第4話 鮮烈な青
日も沈んで街灯が道しるべになる頃、二人は申渡の店に戻ってきた。本来ならばこのまま、小走りで店の中に入っていくところなのだが、二人の足はぴたりとその場に張り付いたように立ち止まっている。それは、ある違和感によるものだ。
「あかりがついてない……」
「申渡さん帰っちゃったとか?」
それならば帰っていいと電話で伝えるだろうし、何よりも30分程度しか立っていないのにあのズボラな店主が一人で閉店作業を最後まで終えられるものなのだろうか。と、厳密な言葉は異なるものの、考えていることは同じだった。それは二人が同時にお互いの顔を目視したことによりおおよそ伝わってくる。
「どうする、このまま入るの?」
おそるおそる聞いてはみたものの、ダズィはあまり気乗りではなさそうな声色をしていた。それが伝わってくるような面持ちだったことと、イド自身もなんとなくそれは悪手だとわかっていたからか、
「危ないかもしれない。裏口に回ろうか」
と代案を出したのだった。ダズィは挙げられた代案に対して頷きはしたが「裏口かぁ」と冷たい空気に混じらせるように小さくつぶやいた。何せこの店での裏口なんて滅多に利用しないし何よりすごく分かりにくい場所にあるのだから。ダズィを後ろにして建物の間にある小さな隙間を潜り抜ける。
「なんでこんな面倒なところに、裏口作ってんの」
「申渡さんの趣味とかじゃないの?」
「そんなわけないよ、たぶん」
ハシゴを登ると裏口、もう一つの出入り口が現れた。キィと金属が擦れる音を立てながらドアをゆっくりと開くと外のわずかばかりの光が中に侵入して、
「……暗い」
同時に真っ直ぐに伸びる影が部屋の暗さを示していた。部屋の奥の方はさらに暗さを帯びていたので、ダズィは部屋から下がりながらイドの服をちょんとつまむ。その様子を見て、イドはダズィに
「そこで待ってて。何かあればすぐに逃げること」
と告げた。
「でも」
「お前暗いのダメじゃん、さっきのアパートより暗いぞこの中」
そう言い残すとイドは一人暗い部屋の中に入っていく。2階は元々物置として使われていたが、階段の行き来が億劫ということで1階の空き部屋が正式な物置となった。だが2階にも多少は物が放置されていてその中で一つ、段ボールの中のガラクタを漁り古い懐中電灯を取り出す。
「やっぱ使えないか、期待してたわけじゃないけどさ」
カチカチと音しか返ってこない懐中電灯を段ボールの中に戻し、奥へと進んでいく。ダズィと違って暗闇が怖いわけではないけれど、正直下に降りるのはどうにも気が進まない。そのせいだろうか、家鳴りの小さな音さえ耳によく響く。壁伝いで進みつつ記憶を頼りに階段へと近づくと、
“ぴちゃり”
液体がはねる音がする。
「なんでこんなところに水が、雨漏りか?」
「そんなわけないでしょ、雨なんてここ数日降ってないし。せいぜい水漏れってとこだと思うよ」
不意に聞こえてきた声に振り変えると、小さい赤い髪がぴょこんと立っていた。
「ダズィ一人でどうやって」
「何いってんの?この子がいるでしょ、ついてきてもらったの」
声よりも低い位置からトテトテと歩くわずかな振動からフードの中に入っていた猫の存在を思い出した。申渡さんの話を聞いているうちにすっかりと忘れていたのだ。猫とダズィは階段の前にしゃがみ込み、うわぁと低い声を漏らす。
「ほんとに暗い。流石に明かりがないと階段を降りるのは危ないよ」
「分かってるって。というか大丈夫なのか?ここまで着いてきて」
「とりあえず大丈夫。お兄ちゃんもいるしね」
「じゃあ先、進むから気をつけて来いよ」
手探りで階段の踏み板を見つけながら真っ暗な階段を降りようとすると、パッと目をさすような光が視界を覆った。崩れたバランスを保ちながらも光の方に向き直ると、得意げな顔で青く発光している『猫』の姿があった。ネオンの明かりのようなギラギラと下卑た明かりではなく、宝石そのものが発光しているような。そんな光だ。
「……便利な体してるなお前」
青い光に照らされた階段を見て、イドは茶色い目をわずかに輝かせた。どうやら褒められていると気がついたのか猫はさらに得意げに顔を上げる。その顔のままひょいひょいと階段を降りて行った。明かりが進んだことで二人もまたゆっくりとその後方をすすむことになる。文明の利器が使えない今、未知の生き物だけが二人を導く光となっていた。
“ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ”
一段降りるごとに水音が聞こえる。どうやら本当に水漏れを起こしているらしい、2階の洗面所は長らく使ってないと言っていたため老朽化によるものだろう。修理を検討しておくのもいいかもしれない。修理中お店はお休みしなければいけないけれど、最近働きづめだったから休むのもいいかもしれない。階段を降り切ると、“ぱしゃん”と今まで以上に大きな水音がした。
