第6話 夜を越えて
ルサルカ、単語だけであればスラヴ民族の伝承に登場する水の精を意味しているが渡津未育ちのイドとダズィがそんな他国の伝承を知っているわけもなく。そしてルサルカという言葉そのものも初耳だった。
「知らねえよ、なんだそれ?」
「知らないか、やっぱまだ認知度低いのかな。もっとバンバン広告打つように局長に言ってみるか、やだなーー」
自信満々にお出しされたシナリオの出鼻を挫かれたようにがっくりとするが、すぐに立ち返り先ほどの演技じみた動作を行う。
「『異類問題解決局』、通称『ルサルカ』。渡津未4区を本部に据え置き各地で発生する異常現象の発見、調査、解決を担う渡津未政府公認組織。俺はそのルサルカからやってきた調査員だ」
「いるい問題、るさるか?」
「異常現象、今回の申渡さんの一件をお前たちの組織ではそう見られているということか?」
「あくまで俺個人の見解だがな。あれは地上人や強い力の持たない深海人が起こせるような殺し方じゃない。そんなのがここ数日何件もあるんだよ、7区の中で」
辰野はパラパラと手帳を広げた。意外とまめな人間なんだとイドは感心したがそれは今の彼には手帳の中身の方に関心が移った。そこには7区全体の地図と事件の起こった場所が記されている。地図には番号のみが書かれていて、事件の詳細な内容は別ページに番号ごとに緻密に書かれていた。どうやら調査員という話もあながち嘘ではないらしい。
「一件じゃなくて何件も、これだけ起こっているならニュースとか噂になっててもおかしくないのに」
「隠蔽してるんだよ警察が。こんな人の多くて狭い地域で奇妙な溺死事件が起きているなんて街の連中が知ったらどうなるかはお前たちだってわかるだろ?」
それは二人にも予想ができた。7区はその狭さに対しての人口密度が他の区と比較しても圧倒的だ。少ない土地を多くの者が奪い合っている状態なので慢性的に喧嘩や衝突が怒りやすい。ただでさえ普段からそこら中で衝突が起きているのだから、この一件をおしゃべりな誰かに話そうものなら誰かと争いたくてたまらない人種のいい口実にされてしまうだろう。
「まあなんとなく俺たち一般人に知らされていない経緯は分かった、ただ今回のお前が俺たちを警察から引き剥がす意図がわからない。俺とダズィ個人としては警察に引き渡されないで好都合だけど」
「そうだよ。調査するならケーサツの人と協力した方が早いんじゃないの?」
「そうしていたさ、最初のうちは。ただあいつら証言内容も現場の状況も一言も教えちゃくれないんだよ。全部調査中だとか外部には漏らせないとかいってまともに取り合ってない。こっちは上の要請で7区まで調査に来ているっていうのに」
辰野はペンをタンタンとメモ帳に叩きつけることで苛立ちを解消する。
「挙げ句の果てに帰ってきた証人はみんな何も覚えてないときた。俺が見つけて警官に引き渡す前は流暢に喋っていたのに、だ」
「舐められてるなぁ、完全に」
「そしていま幸運にも、誰の手垢も付いてない野良証言者を無事二人も確保したというわけだよ。」
「人を犬猫みたいにいうな」
「犬猫のようなものだよ。これからすることを考えたら。やっと掴んだ手がかりだ、これ以上あいつらの優位に立たせてたまるかってんだ」
辰野はペンをメモ帳にタンッ!と強く叩きつけた。これから告げることに有無を言わさずに従ってもらうという心積りを理解させるためだろう。
「そういうわけで、事件解決までの間ルサルカが君たちを保護する。誰にも見つからない安全なところに連れてってやる」
「断るって言ったら?」
「悪いが拒否権はない、手足を拘束してでも君たちにはこちら側の証言者として俺の用意した部屋で待機してもらう。証言することでお前たちの復讐も果たされるんだからそっちに利がある提案だろ?」
ぐるりと二人を見比べるその目線は、どちらを先に抑えれば言うことを聞いてくれるだろうかと品定めをしているようで、反射的にイドはダズィの手を握りつつ一歩後ろに下がろうとする。
「それが君たちの答えということでいいのか?」
睨むような目線でイドを見る目線を見て冷や汗が垂れる。空気が一瞬冷えたような感触がした。逃げるのなら最初はお前からだ、口に出していないのにそう思っているのが嫌というほど伝わってくる。
「と、当然だ。会ってまだ数分しか経ってないような相手を信じられると思うのか?ルサルカっていう組織だって本当にあるかどうかも怪しい……」
「ルサルカの存在証明をしたいところだが、生憎今は形になっているものが手元になくてね。そこは不信感を持たれても仕方がないことだろうね。申し訳ないがそこは信じてくれというしかない」
「──信じる理由がない、そんな相手に全部を任せておくなんてこと俺たち兄妹が出来るわけない!」
その言葉を言い終わると同時に手を大きく振りダズィを自分と反対側に行かせる、驚いた顔をする彼女の背中に向かって大声でただ一言伝えた。
「走れ!」
その言葉を合図に二人はあべこべな方向へ逃げ出す。一方は開けた屋上にもう一方は大人の入り込めない狭い空間に。これは二人が不利な状況から逃げる際に用いている方法でダズィが大人でも入り込めない狭い空間を使うことで関心をイドに向けさせ程よく撹乱させて相手を撒くというものだった。
