エピローグ
エディは半月ほどの期間を養生して過ごしてから、施設を出ることになった。
元気いっぱいに外を走り回れる、という状態になったわけではないが、医者が言うには、普通に日常生活を送る分にはもう差し支えない、とのことだ。今後は様子を見ながら、少しずつ体力をつけていけばいいだろう。
適切な治療と薬のおかげで、かなり顔色もよくなったらしい。俺から見ると、まだまだ痩せているし少々心許ない気がするのだが、ティナによると、「見違えるくらい元気になった」のだという。いかにそれまで繊弱だったかが窺えて、そりゃ心配性の姉が出来上がるわけだよなと納得した。
それを機に、俺たちはその地から離れ、別の場所に移住することにした。
移った先は、キルヒリアとアズガルドの国境近くにある街だ。
もちろん王都ほど大きくないが、人の流れは多い。隣近所の住人同士が密接な関係にあるような小さな村よりは、こういうところのほうがかえって人目につかなくていい。あちらとこちらを行き来する旅人や商売人が多いし、情報もよく入る。
ティナとエディの姉弟はその街に小さな家を借りて、二人で暮らすことになった。ティナは、背中まであった豊かな髪を襟足近くまでばっさりと切ってしまったので、昔の知り合いに会っても、すぐには気づかれないかもしれない。俺はかなり惜しい気がしたが、本人は「スッキリした」とさばさばした顔をしていた。
俺もその近くに自分の家を借りたが、はっきり言って、そこはほとんど寝るためだけにしか使っていない。食事はいつもティナたちと三人でとっているし、昼は仕事で空にしているからだ。
そう、仕事。実を言えば、俺はその点、結構迷っていたのである。まあまあ裕福な家で育って、王宮で近衛隊をしていた俺に、どんな仕事が出来るのかと。職にあぶれて、ティナの負担を増やすようなことになってはシャレにならない。
しかしまあ、案じていたほど難しいことではなかった。人の入れ替わりが多く揉め事も多い土地柄なのでその仲裁をしたり、高価な荷を抱えたアズガルドの商人の護衛をしたり、場合によってはタリの木の伐採作業から運搬までを手伝ったりしているうちに、すっかり「なんでも屋」として定着してしまったのだ。なまじ器用なので、いろんなところで便利に使われている。
それから、今までろくに教育も受けてこなかったらしいエディにあれこれと教えてやっていたら、いつの間にかそこに他の子供たちまで加わり、「ロイ先生」などと呼ばれるようにもなった。非常にガラじゃない。そいつらから金は取っていないが、なんだかんだと食べ物をくれたりするので、ありがたく受け取ることにしている。ティナの料理の腕は抜群だ。
王宮の外の暮らしは、それなりに大変なことも厳しいこともあるが、楽しいこともたくさんあった。
***
「手紙?」
と訊ねるエディに頷いて、俺は指で摘んだ白い紙をぴらぴらと振った。
「なんとか落ち着いたことだし、ランス隊長に連絡くらいはしておこうと思ってさ。そうしたら律儀に返事が来た」
俺も一応用心して書いて送ったつもりだが、隊長のほうはさらに慎重だった。差出人が偽名になってるから、誰からの手紙かと思ったよ。
「ランスさん、なんて?」
「……ま、元気そうで安心した、こちらのことは心配はいらない、っていうようなことだな」
そう言いながら、俺は前方の景色へと目を向けた。
小高い丘になっているこの場所からは、街の様子がよく見渡せる。ようやく雪も少なくなって、陽の光も射してくるようになってきたので、外の空気を吸わせがてらエディを連れて来たのだが、思った以上に気持ちがよかった。本人も目を細めて、嬉しそうだ。
「ティナも誘えばよかったな」
「行き先は紙に書いて置いてきたから、仕事が終わったら来るんじゃないかな」
頭上には、この国では滅多に見られない青空が広がっている。下を見ればまだ白い雪が建物の上に積もっているが、じきにそれも溶けて消えて、下に隠れていた道や屋根の姿を晒すことになるだろう。肌を刺すようだった冷たい風は、今はもう撫でるくらいの穏やかなものに変わっている。
もうすぐ、短い春がやって来る。