「水浸しになってる、これ書類とか大丈夫かな」
湿った地面に降りるのを嫌がるようにツンと階段の踏み板に居座る猫をダズィはぎゅっと持ち上げて床を観察した。猫は水を嫌うと聞いたことがあるが、水でできているこの生き物も同じ性質を持っているのだろうか。あるいは自身に余計なものが交わるのことを嫌がっているのか。それは猫の顔を見ただけでは測りかねる真意だった。改めて足元の水を見つめ直すとどうやらかなり広範囲に水漏れを起こしているようで、水は物置の先にまで続いている。
「これ閉店作業時間がかかるな、ったく何が起きたらこうなるんだよ」
「見つけたら理由聞いて、ザンギョー代きっちりぶんどってやるんだ、から──」
開けたドアの先の光景を見て、二人は呆然と立ち尽くす。
部屋の中は今朝自分たちが店の中に突っ込んだ時と同じように書類と物がひどく散乱した状態になっていた。
書類は水に濡らされインクが滲み出てボロ雑巾のようになっている。その中には重要な書類もあるというのに。放置されたダンボールは床を覆い隠すほどに散乱していた。
そんな部屋の内部をギョロギョロと見渡していると、ごちゃ混ぜになった段ボールや書類の山の下敷きになっている何かを目撃した。
「──!」
その何かが人の手だと言うことに気がついたのはイドの方が早かった。微かな声を上げたと同時にその人影の元に走り出しダンボールを乱雑に退けていく。
「──さん!」
名前を呼ぶ。信じられなくて、タチの悪い冗談だと思いたくて。何度も名前を呼ぶ。その姿が青い光に照らされて顕になって行くたびに、名前を呼ぶ声はどんどんと大きくなり呼吸も安定しないものになっていく。
──その姿が誰も否定できないものになった時、世界は鮮烈なまでの青に変貌した。
「うそ、なんで」
ダズィは震える足でそれに近寄る。言いたくない言葉を、そうであって欲しくない名前を、震える口で彼女は口に出す。
「なんで、申渡さんが。」
──予感はしていた。
だって、最近妙に上手くいきすぎていたから。お金が滞りなく貰えてた、路地裏の連中に殴られることも減った、連れ込まれることも無くなった、変な目で見られることも減った、銃に怯えず対処できるようになった、死を見る機会も減った。だから、きっとこれは帳尻合わせだ。これまでの幸運に対しての取り立てだ。幸運にも長らく不幸に遭遇しなかった分、因果は残酷な形でその取り立てをした。
その取り立てがもたらした意味はきっと「楽しいことは、楽しくあればあるほど長続きしない」ということだ。5年もそれが途切れずに、偶然にも成り立っていただけだった。だって世界はこんなにも──
「まだ、だ」
イドは己の思考を否定する。
だってまだ生きているかもしれない、心臓が鼓動しているかもしれない、応急処置をすれば間に合うかもしれない、実は全て冗談だったと笑って起き上がるのかもしれない。そんなあらゆる可能性を見逃すことはできなかった。だから、何度も声をかける。不自然に濡れた全身を掴み揺さぶる。それでも首はもたげられたまま頭がゴリゴリと聞いたことのない音で揺れる。その音を聞くほど、熱のない全身が濡れた体を揺さぶるほどイドの熱はどんどんと奪われていく。べたりと髪が張り付いた顔を見るたびに、それが元々生きていたとは思えなくなる。そう、元々ただの人形だったかのように。
そう考えた途端、焦りに拍車がかかり何度も何度も何度も声をかける、体を揺さぶる。
もはや半狂乱になって何度も何度も、何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も。名前を呼ぶ、心臓を動かす、空気を入れる、本で見た応急処置をうろ覚えに試す。
でも全て全て、ただの間に合わせだ。なんの意味もなしていない。
──だって申渡の命はすでに尽きているのだから
それでも無意味なことを続けてしまう。何かしなくては壊れてしまいそうだったから。呼吸が乱れる。心臓の音が何よりも優勢になる。だから小さな声など風の音と同じになっていた。
「イド!!」
だからこそだろう。悲鳴にも近い声の主が誰のものか、すぐに気づかなかった。横向きに押し倒された体の上にのる赤い髪をみることでそれが妹だと気がつくことになる。
「ダズィ何──」
すんだと言おうとすると床にぱさりと赤い髪が落ちる。自分のものか、それともダズィのものか。兄妹には判別はできなかった。
でも髪が水の上に落ちて青色に照らされると同時に──
──斬撃
斬撃が頭を掠めた。斬撃が、冷たい死が二人を嘲笑う。お前たちは狩られる側だとその一撃が伝えていた。あの男の次はお前たちだとその攻撃は告げているようだった。
「ひっ」
体が強張っていく、しかしそれでは死んでしまう。二人とも、よくわからない何かに殺される。それは嫌だ、死にたくない。
──斬撃
動け
──斬撃
動け、動け
──斬撃
動け動け動け!
