第5話 境界の気配
エルフの森は、今日も穏やかだった。
風が葉を揺らし、柔らかな光が枝の隙間から降り注ぐ。
いつもと変わらない、静かな朝。
だが――
森の奥で、ほんのわずかに空気が歪んだ。
それは音でも、光でもない。
ただ、空間が一瞬だけ揺れる。
水面に落ちた小石のように。
世界の表面に、小さな波紋が広がった。
「………………」
その中心にいたのは、ルチェだった。
ルチェは一人、森の中を歩いていた。
さっきまで一緒にいた子供たちの声は、もう聞こえない。
静かな森。
自分の足音だけが、草を鳴らし、響く。
「…………?」
胸の奥が、少しだけざわざわする。
理由は分からない。
でもーー、いつもと「何か」が違う。
風がふいに、頬を撫でた。
その瞬間。
ルチェの周囲の空気が、ふわりと揺れる。
金髪の髪が、不自然に舞う。
目には見えない。
けれど確かにそこにある――
透明な膜のようなものが、ルチェを中心に広がる。
森の空気が、押し返えされたように震えた。
途端に、音が消える。
ルチェの結界だった。
彼女が意識しているわけではない。
生まれた時から、ずっとそうだった。
ルチェの周囲には、常に結界がある。
触れれば弾かれ、
魔力を歪ませ、
他の魔法を不安定にする。
そして今。
その結界が、森の空気に触れた瞬間だった。
カサリ、と葉擦れの音が戻る。
歪みは、静かに消えた。
まるで。
最初から、存在していなかったかのように。
ルチェがふいに立ち止まる。
「……?」
首をかしげる。
見つめる森の景色は、何も変わらない。
でも。
何か、が。起きた気がする。
けれど、何が起きたのかは分からない。
ただ、一つだけ。
胸の奥のざわめきが、いつの間にか。
すっ、と静まっていた。
自分の胸元を見やり、手で撫でさする。
「……ふしぎ」
そう呟いて、また歩き出す。
森はいつも通りだった。
エルフの森、世界樹の居所。
窓辺から、空の青と、鬱蒼と広がる森林の緑の。
その境を眺めていた少年が、一人。
黒髪黒目。
エルフの耳を持つ混血の王子。
リューセイだった。
その黒目は、今。
訝しげに、眼下の森を凝視していた。
「……今の」
誰にも聞こえない声で、呟く。
「見えた」訳ではない。
感じた、とでも言えばいいのか。
胸が、ざわざわとする。
森の空気が、一瞬だけ揺れた。
ほんのわずかな歪み。
普通の者なら、気付かない。
だがリューセイは、目を細めた。
「……なんだ?」
一瞬の間。
歪んだ空気が整った。
いや――……
整えられた。
そんな感覚があった。
森を見渡す。
誰もいない。
いや、いたとしても、こんな遠い場所から、わかるはずもない。
なのに。
「……誰か、いる」
理由は分からない。
だが確かに感じた。
世界が一瞬、触れた。
その中心に。
誰かが、いた。
遠くの森を見つめながら、リューセイは小さく呟いた。
「……なんだ、それ」
呟いた自分の声に。
胸のざわめきが、何故か余計に大きくなった。
その頃、森の奥で。
ルチェのブレスレットの宝石が、またほんの少しだけ温かくなっていた。
だが、気付かない。
まだ、知らない。
誰も。
世界の境界がーー
静かに。
揺れ始めていることを。