何度か試して成功をしているがそれは地上の路地裏という限られた空間で行っていた緊急逃亡手段なので成功する確率は高くはないだろう。けれども、不慣れなフィールドだからといって躊躇うことを今はできない。
先ほどの辰野の目線が嘘でないとしたら間違いなく自分を追いかけてくるだろうしそれを逃げきれないわけがない。そういう自信がイドにはあった。
だからこそ、そこをつけ込まれたのだろう。
「──!」
後ろから妹の悲鳴が聞こえてきたことでイドの体はぴたりと止まる。後ろを振り向かなくても何が起こったかはなんとなく予想がついた。それでもそれに気がつくのが怖くてゆっくりと振り返ると、辰野に拘束されたダズィの姿があった。
「わかっていただろう、逃げるという選択肢を選んだ時点でこうなることくらいは。君たちは長らくこの方法で逃げ仰せていたようだが、それは君たちが試した相手偶然劣った相手だったからだ。こんなものは、ほら」
手を締め上げることでダズィが声を上げそうになるのを唇を噛んで抑える。
「簡単に抑えられてしまう」
「っぐ──!」
あげようとする怒りを、叫びをどうにか喉の前で抑える。怒りで突撃しても何も生まないのはさっきも学んだばかりだ。とはいえ最善だと思って出した手段も通じず、ただ立ち尽くす他なかった。
状況は先ほどより悪化しただけだ。
「子供相手にこんなことをしたくはなかったが。これで君の考えも変わるだろうか、イド君?」
また先ほどの冷めたような目でイドを見る。
あとは君の答え一つで決まるということを暗に示しているのだろう。辰野は決まりきった返答が返ってくるのを待っている。それ以外の回答をする選択肢も理由もポッキリと丁寧に折られてしまったのだ。妹をどうこうするのも相手の態度次第。あれほど必死になって妹を守っているのだからそれを見過ごすことは決してない。まさに詰みだ。
だからこそそこまで追い込まれてしまえばもはや彼の望む答えを口にするということが最善だ。
それで妹が解放されるなら、とイドは固く閉ざそうとする口を開いた。空気を入れ喉が声を出そうとする時、
──足元にひんやりとした感覚が。
その触りごごちはひんやりとしているのにふわふわとして、生き物のようなそれが足元に擦り付いて来ている。その正体が何なのかということはもはや考える必要もなかった。
「──お前もいたんだな」
と辰野には聞こえないように小さな声でつぶやいた。あれだけ部屋の中で暴れ回ったし、妹を連れて逃げることしか考えていなかったのであの預かり物がどうなっているのかなんて思考の外側にあった。
だからこれが、『猫』がついて来ているなんて思ってもいなかった。それで状況が好転したわけでもないのだが、この想定外の助け猫がイドに束の間の安心感を与える。イドは眉間に入った力を少し緩めて、
「ついて来てくれて嬉しかったよ」
と小さく呟き辰野の方に向き直ろうとした時だった。
─────────
『 !』
─────────
「──え?」
イドは大きく目を見開き茫然とした。
立ったまま硬直した様子を見せた彼に辰野は訝しむ顔を見せる。何が起こっているのかを見定めようとするが、見ることはできない。透明の『猫』を見つけることは空気を見ろと命令されることと同義だ。数秒後硬直が解けたようでふらつきながら前を見据え、
「──やっぱりその提案を今すぐに受け入れることはできない」
と告げた。
辰野は今の一瞬でイドの雰囲気が変わった、それを直感的に理解する。どんな心境の変化があったのかは言葉にできないものだったが、先ほどとは違って感情的な盤面の次の手を予想しないようなものではない。ある確信を持った上で自らの案に乗らないと言っている、と。
「妹の命が惜しくないのか?」
「くさい台詞吐くなよ。もう今そういう話しているような状況じゃないんだ、下見てみろ」
「下……。まさかっ!」
と顔を階段の方面に背けると手元が緩んだ隙をついてダズィが拘束を振り払いイドの方に駆け寄る。しまったというような顔をしながらも今の関心は先ほどの一言にあったので屋上のヘリから先ほど二人が上がってきた底を覗き込んだ。
「長く留まりすぎたということか、こうなるのを君たちは待っていたのか?」
笑いながらも硬い表情、どうやら辰野にとっても予想外のことだったのだろう。
「そんな気は一切ないんだけど、言っても信用されなさそうだから好きに取って貰えばいい」
「待って、何が起きてるのか説明して」
「今この下には警官がいるんだよ、それもたくさん!」
「そっか、」
そこまで言われて事情を察知したダズィは辰野に向き直る。不安さが取り払われた根拠ある自信に満ちた顔にイドは微笑んでしまいそうになる。
「じゃあ今すぐにでもここを逃げないとね!」
「どこに行くつもりだ?」
「逃げんだよ、俺もお前も今すぐに!でももちろん一緒に行くつもりはない。お前とは逆方向にだ!」
辰野の余裕が崩れた。イドは大きく息を吸い込んだ、らしくない言い方をするのは恥ずかしいけれどもそういうことを言っている場合でもない!
