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第19話 越えない




葉擦れの音が響く。

森は静かだった。


あの夜以来。

大きな崩壊は、起きていない。


それは、不幸中の幸いだった。

あの夜以降。

ルチェは、深く深く。

眠り続けていた。

誰の呼びかけにも答えないほど、深く。

まるで全てを、出し切ってしまったかのように。

殿上医に見せても、身体は至って健康体だという。

自然に目覚めるのを待つしかない、ともいわれていた。


だが――

異変は。

完全に、止まったわけでもなかった。


「……まだ、あるな……」


アルマが地面を蹴る。

細い亀裂。

昨日よりは小さい。

だが、確実に残っている。


「消えてないわね……」


メディウムがぽつりと呟く。

なんとか数日で目覚めたルチェは、懲りずにくっ付いてきて、リューセイの服の裾を握っていた。


「……まだ、ひらく?」


不安げな声。

リューセイは少しだけ間を置いてから、答えた。


「……完全には、止まってない」


嘘はつかない。

ルチェは、小さく頷いた。


「……そっか」


そのまま、何も言わない。




空を見上げる。

青い空。

揺れる緑の枝葉。

いつもの空。

――のはずなのに。


「……またか」


リューセイの視界が、僅かに歪む。

重なる。

ほんの一瞬。

その色が濃く、深くなる。


蒼い空。

巨大な樫の大樹。

そして――

そこに立つ、一つの影。


「……っ」


ふっ、と。

消える。

蜃気楼のように。

他に誰もーー気づいていない。

だが、リューセイだけは確信する。


(……向こうは、まだ。繋がってる……)






その夜。

リューセイは、また一人で森にいた。

深域。

境界の揺らぎが、強い場所。


「……出てこいよ」


ため息混じりに言う。


「いるんだろ」


沈黙。

僅かな間。

そして――


「呼び出し方、雑すぎじゃない?」


軽い声。

振り返らなくても分かる。


「居るだろうと、思った」


リューセイが言う。

少年は肩をすくめた。


「まぁね。今のお前、放っとくと勝手に越えそうだし」

「……越える?」

「境界」


にやり、と少年は笑う。


「今のお前なら、行けるよ。「向こう側」」


青い髪が空に流れ。

弧を描く唇が、深くなる。


「——前にも、いたからね。そういう奴」


風が、止まる。


ドクン、と。

音が鳴った。

喉が、渇く。


「……行ける、のか」


(越えれば——)

(全部、分かる)


リューセイの声は、低い。

少年は軽く頷いた。


「条件は揃ってる」


指を一つ二つと折りながら、数える。


「共鳴、調律、接続。あとは――」


少しだけ、銀のその目を細めて。


「「向こうに繋がってる存在」が、いるからね」

「…………」


それが誰か、なんて。

考えるまでもない。






ザワザワと、森が騒ぐ。

強い風が、いきなり吹いた。

リューセイの黒髪が、少年の青髪が空に踊る。


「……行ったら、どうなる」

「さぁ? 戻れる保証はないかも、ね」


あっさりとした返事。


「……そうか」

「でもさ」


少年がふわっと、一歩リューセイに近づく。


「向こうには、お前の望む「答え」。あるかもよ?」


銀の瞳が、まっすぐにリューセイを見る。


「境界のことも」

「お前自身のことも」

「――あの人のことも」


胸の奥が、ざわつく。


ドクン

ドクン、ドクン


鼓動が、早く、強くなる。

目を閉じる。

ぎゅっと、胸の前で手を握る。


(……行けば、分かる)

(きっと)

(ーー全部)


だが。

その時。

小さな手が、頭をよぎる。


「おにいちゃん」


ルチェの声。


「ありがとう」


あの時の笑顔。


メディウムの、不安そうな顔も。

アルマの、苛立ったような横顔も。


次々に浮かんでは、過ぎる。

いろんな人の表情(かお)


色々なものから。

逃げて。

避けて。

隠れてきていても。


それでも関わった、いろんな人のーー


(……ここには)


息を、吐く。一つ。

長くーー、吐ききる。

目を開く。

一歩、踏み出しかけた足を、戻す。

しっかり少年を見据えて。


「……行かない」


はっきりと言った。






「へぇ?」


少年が、少しだけ驚いたように眉を上げる。


「即答じゃん」

「考えた」


リューセイはふと空を見上げた。

見えない境界。

だが、確かにそこにある。


「向こうに行けば、分かるかもしれない……。でも」


視線を、落とす。




「「ここ」が壊れる」




静かに言った。

拳を握る。


「ルチェ一人じゃ、止めきれない」

「メディウムにも、アルマにも」 


一瞬、言い淀む。

だが、それは無意味だった。

音が、鳴る。

言葉が勝手に溢れた。


「……多分、俺がいないと無理だ」

「…………」


少年は、何も言わない。

にっこり笑ったまま。

ただ、聞いている。


「だから」


リューセイは、少しだけ笑った。




「「ここ」で、やる」




風が、ふっと揺れる。

少年が、肩を竦めた。


「……なるほどね」


少年が、小さく呟く。

その表情は、どこか柔らかい。

だが。

何故か、少し。

寂しそうにも見えた。


「「越えない」かぁ」


リューセイは、答えない。

ただ、じっと少年を見る。

その黒い瞳と目を合わせ。

にぱっと笑って。


「いいじゃん」


少年は、そう言ってくるりと背を向けた。


「それーー、お前らしいよ」


青髪を揺らして。

肩越しに、振り返る。


「……でもお(リューセイ)


弧を描く唇。笑う。


「……消えかけてるけど、ね」

「……なんの話だ」


少年は、くすっと笑った。


「「向こう」に、引っ張られてる」


一歩、リューセイに近づく。


「このまま「繋ぎ続けたら」さ」


ふわり、青髪が風に揺れた。


「お前、「こっち」に。ーー残れないかもよ?」






静寂が、流れる。

風が吹く。

少年の姿が、少しずつ。

闇に薄れていく。


「またね」

「……ああ」


完全に、その姿が消える。

気配も。

音、さえもなく。

疑問だけを、残して。


「…………」


リューセイは一人、空を見上げた。

木々がざわめく。

夜空に瞬く、数多の星々。


(……越えない)


その代わり。


(……繋ぐ)

(たとえーー、俺が消えても)


ドクン

胸の奥で、何かが定まる。






その時。

空が、微かに揺れた。


ほんの一瞬。

重なる。また。

蒼い空。

樫の大樹。


そして、遠く。

樫の大樹。石造りの街。

クェルクスが、こちらを見ていた。


「…………」


言葉は、ない。

だが、その瞳は。


――わかっているようだった。


リューセイは、ゆっくりと頷く。

ぎゅっと、拳を握る。


(……ここでやる)




風が、吹く。

森が揺れる。

地面が動く。

境界は、まだ不安定なまま。

だが。

もう、決めた。




越えない。




ここで。




ーー守る。




それが――

リューセイの、選んだ道だった。

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