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凍土に咲く花、君の声  作者: 雨咲はな


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7/10



 ……地下牢内はどんよりして薄暗く、空気がじめじめと湿っている。

 狭い道の片側は岩壁、片側には鉄格子がずらりと嵌められた牢が並ぶ。床と壁は王宮内のように磨かれてもいなければ艶々と輝いてもおらず、でこぼことした無骨な形状と、ざらりとした感触しか伝わらない、剥き出しの石があるだけだ。

 地下水が浸み出しているのか、その床と壁はじっとりと濡れている。たまに天井からも水滴が落ちて、ぴちゃんと微かな音を立てた。

 すえたような悪臭が鼻をつく。煌びやかな王宮の最下部にあるこの牢獄は、窓などというものはない。陽も射さず、明かりは壁に設置されたわずかな蝋燭の炎のみだ。気温は外とほぼ変わりなく、いや鬱然とした雰囲気に満ちているだけ、より強烈に、身体の芯から凍えるほどに寒かった。


 その劣悪な環境である牢内を、俺は口から白い息を吐き出しながら、ゆっくりと歩いた。


 手にランプを持っているとはいえ、それでも先が良く見通せないほど暗く、足場も悪い。床は凹凸だらけで、おまけに濡れているため滑りやすくなっている。ランプを持っていないほうの片手を壁に当てて、慎重に進まなければならなかった。

 触れている石の壁は、まるで氷と同じだ。防寒具をつけていても、足許から這い上がってくる冷気までは防ぎようがない。

 コツン、コツン、と足音が牢内に響く。ここに捕われている囚人たちが、鉄格子の向こうから鋭い視線を向けてくるのを、痛いほどに感じた。この場所では少しでも体力を消耗するとすぐに死に直結するため、誰もが毛布にくるまってじっとしているが、ぎらぎらとした眼は、食いつくように俺から離れない。

 俺は唇を引き結び、ひたすら前方に顔を向けて、足を動かすことに専念した。

 上流と呼ばれる家に生まれ、家内のゴタゴタはあったものの、王宮に入り、王女付きの近衛隊員となった俺は、今まで、こんな場所にも、ここにいるような連中にも縁がなかった。正直、かなりの精神力を必要とするものだなと実感している。


 結局、なんだかんだ言っても、俺はこの国の上澄み部分しか知らないのかもしれない。


 醜悪なもの、濁ったもの、腐ったもの。上澄みに隠された底にあるそれらを、見ないでいようと思えば見ずにいられるのだろう。目を逸らし、耳を塞ぎ、口を噤んでいれば、つらい思いも苦しい思いもせずに済む。俺にはおそらくそうすることが可能だし、生きていくにはそっちのほうが間違いなく楽だ。

 ──だけど。

 目指す場所に辿り着き、俺はぴたりと立ち止まった。カツン、という靴音が自分の牢の前で止まったことに気づいて、中にいた男が顔を上げる。

「……久しぶりだな、セオ」

 喉の奥から引っ張り出した俺の声はどう聞いても不自然に強張っていたが、セオは嬉しそうに口許を綻ばせ、「ロイドさん」と言った。



          ***



 寝台とも呼べないような粗末な台の上に、肩から毛布を掛けてセオは腰かけていた。

 一瞬浮かんだ微笑をすぐさま引っ込め、そこから立ち上がるセオの動きは覚束ない。

 相当痛めつけられたのだろう、顔にも身体にも、無残なまでの拷問の跡が刻まれていた。唇の端にはまだ血がこびりついたままで、片手はだらりと下げられて、ひきずって動かす片足はおそらく骨が折れている。

