第11話
六月の堺。
梅雨の晴れ間に覗く太陽は肌を刺すように痛く、港から吹き込む風はべたつくような湿気を帯びている。
善兵衛の店の奥にある薄暗い座敷で、主の低い声が響いた。
「藤吉。紀州の海賊衆への手回しは済んだか」
善兵衛は高価な指輪をはめた指で酒盃を弄りながら、傲慢な笑みを浮かべていた。
「……へえ。手筈通りに。明後日、堺に入る南蛮船を沖合で沈める算段でさあ」
「くくく。これで甚兵衛の小僧も終わりだ。重蔵様の後ろ盾もある。わしの商いを邪魔する者は、こうして海の底へ沈めてやるのだ。若造が粋がったところで、堺の掟はわしが握っているのだからな」
藤吉は無言で頭を下げ、腕の中の帳簿をきつく抱え込んだ。
商売敵を出し抜くのは堺の常だが、船ごと沈めて人の命を奪うのは商人のやることではない。しかも、善兵衛が売り捌いているのは、暴発の危険すらある粗悪な筒ばかりだ。鉄砲の仕組みなど何も理解していないくせに、目先の利益だけで動いている。
藤吉の脳裏に、甚兵衛の工房で見た極上の鉄砲が浮かぶ。あの若き鍛冶師は、権力に媚びず、ただひたすらに品質を追求していた。
(あっしは、こんな泥水をすするような真似をするために商人になったんじゃねえ……)
藤吉は、善兵衛が隠し持っている裏帳簿の束に視線を落とした。そこには、粗悪品の横流しや海賊衆への裏金の記録が克明に記されている。
心臓が早鐘のように打っている。もし見つかれば、海賊衆の餌食になるのは自分だ。
「どうした、藤吉。顔色が悪いぞ」
善兵衛が怪訝そうな顔でこちらを見た。
「い、いえ。何でもございやせん。少し帳簿の整理をしてまいります」
藤吉は震える指先でその一冊をそっと懐に忍ばせ、深く頭を下げて逃げるように奥の部屋を後にした。背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、彼は一目散に甚兵衛の工房へと向かった。
◆ーーーー◆
俺の工房には、朝から甲高い金属音が響き渡っている。
「うわぁっ! 若旦那、こっちの長筒は随分と手間がかかるんでさあ!」
見習いの太助が、顔を真っ黒に煤けさせながら悲鳴を上げた。手には、通常よりも一回り長い銃身が握られている。
「文句を言うな。東軍に納める特注品だ。銃身の歪みは一厘たりとも許さねえぞ。そのわずかな引っ掛かりが、戦場じゃ命取りになるんだよ」
俺は手元のからくり部品にヤスリを当て、微小なバリを削り落としながら答えた。
俺の視力は、ただの職人のそれとは違う。銃身の僅かな歪み、火薬の純度、部品の摩耗。それらをミリ単位で正確に見抜くことができる。
それに加えて、俺の頭の中には未来の知識があった。
開戦までの九十日。俺はただ鉄砲を造るだけではなく、両軍の戦術を誘導するための仕込みを進めていた。
西軍には、部品の互換性を高めた規格化された銃を三十丁。これは数を揃えやすく、前線での運用を容易にするためだ。兵士が撃ち捨ててもすぐに代わりが利く。
一方、東軍には、銃身を極限まで延長し、射程と命中精度に特化した長筒を十丁。
西軍には数を撃たせ、東軍には遠距離から確実に狙撃させる。それぞれの陣営に異なる性能の武器を渡し、戦場での動きをこちらでコントロールする。
「呆れたわね。武力には経済力で対抗するって言ってたけど、あんた、本当に戦そのものを操る気なの」
お凛がため息をついた。彼女は帳簿から顔を上げ、俺の作業を見つめている。
「最高の状態で使ってもらいたいだけさ。そのためには、弾薬の補給網も完全に押さえる必要がある」
俺がそう答えた時だった。
工房の入り口に、見慣れない……いや、見覚えのある人影が現れた。
常に猫背で、おどおどしている手代。善兵衛の店にいる藤吉だ。
護衛の又八が即座に柄に手をかけ、鋭い視線を向ける。
「何の用だ。あんたの主人が、俺を潰そうと躍起になっているのは知ってるぜ」
俺は手を止めて立ち上がった。