俺は背中を伸ばし、蒼穹を仰いだ。
春が来たら、国民に正式な発表がなされて、クリスティーナ王女は隣国アズガルドの第三王子の許へ嫁いでいく。
──果たしてあの国で、王女は変わることがあるのだろうか。
何も変わらなければ、あの王女は勝手に一人で不幸になっていくしかない。無知であることの罪は、誰が何をしなくても、そうやって本人の許へ撥ね返る。不幸の沼に嵌っても、ただ助けを待っているだけでは、どんどん沈んでいくだけだ。
聡明で喰えない第三王子は、いちいち王女に振り回されることはないだろう。粗略な扱いはしなくとも、殻に閉じこもる王女にわざわざ手を差し出すような真似もしないはずだ。そこから出るには中から割るしかない、ということに本人が気づくまで。
このキルヒリアとはまったく違った環境で、ただ甘やかしてくれる庇護者もいないその場所で、これまであまりにも無自覚だった自分のことを、少しは顧みるようになるといいのだが。
今は自分自身にしか向けられていない憐れみを、国や民にも向けるようになるといい。
王女の知らないところで失われた、ひとつの命についても。
「……ごめんね、ロイ先生」
ふいに、エディがぽつりと言った。
ん? とそちらに顔を向けると、姉によく似た生真面目な眼差しはまっすぐ俺に注がれている。
「お姉ちゃんと僕を救うには、近衛として王宮に留まっていなきゃならなかったんだよね? そのために、いろいろ我慢しなきゃいけないことがあったんでしょう? 本当は、後輩の人だって助けたかったんじゃ」
最後まで言う前に、エディの小さな頭を掌で押さえつけて黙らせた。
まったく、この子供は王太子と性格はまるで違うのに、妙に勘が良くて賢いところが似ているから困る。ティナから聞いた内容と、俺の言葉の端々から、口にはしないことまで読み取って、頭の中で組み立ててしまうのだから。
「ティナには余計なことを言うなよ」
低い声で釘を刺すと、エディは黙ったままこっくりと頷いた。
「──別に、王宮でなくたって、理不尽なことはこの世界にいくらでも転がってる。悔いはあるし、苦い思いも残っているが、それにばかり捉われてるわけにもいかないだろ。前を向いて、今度こそ、何も失わずに済むように、理不尽と戦えるように、力をつけていかないとな」
守りたいものを、守れるように。
そう呟くと、エディはもう一度頷いた。
掌の下から上目遣いで俺の顔を覗き込み、今度は少し悪戯っぽい目つきをする。
「あのさ、ロイ先生」
「ん?」
「お姉ちゃんって、結構美人なのに、今までちっとも色恋には縁がなかったんだよね。その理由、わかる?」
「はあ?」
俺は眉を寄せてエディの顔を見返した。なんだ突然。
「だから、おまえのことしか頭になかったからだろ」
「それもあるけど」
「あのお喋りのせいで、男からも敬遠されるだろうし」
「それもあるけど」
エディは、ふー、と大人びた顔でため息を落とした。
「それ以前に、お姉ちゃんはすごくすごくものすごーく、そのテのことに鈍感だからだよ」
「…………」
俺は口を噤んだ。
「だからロイ先生が近衛隊を辞めて僕たちのそばにいてくれることも、護衛の延長だと思ってるみたいでさ」
「ウソだろ」
「家も王都での暮らしも捨てて、こんな辺鄙な場所にまでついて来てくれるなんて、ほんとに親切で責任感が強いのね、ってよく言ってるよ」
「ウソだろ」
「こうなったら、お返しにあたしがたくさん働いてロイドを養ってあげなきゃ、とか決心してた」
「絶対いやだ」
断固とした口調で言うと、エディが「だよねえ」としみじみ同意した。
「……え、いやいや待て、てことは」
額に手を当てて唸る。
「もしかして、まったくわかってない……とか?」
おそるおそるの確認に、エディは無情にもこっくりと頷いた。三度目の肯定に、かなり動揺した。
俺はてっきり、そんな基本的なところはとっくに伝わっているものだと……そりゃ、特に言葉にしたことはないけど。
だけど、ただの親切心や責任感で、近衛を辞めて一緒にいることを選ばないだろ、普通?
なんのために、俺が苦労してこの街で生活基盤を確立させようと努力してると思ってるんだ?