 いやしかし、ぎこちないのはそれだけが原因ではなかった。痣だらけで腫れたセオの顔は、ランプを向けても全体が見えない。

 顔の上半分──目の部分に、ぐるぐると無造作に布が巻かれているからだ。


 ……両目を潰されたか。


 セオの淡褐色の瞳を思い出し、暗澹とした気分になる。

 ロイドさん! と元気よく俺を呼んで、生き生きと輝かせていたあの明るい目は、もう永久に失われてしまった。

 一緒に酒を飲んで、闊達に未来を語っていた青年。甘っちょろくて、どこか子供っぽさが抜けきらないセオを、俺はしょっちゅうからかっていたものだっけ。ムキになって反論してきたり、照れくさそうにしたり、陽気に笑っていたあの顔と、現在自分の目の前にあるボロ布のような状態のこの顔とを重ねるのは、非常に困難だった。

 いつも苦笑を浮かべずにいられなかったけど、バカみたいにまっすぐこちらに向けられるセオの澄んだ目を、俺は決して嫌いじゃなかった。

 ふらふらとした足取りで牢屋内を進んできたセオは、鉄格子にぶつかって尻餅をついた。それからすぐに足を揃えて座り、背中を伸ばして姿勢を正す。


「──申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」

 深々と頭を下げられ、俺は何も言葉を返せなかった。


 氷のように冷たい石に手をついて、セオはそのまま頭をぺったりと下げた格好で動かない。

 きっと、こんな風に座るのもつらいだろう。手足を動かすだけで、大変な苦痛が生じているはずだ。なのに、セオはそれを表情には乗せようとはしなかった。

 こいつを支えているのは何なんだろうな。強い意志か、それとも今も心に宿る炎か。

 俺にはないもの。ずっとこいつをガキ扱いしてきた俺だけど、本当のところ、俺なんかよりもセオのほうが遙かに大人だったかもしれない。


「……バーカ」

 俺はやっとの思いで、唇を吊り上げてそう言った。

 声の端々が震えていないといい。

 せめて最後まで、俺はこいつにとっての「ちょっといい加減な先輩隊員」でいたいんだ。


「まったく振り回させやがって。しかしランス隊長をあれだけキリキリ舞いさせるなんて、おまえも大したもんだ。今度俺にも教えてくれよ」

 なるべく軽い口調に聞こえるように言うと、セオはようやく顔を上げた。

 間近で見ると、さらに状態が酷い。侍女の間でひそかな人気があったくらい整っていた容姿が、ほとんど原形を留めていないほどに傷つけられている。顔色も悪いし、いつ倒れても不思議じゃないほどなのに、きっと必死で意識を保っているのだろう。

「…………」

 俺も冷たい床の上に腰を下ろした。手にしていたランプは、そっと離れた位置に置く。

 セオのこの顔を明かりのもとで正視しながら、なんでもない声が出せるほど、俺の精神は図太くない。

 ──それに、たとえ燦々と陽の輝く外に出ても、セオは一人、暗闇の中にいる。


 だったら俺も付き合うよ。

 自己満足だけどな。なんの意味もないことだって、自分でも承知しているけど。

 今だけは、この暗さ冷たさを共有しよう。仲間として。友人として。


「王都の端の、小さな館にいたんだって?」

 鉄格子を挟んで向かい合い、俺はゆっくりとした口調で訊ねた。何度も何度も、殴られたり蹴られたりしながらしつこいくらい繰り返し言わされたことだろうに、嫌そうな様子も見せず、セオがこっくりと頷き、素直に口を開く。

「はい。俺の乳母だった人が、仕事を辞めてから住んでいたところです」

 セオもまた、良家の子息である。姿を消す前に、両親とは絶縁していったと聞いたが、そちらも何のお咎めなしでは済むまい。

「その乳母ってのは」

「もう亡くなっています。乳母を辞めて屋敷を出ていってからは、ずっとうちとは関わりなく暮らしていました。俺とは手紙でやり取りがあったんですけど、親はそのことを知りません」

 なるほど。それで探索の網に引っ掛からなかったのか。セオの家の親戚、友人にはくまなく調査の手が伸びたはずだが、さすがにとっくの昔に辞めた乳母までは範囲に入らなかったらしい。


