第15話 カレイの煮つけ
「ここがフィオナの手紙にあった森の恵み亭か」
日曜日にロルフは、フィオナから届いた手紙を頼りに、森の恵み亭の前に立っていた。
(俺はここで、フィオナにフラれるのか……)
ロルフは、腹の中にぐるぐると渦巻く感情を抑えながら、数週間前の出来事を思い出していた。
ロルフがアリスのどら焼きを食べたのは、とある放課後のことだった。
学園生徒会の仕事で遅くなった放課後。廊下を歩いているとたまたま走ってきた女子生徒と出合い頭にぶつかってしまったのだ。それがロルフとアリスの出会いだった。
アリスが持っていた紙袋から、ぶつかった拍子に甘いあんこの香りがして、ロルフの腹が鳴った。
ロルフは、気まずくなって頭を掻いたが、アリスは、にんまりと笑うだけだ。
『ぶつかってしまったお詫びに、良ければどうぞ』
アリスが紙袋から出したのは、焼きたてなのか少しだけ湯気のたつどら焼きだった。
腹もすいていたせいもあっただろう。
ロルフは、そのどら焼きが放つ魅力から逃れられなかった。
ありがとう、と小さく礼を言ってから、すぐにどら焼きをほおばった。
その瞬間、頭の中に靄がかかるような不思議な感覚が襲った。
持つ手にしっとりと吸い付くような柔らかいどら焼きの生地に、小豆の粒が残る粒あん。鼻を抜ける蜂蜜の香り。
その甘さを噛みしめ、飲み込むたびに、頭がぼんやりしたが不思議と食べる手を止めることはできなかった。
半分ほど食べるとアリスは、また笑った。
『君の名前を教えてほしい』
つい、そう口をついて出ていた。
『アリス・メイベルです。今日、同じクラスに転入してきたのに、覚えてなかったんですね』
アリスが少しだけ悲しそうに笑うと、罪悪感にかられた。
『すまない……でもこれで君のことは覚えた。アリス』
『じゃあ私たち、これで友達だね』
アリスの言葉に、ロルフはただ頷いた。
この女子生徒が一体何者なのかとか。
なぜどら焼きを食べたら頭がぼんやりするのかとか。
気になったのに、なぜか聞けなかった。
アリスがパタパタと走り去ると、入れ替わりにフィオナが廊下を歩いて来た。
フィオナは、ロルフの手に残ったどら焼きを見て、首を傾げた。
『ロルフ様? そのどら焼きは?』
アリスにもらったんだ、と答えてすぐに、しまったと思った。
案の定、フィオナの顔が曇っていた。
この国で誰かに食べ物をもらうのは、親愛の証だ。その相手が女子となると、婚約者なら不審に思って当然だった。
『女性からもらったのですか? ……断らなかったのですか?』
フィオナの声が震えていた。
すぐに謝るべきだと思ったし、いつもだったらそうしていた。心配させるようなことをしてすまなかったと。
だけど、その時口から出てきた言葉は、自分でも信じられないものだった。
『別に、それくらいいいだろう。細かいことを言うな』
フィオナは当然、驚いたように目を見開いた。
ロルフは、そんな彼女を残して、その場を立ち去ってしまった。
その時のことを思い出して、ロルフは森の恵み亭の前で大きくため息を吐いた。
違和感は、ずっとあった。
ロルフも含め、アリスの料理を食べたオスカーにユリウスまで、皆アリスを庇うようになった。
アリスは、聖女候補に選ばれ、平民ながらも特別に学園への入学を許可された人物だ。
それを妬んだ学生からの心無い言葉に、ロルフは無条件に彼女を守るように動いた。そんなことをしても自分にはなんの得もないのにだ。
最近、ロルフと同じようにユリウスもアリスに疑問を持つようになり、ユリウスはロルフより先にアリスの側を離れた。
婚約者のクラリッサに謝ったら、許してくれたんだ、と言って笑うユリウスのことがロルフは羨ましくてならなかった。
