第17話
「やれやれ、物騒な夜だ。太助、片付けを手伝え」
「オイラ、もう心臓が止まりそうですぅ……」
泣き言を漏らす太助に片付けを任せ、俺は窓を開けて外の様子を窺った。
夏の夜の空気が、火薬の匂いを少しずつ薄めていく。
堺の街は静まり返り、俺の工房だけが確かな鼓動を刻むように感じられた。
供給網は完全に俺の手の中にある。
西軍も東軍も、もはや俺の描いた盤面の上で踊る駒に過ぎない。
堺を完全に掌握した俺は、いよいよ関ヶ原の盤面をどう動かすのか。
思考を巡らせていたその時、足元の床板が微かに軋んだ。
ネズミが走るような軽い音ではない。人の体重が乗り、息を殺して移動する意図的な気配だ。
俺は窓辺から静かに一歩下がり、前掛けの裏に忍ばせていた三丁目の最新式短筒を抜いた。
装填機構を改良し、連射性を高めた特注品。銃身の熱はまだ帯びたままだった。
床板の隙間から、鈍く光る刃が突き出そうとした瞬間。
俺は躊躇なく床板に向けて発砲した。
轟音とともに木片が飛び散り、床下からくぐもった短い悲鳴が上がる。
「まだネズミが残っていたか」
俺は銃口から立ち昇る硝煙を吹き飛ばした。
「うわぁっ! ま、まだいたんですかぁ!」
太助が腰を抜かしてへたり込む。
「これで最後だ。又八、床下の掃除を頼む」
奥の部屋から現れた又八が、無言で頷いて床下へと潜っていく。
これで、俺の命を狙う武力行使は完全に潰えた。忍びの襲撃も、もはや俺の供給網を揺るがすことはできない。
◆ーーーー◆
翌朝。工房の前に騒々しい人だかりができていた。
「皆の衆、聞いてくれ! この甚兵衛という若造が作る鉄砲は、戦場で暴発する欠陥品だ!」
声の主は、堺の会合衆に名を連ねる古株の商人、大黒屋だった。善兵衛が失脚した後、その利権をかすめ取ろうと暗躍していた男だ。
大黒屋の足元には、銃身がひしゃげた火縄銃が数丁転がっていた。
「これを見ろ! 甚兵衛の工房から納品された鉄砲だ。こんなものを買わされては、兵たちが犬死にするだけだぞ!」
周囲の商人や町人たちが、ざわめきつつ工房を指差す。
俺はお凛とともに工房から歩み出た。
「朝から随分と威勢がいいな、大黒屋の旦那」
「ふん、悪事が露見して青ざめたか、甚兵衛。お前の粗悪品のおかげで、堺の信用は丸潰れだ!」
俺は足元の鉄砲を拾い上げ、銃身の断面を指先でなぞった。
一目見ただけで分かる。
「……なるほど。確かに酷い作りだ。銃身の厚みが均一じゃないし、カラクリのバネには焼き入れの甘い粗悪な鉄が使われている」
「認めるのだな!」
「ああ。だが、これは俺の作じゃない」
俺は鉄砲を大黒屋の足元に放り投げた。
「銃床の裏を見てみろ。俺の工房の刻印がない。それに、この不純物だらけの鉄……大黒屋、あんたが先月、紀州から安値で買い叩いた屑鉄だろう」
大黒屋の顔から血の気が引く。
「な、何をでたらめを……!」
「でたらめかどうか、試してみるか?」
俺は太助に命じて、工房から俺が組み上げたばかりの標準的な火縄銃を持ってこさせた。
「太助、そこにある大黒屋の鉄砲と、俺の鉄砲、両方に同じ量の火薬を詰めて撃ち比べてみろ。的はあの空き樽だ」
公開の場での試射。周囲の視線が一点に集中する。
太助が震える手で大黒屋の持ち込んだ鉄砲に火薬を詰め、火蓋を切った。
ボフッ、という情けない音とともに、銃口から黒煙が噴き出す。弾は樽の遥か手前で失速し、地面を転がった。
「次、俺の鉄砲だ」
太助が俺の火縄銃を構える。
乾いた轟音が響き渡り、空き樽が見事に粉砕された。
周囲からどよめきが起こる。
「見ろよ、あの威力……」
「大黒屋の持ち込んだ鉄砲とは比べ物にならねえ」
俺は大黒屋に冷たい視線を向けた。
「俺の鉄砲の品質には、一切の妥協はない。他人の名を騙って粗悪品を売り捌こうとするような輩に、堺の商いを語る資格はないな」
大黒屋はへたり込み、周囲の商人たちから軽蔑の目を向けられた。
これで、堺の会合衆を牛耳ろうとしていた悪徳商人は完全に没落した。
◆ーーーー◆
騒ぎが収まった後、俺は工房の奥に藤吉を呼び出した。
