9
部屋の前にいた見張りの男は、そこから出てきた俺を見て、わずかに顔を顰めた。
──いや、正確には、俺が肩に担いでいる娘を見て、と言うべきか。
細くしなやかな身体はすでにただの物体のようになって、ぴくりとも動かない。だらりと下げられた腕は、俺の背中で棒切れのごとくゆらゆらと揺れているだけである。ダークブロンドの髪に覆われて顔までは見えないが、垂れた髪の間からは血の気の抜けきった頬がちらちらと覗いて、より不気味に思えたことだろう。
魚の腹のような白い腕を伝って、赤い液体が流れ落ちた。輝く床に、ぽつりと丸い染みを作る。男がますます眉根を寄せて後ずさったのを見て、俺は皮肉な笑みを口許に刻んだ。
「悪いな、あんたが掃除しておいてくれよ」
「……ああ」
あからさまにイヤそうな顔をされたが、拒否するつもりはないらしい。今、俺がしている「役目」に比べたら、それは遙かに楽な仕事だと、安心しているくらいかもしれなかった。
「──胸が悪くなりそうな臭いだな」
本当は、「胸が悪くなる行為だな」とでも言いたいのだろうが、男は本当に気分の悪そうな顔をした。どうやら、こういうことにはあまり慣れていないようだ。この王宮において陰謀や謀略で人の命が失われるのは珍しいことではないが、それに加担する人間のうち、直接的に自分の手を血に染める者はほとんどいない。
「おかげで制服が台無しだ」
近衛隊員の制服は、王都の女の子たちからは憧れの目で見られたりするものなんだがな。担いでいる身体から滲みだす液体は、ぐっしょりと広がって俺の制服を真っ赤に染めつつある。洗っても落ちないだろうし、もう捨てるしかないだろう。胸が悪くなりそうだと男は言うが、ずっと間近でこの生臭さに接している俺のほうが、よほど辟易している。
「あんた、この娘に信用されてたんだろう?」
「どうだかな」
「ずっと、ロイドを呼んで、って言ってたんだぜ。どうなっているのかちゃんと話が聞きたい、ロイドならきっと話してくれる、ってさ」
「…………」
「よくもこんな残酷な真似が出来るもんだ」
男は嫌悪の表情を浮かべ、軽蔑するように俺を見た。場所が違えば、唾でも吐き捨てたいところだっただろう。
「──王宮ってのはそういう場所だろう、違うか? 理不尽が許せないってんなら、こんなところにはいないで、さっさと外に出るんだな」
無表情のまま冷たい声音で俺が返すと、男は口を引き結んで目を逸らした。
そちらに背を向け、まだ温もりのある身体を担ぎながら、俺は歩き出した。
***
王宮の地下へと向かう通路の入口に、別の男が立っていた。
今度のはさっきほど厳つくはなく、強面でもない。どちらかというと、ひょろりとした体型の、柔和な雰囲気を伴う優男だった。
「お待ちしていました。こちらへどうぞ」
この場この状況にはまったくそぐわない、やんわりとした微笑を浮かべ、手で行く先を指し示す。もちろん事情は聞いて知っているのだろうが、制服を赤く染めた俺にも、俺が担いでいる娘にも、まったく動じるような素振りは見せなかった。
堂々とした落ち着きっぷりといい、目も口も笑みを絶やさないような胡散臭さといい、さっきの見張り番の男の小物さが強調されて気の毒になってくるくらいだ。怪しい客引きに引っかかっているみたいで、逆にこちらのほうが居心地悪い。
男は細く開いた扉から、するりとその中へ身を滑らせるようにして入っていく。こんなところに扉なんてあったかなと思いながら、俺もそのあとに続いた。
先日、セオに会いに地下牢へと行ったが、優男が案内しているのは、そちらとは方角が違うようだった。そもそも地下へ降りるというのが前回はじめてだったわけだから、この道がどこにどう通じているか、俺にはまるで判らない。
「こちらは、いざという時の抜け道なんですよ」
人が一人歩けるくらいの狭い幅の道を通りながら、優男がにこやかに説明した。俺がきょろきょろと周囲を見回しているので、気を利かせてくれたらしい。
薄暗くひんやりとした、細長い通路。男は囁くように話しているのに、その小さな声すら石造りの壁に撥ね返ってぐわんぐわんと反響した。下の床は地下牢のような凹凸はなく、暗くてもさほど進むのに難儀しないとはいえ、妙に曲がっていたり坂があったりして、進めば進むほど方向感覚が狂ってくる。正直、自分が上っているのか下っているのかも、よく判らないくらいだった。
「抜け道というと」
道案内をしている男があまりにも正体不明なので、だんだん、あの世へと通じる道でも進んでいるような気分になってくる。肩に担いだ身体を掴む手に、ぐっと力を込めた。