「だからこっちからも提案だ!俺たちをお前の調査とやらに同行させろ!それさえ認めてくれれば証言だろうが何だってしてやるしこの場からお前に離れずついていってやる!」
今の二人では辰野なしでは決して逃げきれない状況。けれどもようやく生まれた隙なのだからそこをつかない手はない。それにイドがどのようにして警官たちがやって来ていることを分かったか辰野は知らない。彼が把握していない何らかの力をイドが持っていると思わせられたら優位はこちらに傾くはず!
つまり今度は辰野がイドの提案に乗らなければならない状況になったというわけだ。
「──っ仕方ない!君たちの口車に乗ってやる」
その言葉を合図に屋上の反対側へと走り出す。紺色の制服姿が段々と現れてきたからだ。屋上のヘリに立つと辰野は「分かってると思うが、『やっぱさっきのなし』はするなよ」と伝えてくるので、
「そっちこそ、大人なら約束守れよ」
「分かってるさ」
と辰野は答えたもののいまだに二人は彼を信用しているわけではない。偶然優位な立場を獲得しただけであって協力関係には程遠いだろう。
けれども、信用云々は置いておくとしたら逃げなければならないのはお互いに同じだ。だからこれはいわゆる利害の一致というやつだ。三人の関係なんてそれで事足りる。
「って君たちその姿勢で行くのか?」
「何か文句あんの?」
イドにおんぶされたダズィは辰野を睨んだ。まあ丸い目で睨まれてもそこまで怖くはないので辰野は「いや別にいいけどさ」と肩をすくめた。
屋上のヘリの先にはまばらな明かりがポンポンと、遠くには整列したかのように並び立つ明かりがポツポツとしている。ふい下を見れば真っ暗な世界が続いていて見ているだけで憂鬱な気分になってしまうし、ふく風が冷たくて、足元がふらつきそうになる。それでも背中には確かな温もりが安定をもたらしてくれる。
「怖くないのか?」
「そんなわけないだろ」
もう踏み出す準備は十分整った。肝心の逃げる手段だが、もちろん今から階段を使って下に降りることはもう出来ない。
ジリジリと警官たちを引きつける。だが、完全には近寄ることは彼らには出来ない。
「おい待て早まるな!」
筋違いなことを叫ぶ声が飛んできた。
その声を無視して夜の闇に飛び込む──!
動揺した声が拡散される
──落下というより跳躍の方が正しいだろうか
──または滑空か
──飛行は、ちょっと違うかもしれない
三人の体は屋上を離れ、空気の布を肌に纏う
世界から一度音が消失する
ふわりと内臓ごと揺れ動くような感覚だけがその場を支配した
一時的な浮遊、
人はその構造上空は自力で飛べず鳥には敵わないだろう
人は飛行せず、唯だ落下するのみ
けれど目的地さえ見えていれば
それはやはり落下ではなく跳躍なのだ
落ちるまでの時間は永遠かあるいは一瞬か
浮遊感とも別れを告げて空気は棘のように肌に刺さる
コンクリートが迫ってきてようやく──
──着地する
着地した次の瞬間、無事だった喜びも放り捨ててまた跳躍し──
──着地する
屋上を飛び越えて次の建物へ、また次の建物へと跳躍を繰り返す。
警官たちの声も段々と遥遠くのものになっていく。
跳躍する時の浮遊感が兄妹に変な興奮を与えていた。
「あっははははは!お兄ちゃんこれ楽しい!すんごい楽しい!」
「そうだな、あはははははは!」
普段地面を蟻のように走ってばかりだったからか今まで経験したことのない感覚で何らかの刺激物が脳から発散されていた。「あんまり喋ると舌を噛むぞ!」という辰野の言葉も大して聞こえてないようで、興奮は収まることがなかった。
だが不安で、怒りで、恐怖で、動けなくなるよりははるかにマシだろう。辰野は呆れながらも好きにしろと言わんばかりに二人の扇動を切って跳躍する。
そうして夜は更けていく。
真っ黒な空
大切だと思ったものが奪われて
怒って、叫んで、呪いの言葉を吐き出して
何かが解決したわけではない
けれど先が見えないわけでもない
その先は希望かもしれないし絶望かもしれない
それでも彼は、彼女は
今ある可能性に全てを賭ける
そこがどんな暗闇だろうと
いずれ夜は明けるのだから
只今は──
──夜を越えて