「大黒屋の息がかかっていた流通網も、これで完全に空いたな」
俺は帳簿を机に放り投げた。
「藤吉。善兵衛や大黒屋が握っていた鉛と硝石の仕入れ経路、すべてお前が管理しろ」
藤吉は目を丸くして、帳簿と俺の顔を交互に見比べた。
「あ、あっしがですか!? そんな、堺の流通の半分以上を握るなんて、あっしみたいな手代には荷が重すぎます!」
「お前ならできる。裏帳簿のカラクリを見抜いたその目で、今度は表の商いを回してみせろ。粗悪品を弾き、確かな品だけを俺の工房に集めるんだ」
藤吉はごくりと唾を飲み込んだ。
「旦那……あんた、本当に堺を丸ごと飲み込むつもりなんですね」
その声には、畏怖と、かすかな興奮が入り混じる。
「あっしにできることなら、命懸けでやらせてもらいやす。もう、誰にも粗悪品で甘い汁は吸わせません」
藤吉は深く頭を下げ、帳簿を胸に抱きしめた。
藤吉が部屋を出ていくと、入れ替わりにお凛が入ってきた。
「大立ち回りだったわね。これで堺の商人は、誰もあんたに逆らえなくなったわ」
お凛は呆れたように言いながらも、その目には確かな信頼の色が浮かぶ。
「ここからが本番だ。お凛、以前ロレンソから粗悪な南蛮鉛を買い占めておいただろう」
「ええ。不純物が多くて、あんたが使い物にならないって言ってたやつね。倉庫の奥で埃を被るばかりだけど……まさか」
お凛の表情が険しくなる。
「あれを、西軍に売り払う」
「正気!? 不良品を売れば、せっかく築き上げた信用が失われるわよ! あんた、さっき大黒屋に品質に妥協はないって啖呵を切ったばかりじゃない!」
お凛が身を乗り出して抗議する。
「俺の作る鉄砲の品質は落とさない。だが、弾丸となる鉛は別だ」
俺は机の上に、二つの鉛玉を転がした。一つは滑らかな球体、もう一つはいびつで表面がざらつく。
「西軍は今、数を揃えることに必死だ。焦る彼らは、質より量を求める。いびつな鉛玉を使えば、いくら鉄砲の精度が良くても、弾道は逸れる」
俺はさらに、二丁の鉄砲の図面を広げた。
「西軍には、数を揃えやすい規格化された銃を納品する。一方、東軍には射程と精度に特化した特注銃を割り当てる」
お凛が息を呑む。
「……西軍の命中精度を落とし、東軍の射程を伸ばす。あんた、戦場に出る前から勝敗を操作するつもりなのね」
「戦を決めるのは刀じゃない。俺の兵站操作だ」
俺は飄々と言い放った。
「無駄な命が失われるのを防ぐには、盤面を完全にコントロールするしかない。お凛、西軍の新たな補給担当者との交渉、頼めるか?」
お凛はふう、とため息をつき、手元の算盤を弾いた。
「仕方ないわね。あんたの無茶に付き合うのは、私の役目だもの。きっちり高値で売りつけてきてあげるわ」
◆ーーーー◆
数日後。大坂の西軍陣営に近い宿場で、お凛は西軍の補給担当者と対峙していた。
「鉛の在庫が足りないだと? ふざけるな、戦は目前に迫るのだぞ!」
苛立ちを隠せない武将に対し、お凛は涼しい顔で茶をすすった。
「お怒りはごもっともですが、極上の鉛はすでに東軍に押さえられまして。ですが……少々質は落ちますが、南蛮渡りの鉛なら、ご希望の数をすぐにご用意できますわ」
「質が落ちるだと?」
「ええ。ですが、背に腹は代えられないのでは? 数が揃わなければ、戦にもなりませんから」
武将は苦虫を噛み潰したような顔で沈黙し、やがて重々しく頷いた。
「……承知した。その南蛮鉛、すべて買い取る。金に糸目はつけん」
「毎度ありがとうございます。堺一の商人として、迅速にお届けいたしますわ」
お凛は完璧な笑みを浮かべ、契約書に判を押させた。
西軍へ、大量の粗悪な鉛が流れていく。
彼らはそれが、自らの首を絞める毒薬だとは気づいていない。
一方で、俺の手元にある東軍への納品スケジュールには、依然として不自然な空白が残されている。
関ヶ原の戦いまで、あとわずか。
この空白のスケジュールに、俺は何を仕込んでいるのか。
盤面は、静かに、だが確実に俺の思い描く結末へと向かって動き出していた。