──大丈夫、ちゃんと温かい。
「敵襲があった時や、王宮の上部分が火事になって逃げ場をなくした時などに使用するための道、ということです。王族しか知らない、秘密の通路ですね」
「なるほどね……」
王族しか知らない、ということは、その「いざという時」に助かるのは王族のみ、ということなのだろう。侍女や兵や近衛隊の連中が「上」で次々と死んでいく間、王族はここを通って外へと逃げていくというわけだ。
「国というのは、そういうものです。地と、民と、権力。その三つが揃わなければ、国は国として成り立たない。いろいろ納得できないこともあるでしょうが、どれかひとつでも欠けたら上手くは廻りません」
内心で思ったことを何も口に出していないのに、優男は柔らかい口調で窘めるように言った。なんだかものすごい年上に諌められているようで面白くない。俺とそう変わりないように見えるのに、こいつ一体何歳なんだろう。
「……王女もどうやら、この道を使って外に出られたようですね」
独り言のように出されたその台詞に、俺はますます不愉快になった。どうしても、ここを通った時のセオと王女のことを想像してしまう。
緊張しただろうか。胸を上擦らせていただろうか。王女はともかく、セオのほうは、ここを歩いた時点で自分の未来を予想できていたはずだ。それでも何も言わず、王女の手を取り、大丈夫ですかと案じていただろう顔と声が、容易に思い浮かぶ。
まるで本物の恋人同士の逃避行のように。
……やっぱり、ダメだ。
ほんの一瞬でも幸福な時間があったなら、それでよかっただろうなんて。
とてもじゃないけど、俺には思えない。
「ですからね、またこんなことが起きないように、この道はこれからもっと警戒が厳重になるらしいですよ。今回はぎりぎり間に合ってよかったです。あまり面倒なことにはしたくありませんからねえ」
優男は俺にはお構いなしでぺらぺらと喋っている。よく話すやつだなと呆れるが、これでもきっとかなり有能なのだろう。そうでなければ、俺がこんなにもスムーズにこの道を通れるはずがない。
「……それにしても、酷い臭いですね」
歩きながら口を動かし続けていた男が、ちらっとこちらを振り返って眉を寄せる。俺はちょっと笑ってしまった。
「血の臭気は嫌いか?」
「バカ言わないで下さい」
ふん、と優男が鼻で笑った。
「血の臭いとそうでない臭いの違いも判らない能無しと一緒にされては困ります」
すっぱり言われて、俺も苦笑する。やっぱり判る人間には判るんだな。いや、普通はあんまり「血の臭い」なんてものには詳しくはないものだと思うけど。
「タリの実だよ」
俺がそう言うと、男は一瞬きょとんとしてから、納得したように頷いた。
「ああ──言われてみれば、そうですね。昔、人に投げて遊んだりしたものです」
「怒られただろ」
「それはもう、こっぴどく」
このキルヒリアの国に多く自生して、工芸品を作るための貴重な材料となるタリの木は、指の先くらいの大きさの赤い実をつける。丸くて、艶々していて、いかにも美味しそうなその実は、誤って口に入れようものなら誰もがすぐさま吐き出すほどに苦くて不味い。食べても強い毒性はないが、大概の人間は腹を壊す。
その実の赤い汁は、衣服などに付着すると、洗っても洗っても取れない。染料にすることは出来ないかと考えられたこともあったが、何かが腐ったような悪臭がするため、断念せざるを得なかった。
あまりにも利用価値がなくて、今ではもう、子供のイタズラくらいにしか使われない──それが、タリの実なのである。
「じゃあ、その制服は二度と使えませんね」
「そうだな。……いいんだ、もう捨てるものだから」
タリの赤い汁がべったりとついた制服を見て男が残念そうに言うので、俺は少し笑ってそう返した。
男はわずかに微笑んだだけで、何も言わなかった。
道の先に、細く明るい光が見えてきた。ここを抜けると、もうそこは王宮の外なのだという。
赤い汁で染まり、気絶した娘を担いでいるところを人に見られたら、なんだかんだと厄介なことになりそうだ。とりあえずどこかで着替えを調達して──いや、その前に、ティナを起こすほうが先か。当身をする時なるべく手加減したとはいえ、しばらくの間は腹が痛むかもしれない。
目が覚めたら、なんて言うかな。
怒るのはいい。責めるのもいい。どんな言葉を投げつけてきてもいい。
……だけどもう、泣かないでくれるといいな。
「それでは、私はここで」
出口の手前で優男が立ち止まって、礼儀正しく挨拶をした。