自分がフィオナを傷つけた事実は、どうやっても消せない。
今日はきっと、別れを告げるために呼ばれたに違いない。
そう思うと、なかなか店に入るための一歩を踏み出せなかった。
店の前の通りを行ったり来たりしていると、カランカランとドアベルの音が聞こえた。庭の奥、店の入り口が開いていた。
「フィオナ……」
そこに立っていたのは、エプロンをしたフィオナだった。
フィオナの隣には、彼女を支えるようにオスカーの婚約者であるルーヴェン嬢も寄り添っている。
「ロルフ様、来ていただきありがとうございます……どうぞこちらです」
フィオナの声は、今日もか細かった。
ロルフがアリスと過ごすようになってからだ。
以前から静かな人ではあったが、前はもっと笑顔があった。ロルフは、それだけで胸が痛くなった。
見つかってしまった以上、逃げることもできないので門扉を押して庭に入る。
石畳を進み、店内に入ると甘辛い醤油の香りが店の中に広がっていた。
「ロルフ様、座ってください」
テーブル席の椅子にロルフは黙って腰掛けた。
これから婚約破棄の話でもされるのだろうと目を瞑ったが、フィオナは向かいの席には座らず、キッチンへと入っていった。
あっけに取られているうちに、フィオナは白い皿に料理を乗せて運んできた。
「こ、これは、一体――」
困惑するロルフに、フィオナはエプロンの裾を掴んだ。
「カレイの煮つけです……ロルフ様、煮魚がお好きでしたよね?」
ロルフは息を呑んだ。
「……フィオナが作ってくれたのか?」
フィオナが頷いたのを見て、こみ上げるものがあった。
傷つけたのは自分なのに、フィオナが自分のために料理をしてくれたことが泣きたくなるほど嬉しかった。
「……いただきます」
白い皿には頭と尾を落としたカレイ。十字に切り込みが入れられ、甘じょっぱい香りの煮汁が絡まっていた。付け合わせのショウガも千切りになってカレイの上に乗っている。思わずごくりと唾を飲みこんだ
そっと箸でカレイの身に箸を入れる。
柔らかくしっとりとした身をほぐして、ショウガと一緒に口に運んだ。
その瞬間――ショウガの香りが頭を突き抜けた。
頭にかかっていた靄がどこかへ消し飛んだような爽快感があった。
二口目もすぐに食べる。
上品なカレイの身に、甘辛い醤油。
懐かしい味だった。
何度となく、フィオナがロルフのためにと作ってくれた味だ。
「その……」
――無性に米が欲しかった。
顔を上げるとフィオナが丁度キッチンから茶碗に乗った白米を運んできたところだった。
米を受け取ると、フィオナと目が合った。
こんなにしっかりとフィオナの目を見たのは、いつぶりだろう。
幼い時からフィオナとは婚約者だが、それを嫌だなんて思ったことは一度だってない。フィオナは、いつも誰かのことを考えて行動する優しい人だった。
幼い日、剣術のけいこで挫けた時。運動が苦手なフィオナも一緒になって走ってくれた。
誕生日のプレゼントにと、手を絆創膏だらけにして、刺繍を贈ってくれた。
兄に比べられて、父に叱られた時、『ロルフ様は、守るための剣ならだれにも負けません』と言って、励ましてくれたのもフィオナだ。
アリスなんかじゃない。
フィオナじゃないと、駄目なんだ。
「好きだ」
言葉にしてから、すぐに顔を背けた。
今いうべきことじゃないと、言ってから気がついた。
「私も……」
顔を上げると、フィオナはぽろぽろと涙をこぼしていた。
ロルフは思わず茶碗を置いて立ち上がった。
「私も……ロルフ様を」
言い終わる前にフィオナを抱きしめていた。
この煮つけを食べたら、聞かなくても分かっていた。
「……フィオナ、本当にすまなかった……どうかしていたみたいだ」
フィオナは、しばらく腕の中で泣き続けていた。