 王都の端の、住人のいなくなった小さな館。

 そこで息を潜めるようにして、二人はひっそりと生活していたのか。


「そんなところで、よくあの王女が寝起きできたな」

「ずっとご辛抱されていたと思います。ご不便な思いもされていたんでしょうけど、じっと耐えておられました」

 嘘つけよ。あの王女のことだから、さんざん泣き言を言っておまえを困らせたんだろ。

 館の中の一室は、精一杯見栄えよくなるようにと整えられていたと聞いた。暖炉ではガンガン薪を燃やした形跡があり、寝具はわざわざ新調されたものであったらしいと。豪華で分厚いその寝具に比べ、別の一室にあった寝具は、使い古された粗末なものであったとも。

 王女が使っていたらしき部屋には、セオが苦労して揃えたのだろう衣服や本なども置かれていたという。資金だってそんなに潤沢であったはずがないのに、果物皿には彩り豊かなフルーツが盛られていたというのだから驚きだ。

 果たして王女には、自分が「逃亡中」であるという認識があったのかどうかさえ怪しい。


 バカだな。ほんとに、おまえってバカだ。

 そんな王女のために東奔西走して、必死に物資を揃え、慰めようとしていたんだろうな。

 ……未だに、そんな敬語まで使って。


「楽しかったか?」

 俺が訊ねると、セオは顔をこちらに向けたまま、首を傾げた。布に隠れて表情の大半は見えないが、両目が潰れていなければ、きょとんとした顔で、瞬きをしただろう。そういう少し幼い仕草でさえ、不思議と憎めないやつだった。

「王女と一緒の暮らしは、楽しかったか? ちょっとくらいは手を出したんだろ?」

 飲み屋で軽口を叩くかのように言えば、セオは青白い頬にさっと赤味を乗せて、慌てて自由に動くほうの手を振った。

「そ、そんな、畏れ多い……! 俺なんかが、王女殿下にそんなこと、許されるはずないじゃないですか」

「…………」

 純情すぎるくらいの性格は、今も変わっていないらしい。バカだな。じゃあ、おまえは今も、王女にとっての臣下であり続けているのか。

 こんな状況でも。


「──王女に、頼まれたんだろ?」


 俺が低い声でそう言うと、セオはぴたっと動きを止め、口も止めた。

「いえ、何度も言いましたが、俺から……」

 用心深い口ぶりで、そろそろと声を出す。見えやしないのに、顔を動かして、周囲を窺う素振りをした。

「安心しろ、俺以外に誰もいやしねえよ。牢番は小金を握らせた。少しの間、何も見えないし聞こえない、とさ。だからおまえも正直に言っていい。『自分が王女を言葉巧みに誘って王宮から連れ出した』ってのは、表向きの言葉だろ?」



 ずっと恋焦がれていた王女が、アズガルドの王子のものになってしまうのが我慢できなかった。だから王宮から強引に連れ出した。王女はずっと自分を諌めていたが、もう少しだけ、もう少しだけと思っているうちに時間が過ぎた。しかしやっぱり罪の重さに耐えきれなくなり、王女を王宮にお戻しすることを決めた。すべての責任は自分にある。罰は甘んじて受ける。王女は純粋な被害者なので、どうかお咎めのないように願いたい──



 それが、王宮に王女を連れて戻ってきたセオの説明だった。

「俺は、本当に」

「セオ、頼むよ」

 なおも言い張ろうとするセオに、俺は真剣な声で懇願した。目は見えなくとも、俺のそんな声を聞くのははじめてだったからか、セオが口を閉ざす。

「おまえの口から、事実が聞きたい。俺にとって、おまえはいい後輩で、仲間で、友人だった。……それにたぶん、弟のようにも思ってた。本当のことを知ったって、俺はおまえに何もしてやれない。もうおまえの主張は上にも通って、覆せる可能性はすでにカケラもない。だから──だからこそ、聞いておきたいんだよ、今のうちに」

