の壁をとんっと蹴り上げ、ジークに向かって飛んで行った。
「ジークーッ!」
「良かった…!無事か?!」
飛んできたアーシェを抱き留めると、ジークは安堵に胸を撫で下ろした。アーシェが迷宮に迷い込んでから、随分と時間が経つ。少なくとも無事な姿が確認できて、ジークは一先ずほっとした。
「うぅ…。助けに来てくれてありがとう…。もう、出られないかと、思った…!」
力強い手で抱き留められると、アーシェの涙腺はまた溢れ出した。だが泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、顔を上げられない。ジークはアーシェが落ち着くまで、ゆっくりと背中を撫でながら、今までの経緯を話した。
「お前らが迷宮に取り込まれた後、直ぐに冒険者と騎士団とで捜索隊が組まれたんだ。だけど新区画に居る可能性が高いって事で、俺達がここまで来たんだけど、途中でお前んとこのお師匠さんも合流してな。今は皆、新区画で俺達の帰りを待っている」
「…え?!師匠も?!」
驚きに思わず顔を上げるアーシェ。確かに一瞬、アンネリーの声が聞こえた気がしたが、あれは気のせいだと思っていた。そもそも魔道具屋であるアンネリーが、迷宮に潜れるはずが無い。アーシェは驚きと共にジークを見上げると、ジークが困った様に笑みを漏らした。
「いや、お前のお師匠さん、意外とやるぞ?」
どうやら弟子ですら、アンネリーの能力の高さを知らなかったようだ。
「それより落ち着いたか?このまま迷宮まで帰るぞ」
「…え?でもどうやって…?」
そんな簡単に帰れるのであれば、自分だって最初からそうしている。不思議に思っていると、ジークは自分の腰に巻きつけてあるロープを指差した。
「最初ここに来た時に、これはやべぇと思って直ぐに引き返したんだ。それでありったけの長いロープを用意してもらって、端っこを台座に括り付けて来たんだ」
ジークの背中越しに見てみれば、確かに長いロープがふよふよと浮いている。流れに流されている所もあるが、これを辿って行けば少なくとも台座にまでは戻れるようだ。
「それにしてもお前、どうしてこんな辺鄙なところに飛ばされてんだ?台座から結構離れてんぞ?」
訝しげに問いかけるジークに、アーシェはばつが悪そうに視線を外した。
「いや…びっくりして暴れたら、思わず台座蹴飛ばしちゃったみたいで…。そのまま光の道に取り込まれて、流されてきちゃったんだ…」
後半はどんどん尻すぼんでいき、小さな声になる。ジークは盛大にため息をつくと、しかしそれ以上の事は言わず、ぽんぽん、と頭を撫でた。
「――まぁ、取りあえず説教は後だ。ともかく無事見つかって良かった。お前の所だけ妙に明るいから比較的直ぐに見つけられたが、目印が無けりゃ厳しかったぞ、これは」
そう言えばあの石たちはどうなっただろう。振り返ってみれば、既に石たちは方々に散った後の様で、そこには変わらない闇が広がっているだけだった。
「さぁ、帰るぞ。しっかり捕まってろ」
「――うん!」
アーシェが抱き着いてきたことを確認すると、ジークはゆっくりとロープを手繰り寄せた。




