第17話 灯火の歌
夜の森は、ざわついていた。
風はない。
それなのに。
葉が擦れ合う音が、止まらない。
「……また……」
メディウムが呟く。
地面に、細い亀裂。
昼間よりも、はっきりと。
「これ……広がってる……」
アルマは舌打ちした。
「冗談じゃねぇな……」
――パキッ
またひとつ。
何かが、割れる音。
森が、小さく揺れた。
「下がれ!」
アルマが叫ぶ。
だが。
今回は違った。
暴走、ではない。
じわじわと。
侵食するように。
「……境界が、削れている……」
リューセイの言葉に、誰も否定できない。
その時。
ルチェの手首。
琥珀の宝石が、淡く光る。
「……あ」
ルチェが息を呑む。
光は、小さい。
けれど。
確かに。
外へと漏れている。
「……とめ、ないと」
ぽつりと、言った。
「何を?」
アルマが聞く。
ルチェは、少しだけ迷って。
それでも。
顔を上げた。
「きょうかい」
沈黙。
「ぬいとめるの」
その言葉に。
メディウムが、はっと顔を上げる。
「……できるの……?」
ルチェは、首を振った。
「……わかんない」
正直な答え。
だが。
その目は、逃げていない。
「でも……このままだと」
言葉が切れる。
その続きを、誰もが理解していた。
「やるしかねぇ、か」
アルマが息を吐いて、ルチェを見る。
「どうやるんだ?」
ルチェは、自分の手を見る。
琥珀の光。
ゆらゆら。
揺れている。
「……うたう」
「は?」
アルマが間の抜けた声を出す。
ルチェは、少しだけ恥ずかしそうにモジモジしながらも言った。
「まえ、おしえてもらった」
遠い記憶を辿るように。
「ともしびの、うた」
メディウムの目が、見開かれる。
「それ……まさか……」
「うん」
ルチェが、頷く。
「きょうかいを、つなぎとめる、うた」
眠れない夜。
パパに教えてもらった謳。
『覚えておいて。きっと、役に立つ筈だから』
確かに、そう。言っていた。
静寂。
風もないのに。
森だけが、ざわめいている。
「たぶん、ルチェしか、うたえない」
「は?」
アルマが眉をひそめる。
「みんな、しらない。ルチェとーーパパ、しか」
「……それって」
メディウムが、怖々と聞く。
「守護者の、謳……?」
「たぶん?」
少し首を傾げたルチェは、そう呟いて。
「……やる」
息を吸い込み、一歩前に出た。
その瞬間。
リューセイが、そっと横に並ぶ。
「……一人でやる気か」
低く、言う。
視線は会わない。
前だけを見ている。
ルチェは、少し驚いて。
そして、笑った。
「……おにいちゃん、ありがとう」
リューセイは何も言わない。
ただ、そこに立つ。
ルチェが差し出した小さな手。
それを、そっと握る。
それだけで。
不思議と。
空気が、安定した。
ルチェは、そっと目を閉じた。
深く、息を吸って。
吐く。
震える指を、ぎゅっと握る。
「……いくよ」
誰にともなく、呟き。
ルチェは、目を閉じた。
そして。
小さく、歌い出す。
r……Elthia... noar vel...」
聞いたことのない言葉。
けれど。
どこか、懐かしい響き。
「……Synra... kalen ti....」
小さな、灯りのような音。
空気が、震える。
風が、止まる。
Г......Seira」
最後の音は。
ほとんど、息のように消えた。
小さな光が。
消えかけていた灯りが。
「……Elthia... noar vel...」
そして。
かすかに。
――もう一度、灯る。
「ーーかえれ」
意味は、確かにある。
流れ込んでくる、何か。
空気が、変わる。
ざわめいていた森が。
少しだけ、静かになる。
はらり、はらり、落ちた葉が舞う。
「……すげぇ……」
アルマが呟く。
メディウムは、目を離せない。
ルチェの周りに。
ふわふわ、ヒラヒラ。
淡い光が、広がっていく。
それは、線となり。
地面の亀裂へと、伸びていく。
「……縫ってる……」
メディウムが震える声で言う。
糸のように。
光が、亀裂を縫い、繋いでいく。
だが。
「……っ……!」
ルチェの声が、揺れる。
「無理すんな!」
アルマが叫ぶ。
ルチェは、首を振った。
謳を、止めない。
だが。
舞う光が、乱れ始める。
その瞬間。
――ドクン
リューセイの足元。
魔法陣が、浮かぶ。
「……またか」
いい加減、驚きもしない。
小さく呟き、ため息を吐く。
だが今回は。
何か違った。
境界に、引っ張られている感覚ではない。
魔法陣の光は、自分とルチェの周りを、くるくると舞う。
繋いだ手に、集まる光。
(……この謳……。まさか、一人じゃ成立しないのか……?)