イドは転がりながら、足をもつれさせながらも立ち上がり、ダズィを連れて店の外へと転がり出る。割れた窓ガラスが床に散らばった。
上がった呼吸を抑えようとした途端に、カチンと一気に白い光が二人の目を覆った。
「くっ──」
「なに?」
絡みそうなほど眩しい光に、二人は足を止める。霞む視界の要因、サーチライトの逆光の先に亡霊のように佇む大勢の人影があった。それらは巣穴から飛び出してきた生き物を待ち伏せしているようで。それが、一体誰なのか。申渡か、あるいは自分たちか。今わかるのは『これに捕まったら終わりだ』ということ。確証はない、これは単なる直感だ。
だからここで立ち止まってはいけない!
「くそ、くそくそ!」
「え──」
イドは戸惑うダズィの手を握り、動揺する声をだす人々の間を突っ切り裏路地へと入っていった。入る直前に「おい待て!」という声が聞こえたがそれらを振り払い、暗い路地を進んでいく。
息を切らしながら走る。暗い路地、空の上では洗濯物がパタパタとはためいている。いつも見ている当たり前な風景なはずなのに、今は別世界に見えた。サイレンの音も、銃の音も、路地に潜む多様な形の悪意も、今朝までは気にせずにいられたのに。今はそれらの一挙手一投足が癇に触る。ちょっとした足音も、表から溢れてくる車の光も、壁の落書きも、道に捨てられているぬいぐるみも、全て全て、全て全てが腹立たしい。
あいつらが何なのかわからないけれど、自分だけならまだ逃げおおせるかもしれない。でも今は猫と妹がついている。それにこんな時間だ。ここでもし警察に見つかったら補導されるから、表には出られない。でもこうしてここを歩き続けても先ほどのよくわからない連中に捕まってしまう、そもそもあれらから逃げたのは正解だったのか?あれらが追いかけてくる可能性があるとしたら、逃げないことが正解だったのでは?だとするともう一度あそこに戻るか?あの得体の知れない連中のところまで戻るのか?けどそれが何の意味があるんだ。もう戻れるところなんてないのに。あんな得体の知れないものが、怪物が潜むあの店の近くになぜ戻る必要があるんだ?
だから今自分がやっていることは正しい。正しいはずだ。間違っていたら、何かが噛み違えていたら二人とも死んでいたかもしれない。
だからこそ今は逃げるのが正解だ。どこまで、いつまで、路地の中をぐるぐると歩き続けるのか?
巡る思考の中、暗闇で手を握る少女が水をさす。
「……あの人たち、何だったの?」
少女の声は小さいのに、少年の思考を邪魔するには十分だった。しかしそんなことを言われても少年はただ
「……わからない」
と言うしかない。
「あんなにたくさん、あの人たちなんでお店の前に」
少女の問いは続く。けれど全ての疑問に答えが返ってくるわけではないだから少年は
「わからない、」
そう答えるしか無かった。もう何も問われないように、切り捨てるように。そう答えるしかない。もう何も聞かないで欲しかった。もう何も言わないで欲しかった。思考を妨げないで欲しかった。だと言うのに、
「それになんであそこで、申渡さんが死んでたの!?」
なんて、声を張り上げて訪ねてくるから。きっと思考がゴチャゴチャになっていたことが原因だろう。
次の瞬間──
「──だから分からないって言ってるだろ!!」
と溜まりに溜まった苛立ちにも近い声が路地裏の全域に響き渡った。
声が反響して、道端に落ちている瓶の中の水が小さな波紋を作り出す。
頭の熱が放出されて冷静になったからだろう。
「あ、ごめ」
イドは後ろを振り返ると、ダズィは小さく口を開けて固まっていた。その様子を見たイドは膝から崩れ落ちた。
二人とも、放心状態に近く周囲のことなど見る余裕もなかった。しばらくの間車の音と信号機の音だけが小さく響いていた。
「──全く。何だかやばそうことが起きていそうだから見に来たものの、何だこの状況?」
男の声だった。軽薄だが、ガラガラと重い何かを抱えるような声。猫が地面に降りて猛獣のような唸り声を上げる。
二人は声の主を確かめようと周囲を見渡す。
「ったく、そっちじゃねえよ。相手がいつだって真正面からくると思ったら大間違いだぜ?」
もう一度聞こえた声の場所、洗濯物がはためく空を見上げた。
「やっとこっちを見たな」
ニヤリと笑うその男の眼光は、まるで台風を覗き込む目のようだった。