「…………」

 セオはしばらく頑固に黙り込んでいた。

 鉄格子を挟んで、こちらに顔を向けたまま身じろぎしない。光を失ったセオの目には、一体何が見えているのだろうと思いながら、俺はひたすら待った。

 静寂の中、ぴちゃん、という水音だけが響く。


「……クリスティーナさまが」

 やがて、囁きほどの小さな声で、セオが言った。


「クリスティーナさまが、泣いておられたんです。近くにいるのは俺だけでした。泣いて、泣いて、アズガルドに行くくらいなら、今ここで死んでほうがマシだと」

 あの可憐な面立ちの王女が、はらはらと涙を零し、「死にたい」と何度も呟いた、と。

 そりゃ、セオは驚いただろうし、焦っただろう。もともとさして女性の扱いに慣れた男じゃない。いや、女というのがどういう生き物かもう少し知っていれば、きっとこんなことにはならなかった。

 心根の優しいセオは、最大限の努力で王女を宥めようとした。しかし王女は首を横に振るばかり。話に聞く「見るもおぞましい醜男」である王子の許に嫁ぐなんて、王女にとっては死よりもなお、イヤなことであったらしい。

 とうとう机の上のペーパーナイフまで取って、死ぬと言い張る王女に、セオはいよいよ切羽詰まった。

「なんでもしますから、どうかお考え直しください、とお願いしたら」


 ──では、わたくしを連れて逃げて、と涙をいっぱいに溜めた瞳で返された。


「クリスティーナさまはひどく思い詰めておられて、必死でした。今にもぽきんと折れそうな危うさがあって、とてもじゃないけど、俺にはその願いを跳ね除けることは出来ませんでした」

「……そうか」

 それだけじゃ、ないんだろうけどな。セオは優しい。そして実際、王女にほのかな恋心を抱いていた。近衛隊員として接するうちに芽生え、自らの裡に秘めていたその想いが、王女のほうから寄りかかられて、一気に弾けてしまっても不思議はない。

 ……王女は、どうだったんだろう。セオに対して、少しは個人的な思慕があったんだろうか。見た目はいいし、気に入っていた、というのはあるだろうけど。

 いや、多少は特別な気持ちがあったと思いたい。セオの性質につけ込んで利用しただけなんて、そこまでの悪辣さがあの王女にあったとは思えない。

 そう思わなければ、あまりにもセオが哀れだ。

「──それで、王宮から出た?」

「はい。周囲にさっさと結婚を決められて、混乱なさっておいでなんだろう、と考えたんです。ご自分の頭越しに話が進められてしまったんだから、すぐに受け入れられないのも無理はないです。一方的過ぎて、あまりにもお可哀想ですよ。なのに、王宮の空気はすっかりご結婚一色で、その準備で慌ただしくなっていて……だからちょっとの間だけでも王宮から離れれば、少しはクリスティーナさまも落ち着いて、冷静になられるだろうと思ったんです。きっとすぐに戻ると仰られるだろうと。もちろん、罰は受けるつもりでした」

 誰かに頼ったり相談したりすれば、後々、その人間も罪に問われることになる。だからセオは誰にも何も言わず、一人で行動した。ほんの少しの間だけ、という気持ちもあったに違いない。


 ところが、セオの予想に反して、王女は頑として王宮に戻ることには肯わなかった。


 セオはさぞかし、困惑しただろう。それでも一生懸命環境を整えて、王女が不便な思いをしないようにと心を砕いていたのだ。

「ずっと、説得していました。このまま逃げおおせることが出来るなんて、俺は最初から針の先ほども思っちゃいません。だけど、クリスティーナさまのお心が決まらないうちに王宮に戻っても、また同じことになるだけです。だから何度も、ご自分で戻られる気になるまで、お話ししました」