エディが首を横に振る。その目は、かなり同情に満ちていた。
「僕はロイ先生が兄さんになるのにまったく異存はないけど、たぶん、その道のりは果てしなく遠く厳しいと思う」
「ウソだろ……」
茫然と立ち尽くす。
そこへ、
「あっ、いたいた!」
と明るい声が後ろから聞こえた。
「こんなところにいたのね、探しちゃった! 今日はだいぶあったかいとはいえ、夕方になるとまだ寒いし、そろそろ家に戻ったらどう? 今夜の夕飯はね、あたしが働いてるお店で野菜をもらったからそれをミルクで煮込もうと思うのよね。くたくたになるまで柔らかくして煮るのよ、エディもロイドも好きでしょ? それにしてもここって眺めがいいのねえ。そういえばロイドと王宮のバルコニーから王都を眺めたけど、ここもちっとも悪くないわよね。そうだ、雪が完全に溶けたらお弁当持ってみんなで食べるっていうのはどう? きっと気持ちがいいと思わない?」
相変わらず切れ目というものがない怒涛のお喋りに、口を挟むスキがない。これだよ。このせいで、なかなか口説くような雰囲気に持っていけない、っていうのもあるんだよ。
「…………」
俺は悄然と肩を落とし、腰に提げていた袋を放り投げるようにしてティナに渡した。
それを受け取り、ティナがきょとんと瞬きをする。
「なに、これ?」
「ランス隊長が手紙と一緒に送ってきた。ティナに渡して欲しい、とさ」
その白い袋を開けて、ティナが驚いたように目を瞠った。どっしりとした重みから多少は想像がつくが、入っているのはかなりの金額だろう。
「こ……こんなに、どうして?」
「どうしても何も、そういう話だっただろ。王女の代役の報酬だ。ティナはちゃんと仕事をしたんだから、それを受け取る権利がある」
「お、多すぎよ! それに、エディを療養施設に入れた時のお金だって出してもらったんだし、あれだけで充分」
「いいから、もらっとけ。迷惑料だ。それにその金のほとんどはランス隊長からじゃなく、王太子からだそうだし」
フレデリック王太子は、その後のティナのことを心から案じているらしい。俺に対しては、「あいつなら放っておいてもしぶとく生き延びるだろう」の一言だけだったそうだが。
「でも……」
「それと、ネリーからも。パンを送ることは出来ないから、これで好きなものを買いなさい、ってつんけんしながら隊長に突き出してきたんだとさ」
「……ネリーさん、パンのこと、覚えていてくれたんだ」
袋に目を落としながら、ティナがしんみりとした口調で呟いた。
「あの件に関わった近衛隊員と侍女たちは、おまえがまた村に戻ったもんだと思ってるからな。今でも時々、『あのお喋り娘は元気でやってるんだろうか』なんて話が出るそうだ」
ネリーは王女をただ大事に囲うばかりでなく、厳しい言葉で諌めるようなことを言うようになったらしいし、少しは変わったところもあるのだろう。
ティナはきっと王宮に、何かの種を植えた。
いつかそれが芽吹く時が来るといい。
「ううーん、でもやっぱりこんなに……かといって返すわけにもいかないし、どうしようか。これを有効活用できる方法を一緒に考えてくれる? えっと、でもまずは夕飯よね。そうそう、ここに来る時にね……」
迷ったり悩んだり頭を切り替えたり何かを思い出したり、ティナは忙しく口を動かし続けている。
エディがちらっと俺を見上げ、こっそり小声で言った。
「先は長そうだね、ロイ先生」
しょうがないので、俺も笑って言い返した。
「まあ、ゆっくりやるさ」
俺は酔狂にも、この賑やかなお喋りを聞くのがなにより好きときているからな。
「じゃ、帰ろうぜ。腹が減った」
「うん」
笑顔を浮かべて、ティナがエディの手を引く。その彼女の背中に掌を添えて、三人並んで歩き出した。
ゆるりと優しい風が吹いている。
すぐ隣で歌のように流れる声が、心地いい。
足許では、真っ白な雪の間から、愛らしく強い冬の花が、誇るように花弁を開いていた。
この花が、風に飛ばされないように、誰かに踏み潰されないように。
──守りたいものを守って、生きていくんだ。
完結しました。ありがとうございました!