藤吉は青ざめた顔で一歩前に出ると、いきなり土間の上で土下座をした。
「旦那……あっしを、ここで雇ってくだせえ!」
「おいおい、冗談はよしてくれ。大店の番頭の右腕が、こんなしがない鍛冶屋に何の用だ」
「善兵衛の旦那は、紀州の海賊衆を使って、お前さんの荷を積んだ船を沈める気です。西軍の重蔵様と結託して……」
俺とお凛は顔を見合わせた。
又八が警戒を解かず、「若旦那、こいつは善兵衛の犬だ。罠かもしれねえぜ」と忠告する。
俺は又八を手で制し、藤吉の目を見た。
怯えきっているが、その瞳の奥には、商人としての最後の意地のようなものが宿っていた。
藤吉は震える手で、懐から分厚い帳簿を取り出し、俺の前に差し出した。
「あっしは、もう耐えられねえんです。粗悪品を売りつけて、邪魔な者は力ずくで消す。そんなのは商いじゃねえ。旦那の作る本物の鉄砲を見て、あっしも本物の商売がしたくなったんでさあ」
絞り出すような声には、商人としての切実な良心の疼きがあった。
俺は帳簿を受け取り、中身をパラパラと確認した。
海賊への裏金、粗悪な鉛の仕入れ値の誤魔化し、大名への贈賄記録。善兵衛の不正の数々が、数字として克明に記されている。
特に目を引いたのは、南蛮鉛の取引記録だ。不純物が多く、弾にすれば銃身を傷つけるような粗悪品を、法外な値段で西軍の末端に売りつけている。
「……なるほど。これがあれば、善兵衛の首根っこを押さえられるな」
「あっしは堺の流通の裏も表も知ってやす。旦那の役に立てるはずです」
「裏切り者は信用されねえのが世の常だが……あんたの目は、まだ腐っちゃいないようだな」
俺は帳簿を閉じ、藤吉を見下ろした。
「いいだろう。今日からあんたは、うちの流通担当だ。まずは、善兵衛の息がかかっていない新しいルートを構築する。やれるか?」
「へえっ! お任せくだせえ!」
藤吉は涙ぐみながら、何度も頭を下げた。
◆ーーーー◆
藤吉の知識は本物だった。
彼は紙に筆を走らせ、堺の港から工房までの複雑な流通経路を図解していく。善兵衛が押さえている問屋と、そうでない問屋を瞬時に仕分けしていった。
「善兵衛の旦那は、表向きの問屋はすべて押さえてやすが、裏の顔役たちまでは手が回っていやせん。あっしがこっそり繋ぎをつけていた、独立した運び屋たちがおりやす。彼らを使えば、海賊衆の目を掻い潜って、安全に荷を運べます」
「なるほど。あんた、ただおどおどしてただけじゃなかったんだな」
「へえ。これでも、堺で十年以上、帳簿と睨めっこしてきやしたから」
藤吉の顔に、少しだけ誇らしげな色が浮かんだ。
「硝石は、この三つの問屋を通せば善兵衛の目を盗めやす。鉛は、ロレンソ様の船から直接、夜陰に乗じて小舟で引き込みましょう。海賊衆の動きも、あっしが事前に察知して航路を迂回させます」
「上出来だ。これで材料の供給網は完全に俺のものになる」
俺は西軍と東軍への納品計画と、この新しい供給網を照らし合わせた。
戦局を支配するためには、鉄砲の性能だけでなく、硝石や鉛といった兵站そのものをコントロールする必要がある。藤吉が加わったことで、そのパズルの最後のピースが埋まった。
夜。
静まり返った工房の奥で、俺は手元の行灯の灯りを頼りに、藤吉が持ってきた裏帳簿を広げていた。
善兵衛の不正の決定的な証拠。
これを奉行所に突き出すだけでは面白くない。商人の流儀で、奴の既得権益を根こそぎ奪い取ってやる。
俺の目的は善兵衛を潰すことじゃない。戦なき世を見据え、無駄な命が失われるのを防ぐことだ。
そのためには、この供給網を完全に掌握し、大名たちに俺には逆らえないと思い知らせる必要がある。
善兵衛はそのための、最初の生贄だ。
「さて、どう料理してやろうか」
俺は口角を上げた。
海賊を使った妨害工作も、粗悪品で暴利を貪るやり方も、すべてこの帳簿がひっくり返してくれる。
反撃の準備は整った。ここからは、俺が盤面を支配する番だ。