俺も止まり、改めてその顔を正面から見てみたが、やっぱり知らない顔だ。王宮内では、一度も会ったことがない。普段はどんな仕事をしているのやら。
「……あるじから、伝言です。『この借りは、いつか自分が王になった時に返す』と」
不謹慎だとは思ったが、つい噴き出してしまった。
「気の長い話だな」
少なくとも、あと十年か二十年はかかるだろうに。
「そんなに先の話ではありませんよ。きっとね」
澄ました顔で男が言う。こんな胡散臭そうな人間を手駒にして、しかも心酔させているとしたら、本当に末恐ろしい十二歳だ。
いつか──新しい王が起った時。
その王は、今度こそ、国と民のことを第一に考えた治世を敷いてくれるだろうか。
王宮の澱んだ空気を一掃し、あの容赦のなさで改革を断行し、くだらない慣習も腐った体質も吹っ飛ばして、この冬の国に明るい光をもたらしてくれるだろうか。
少なくとも、目の前にいる男はそう信じているのだろう。だからこそ、こんな風に迷いない目をして、まっすぐ前を向いている。俺も道が違えばこんな目をしていられただろうかと、ほんの少し羨ましい気もした。
軽く頭を振って、それを払い落とす。
──もう、決めたことだ。
「では、俺からも伝言を。……その時を楽しみに待っています、と」
この国のどこかで。
俺のその言葉に、男は頷いた。
***
キルヒリアに唯一ある療養施設は、王都から離れた静かな場所に建っている。
医者が家に来て患者を診るのではなく、建物の中に医者が常駐して複数の患者を診る、という施設だ。患者はそこで一定期間、治療を受けて過ごすことが出来る。
大きな国では当たり前のようにあるもので、しかも身分や貧富の差に関わらず世話をしてくれるらしいが、キルヒリアではここにしかなくて、かなり金もかかる。
大国のそれが万民に対して機能しているのは、国に余裕があって、財政的な補助がなされているからだ。場合によっては、国家がそのまま施設を管理運営している場合もある。
しかしキルヒリアのような国では、そんな方面に廻す財源がない。よって、貧しい人間は医者どころか薬すらも満足に買えない、という状況になる。ただ一つある療養施設の費用は、上流階級の人間たちの寄付によって賄われ、当然その利用も限られた者だけの特権になっているのが実情だった。
──その療養施設の中のベッドのうちの一つに、子供はいた。
「エディ!」
ティナは大きな声でその名を呼び、子供の許へと駆け寄った。
「お姉ちゃん」
暖かい部屋の中、ベッドに上体だけを起こした子供が嬉しそうに微笑む。
ティナと同じ色の髪をして、確かに王太子と面立ちが似ていた。とはいえ、こちらのほうがずっと素直そうで優しそうだ。
「エディ、エディ……よかった、無事で」
弟を両手で抱きしめ、ティナが涙声で何度も名前を繰り返した。この地に向かう道中で、一応の説明はしたが、実際にその目で見るまでは、不安は解消されなかったのだろう。
「お、お姉ちゃん……」
人目も憚らずぎゅうぎゅうと抱きつき、頬ずりして泣く姉に、エディは赤くなりながら困惑しているようだ。
「ちょっと落ち着いて……僕はなんともないよ。むしろ、ダウニールにいた時よりも、ずっと元気なくらいだよ。ランスさんが僕をここに入れてくれたんだ」
ダウニールのシモンズ夫妻の家に預けられていたエディは、あまり栄養状態がよくはなく、たびたび喘息の発作も起こして、正直なところ、夫妻の手には余るような状態だったらしい。
そこでランス隊長は、こっそりとシモンズ夫妻の元からエディをこの施設へと移した。それにかかる費用は、すべて隊長個人が負担した。手続きはいろいろと煩雑であったようだが、王女が戻ってからの三日間、近衛隊が王女の護衛から外されていた期間に、なんとか済ませてしまったという。げっそりと疲れていたはずだよ。
「お姉ちゃんの手紙ももらったよ。でも、僕から返事を書くのは止められてた。僕の存在が知られると、いろいろ問題があるんだって」
この移動はすべて秘密裏になされ、表向きには、ダウニールの子供が一人行方不明になった、ということになっている。万が一、王宮の誰かがあの村へ調べに行ったとしても、エディのその後について知っている人間はいない。
要するに、ティナとエディの姉弟は、もうダウニールには戻れないということだ。
……王宮の揉め事に関わったばかりに、二人は故郷を失ってしまった。
「──すまなかった」
俺は、ティナとエディに向かって頭を下げた。