 もう少しだけ、もう少しだけ、と引き伸ばしていたのは王女のほう。セオは臣下としての礼と距離を保ちながら、辛抱強く説得を続けていた。

「……ようやく戻ると言ってくださった時には、ほっとしました」

 王女の翻意の理由は何だったのか。館から一歩も外に出られない窮屈な日々に嫌気が差したか。あるいは、何も変化のない王宮に、どうやってもこの結婚話はなくならない、と観念したのか。


 いや、やっぱり、セオの誠意が通じたのだと、思いたい。


 そしてセオは、王女を守りつつ無事王宮にまで送り届け、捕まった。

 兵に拘束されても、逃げる素振りはまったく見せなかったという。

「──おまえって、本当にバカだな」

 それしか言葉が出てこない。セオは「そうですね」と穏やかに同意した。

 こいつはもう、すべての覚悟を決めている。

「王女殿下は、健やかにお過ごしでいらっしゃいますか」

「陛下に泣きながら謝罪して、その後はぐっすりお眠りになったそうだ」

「そうですか。……よかった」

 安心したようにセオが笑う。俺はそれを見て、強く拳を握った。

 ……バカが。



 王女の口からは、結局、セオの名前は一言も出なかった。

 ただ、ただ、泣くばかり。

 王と王妃に対して、幼子のようにごめんなさいと謝るだけ。自分の身勝手さのせいでどれだけの人間が迷惑を蒙ったか、それについての言及もなかった。本当に、思考が向きもしないらしい。

 あの王女の頭の中では、セオもネリーもランス隊長も、単なる有象無象の類にしか捉えられていないんじゃないだろうかと思うと、背筋が寒くなるほどだった。

 王女にとっての世界は、「自分」と、「自分を保護し世話してくれるもの」の存在のみで成り立っているのかもしれない。

 だったらそれは単なる愛玩動物と、一体何の違いがあるだろう。人形のほうが、動いたり喋ったりしないだけ、ずっとマシじゃないか。

 セオは、恋する相手を間違えた。



「申し訳ありません。今回のことで、隊長や他のみんなも咎を負うことになるんじゃないかと、それだけが心配です」

「大丈夫、上手くやるよ。王太子も口添えしてくださるらしいし」

 なにしろ、怒り狂っているからな。今度のことでは王と王妃にも厳しく意見したというし、王女にもそろそろ自覚してもらうと息巻いていた。

 ランス隊長は降格処分くらいはあるかもしれないが、首が飛ぶことまではないだろう。下手に人事面で大きな動きがあると、アズガルドに疑問を抱かれかねない、という側面もある。

 王女が帰ってきた以上は、全力で「何事もなかった」状態を維持しなければならないのだ。口を拭って、知らん顔をして、王女の不在なんてただの一日もありませんでした、というように。

「…………」

 俺の目線が下を向く。

 気配で何かを察したのか、セオが不安そうに「ロイドさん?」と首を傾げた。

「──すまない、セオ。俺はおまえを、助けてやれない」

 ぼそりと呟くように、俺は言った。


 この牢から出して逃がすことも。王の前に出て助命を乞うことも。処刑の場に乱入して救い出してやることも。

 出来ない。

 俺には、何も出来ない。


「とんでもありません。これまでずっと面倒を見ていただいたのに、こうして恩を仇で返す形になったこと、本当に申し訳ないと思っています。俺にとってロイドさんは、いつでも頼りになる、格好いい、憧れの先輩でした。今でもそうです」

 そう言って、セオがふわりと微笑む。

「……許していただけるなら、こんな兄がいたらどんなによかっただろう、と思っていました」

「──……」

 指先が小刻みに震えた。寒さのせいなんかじゃない。歯を喰いしばる。

 目を閉じたら、熱い滴が頬を伝って石の床に落ちた。

 セオにはどうか気づかれないようにと、それだけを願った。

「……バーカ」

 なんとかそれだけ言うと、セオは黙って、また深々と頭を下げた。

 それきり、二人とも、何も言わなかった。お互いに、別れの言葉は出さなかった。

 いくつもの涙の粒が、音もなく石に吸い込まれる。




 翌日、ひとつの命が消えた。






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