二人が揃って俺に目を向ける。エディは屈託なく「この人、誰?」という顔をして首を傾げているが、両の目に涙を溜めたティナは、真っ赤にした鼻をぐずぐず言わせながら、俺を見返した。
「ロイド」
まっすぐに向かってきたその視線を受け止める。
「うん」
「どうしてあんなお芝居をしたの? あたし、あの時は本当に、自分が殺されると思った」
「王女の代わりとなった娘の存在を消せ、という命令がされていたのは事実だったんだ。ティナが間違いなく死んだ、と王に信じ込ませる必要があった。見張りの男がいただろ? あいつが、ちゃんと命令が実行されるか監視する役目を負ってた。あとで、その旨の報告をするために」
だから、ほんの少しでも疑惑を抱かれないように行動しなきゃいけなかった。
「ものすごい悪党顔してたよね」
「そんなに嘘は言ってないはずだがな。エディは今頃、暖かい場所ですやすや寝てると思う、って」
「ぜんぜんそんな言い方じゃなかった! あたし、あんなに泣いたのに!」
「迫真だったな」
「本当だと思ってたからね! ロイドったら氷みたいに冷たい顔して、すっごく怖かったし!」
「……俺も怖かったからな」
ぼそりと正直なことを洩らすと、ティナの文句が止まった。
口を噤み、俺の顔をまじまじと見つめる。俺は小さく息を吐いた。
「これが失敗したら、すべてが終わりだ。それまでも、本当に上手くいくのかと、ずっと不安だった。運が悪かったら、どう転んでいたか判らない。王宮はそんなに甘いところじゃないんだ」
王女が戻ってきたら、代わりの娘は用済みとばかりに消される運命にある。最初から、それは予想していた。
だから俺とランス隊長はずっと、巻き込まれた娘をいかにして助けるかと、そればかりを考えていたのだ。
王宮は甘くない。あるいは、俺たちが介入できないような形で、ティナの人生が強制的に断たれてしまう可能性も大いにあった。
俺とランス隊長が近衛隊から外されたら、その時こそどうしようもない。王の手の者がどこで目を光らせているかも判らなかった。
王太子が味方になってくれなかったら、事はもっと難航しただろう。
──本当に、よかった。
「……あそこまで事態が切羽詰まる前に王宮から逃がしてやれればよかったんだが、そうすると今度は、他の近衛隊員や侍女たちが罰される恐れがあった。なるべく余計な犠牲は出したくなかったから、こんなに回りくどい手順を踏むことになった。ティナにはずいぶんと、怖い思いをさせたと思う。すまなかった」
たとえ芝居でも、一時のことでも、ティナはあの時、人生に絶望しただろう。俺の耳には、未だにあの時の悲痛な声がこびりついて離れない。
「…………」
ティナは鼻を啜って、じっと俺の顔を見た。
「──じゃあ、結果的に、ロイドとランスさんは、王さまの命令に背いたってことね? 大丈夫なの? これから罰を受けたりしない?」
「王太子がいろいろと手を廻してくれたからな、ランス隊長は大丈夫だと思う。俺は思うところあって、近衛隊を辞職した」
辞めるという意志を伝えたら、ランス隊長は何度も「いいのか」と確認していたが、俺の決意が固いことを知って、了承してくれた。そちらも上手いこと処理してくれるだろう。
「え、こ、近衛隊を辞めたって……あたしたちのせいで?」
ティナが驚いたように目を見開く。そこに申し訳なさそうな色がくっきりと浮かんでいるのを見て、俺は苦笑した。
まったくお人好しだ。
いつも人のことばかり考えて。
「前々から、思っていたことだったんだよ。俺はどうも、王宮には馴染めなかった。近衛には向いてなかったんだ。それだけの話さ」
近衛としての自分に、なんの意義も見いだせなくなった。いろんなものを我慢して呑み込むことが、もう不可能になってしまった。
俺は結局、あそこにも居場所を見つけることは出来なかった。
だから辞めた。それだけのことだ。
肩を竦めてそう言うと、ベッドの端に腰かけていたティナが立ち上がった。
俺のほうに近づいてきて、まっすぐに視線を向けてくる。
ティナの大きな目は涙の透明な膜に覆われ、美しく煌めいていて、吸い込まれそうだった。
「ロイド」
「うん」
「──あたしたちを助けてくれて、ありがとう」
ティナがふわりと寄りかかるように、俺の胸に顔を埋めた。
彼女の身体からは、柔らかいぬくもりが伝わってきた。
「……うん」
俺は彼女の身体を囲うように、背中に緩く両腕を廻した。
小さな頭に顎を置き、深く息を吐く。
ずっと長いこと胸の奥で鳴り続けていた寒々しい風の音が、ようやく止んだ気がした。