リューセイが黒目を細め。
「……支えろ、ってか」
誰に言うでもなく。
そう言って。
ルチェの手を、握り返し。
目を閉じる。
力が巡るように。
周囲にーー、響くように。
瞬間。
――おん
音が、重なる。
ルチェの声が。
森のざわめきが。
空の歪みが。
全部。
一つの「ズレた音」として聞こえる。
耳、いや心に。
(……外れてる)
一つじゃない。
森も、空もーー、すぐ傍のルチェの声も。
リューセイは、静かに息を吐いた。
(なら)
「ーー合わせるだけだ」
ルチェの歌が、ふわりと安定する。
揺れていた光が、カチッと整う。
「……え……?」
ルチェが目を見開く。
リューセイは、目を閉じたまま。
「続けろ」
それだけ言う。
声は、静か。
けれど。
確信があった。
ルチェは、頷き、謳う。
今度は。
はっきりと。
もっと、強く。
灯火が、揺らいで大きくなる。
光の糸が、太く広がる。
亀裂を、繋ぎ。
縫い合わせていく。
森が、ゆっくりと。
静かになっていく。
ざわめきが、消えていく。
「……止まってる……」
メディウムが呟く。
確かに。
森の崩壊が、止まっている。
だがその時。
――ピシッ
小さな音。
確かに、聞こえた。
その音に、誰もが凍りつく。
だが、見えない。
確かに。
新たな亀裂が、生まれたはずなのに。
「……っ!」
ルチェの声が揺れる。
「……ぜんぶ……っむ、り……っ!」
リューセイが、ふと目を開ける。
背後に出来た、新たな亀裂。
その光景を、見て。
静かに言った。
「いい」
「……え?」
ルチェが、振り向く。
「全部じゃなくたって、いい」
その言葉は。
不思議と、重かった。
「今、ここを止めろ」
ルチェの瞳が、揺れる。
そして。
強く、頷いた。
「……うん!」
謳が、さらに強くなる。
光が、ギュンと収束する。
守る範囲を、限定的に絞る。
亀裂が、じわじわ閉じていく。
完全に、ではない。
だが。
確実に。
「……戻っ、た……?」
アルマが、息を吐く。
森は、静かだった。
今度こそ。本当に。
その瞬間。
パチン!
電池が切れたかのように。
ルチェが、その場に崩折れる。
「ルチェ!」
「おいっ!」
リューセイが支える。
メディウムが駆け寄る。
「大丈夫!?」
「…………すー…………すー…………」
ルチェはまた。
目を閉じ、いきなり寝入ってしまっていた。
メディウムが赤瞳をぱちくりとして。
ほっ、と息を吐く。
ルチェを抱えたまま。
リューセイは、空を見上げていた。
また、何もない空。
けれど。
分かる。
(……終わっていない……)
むしろ。
始まったばかり。
そんな気がした。
揺らいでいた空に。
「さっきの謳……」
少し迷ってから。
ぽつりと言った。
「……向こうにも、届いていた。そんな気がする」
メディウムとアルマが、息を飲んだ。
その感覚は、そう。
まるで胸騒ぎのように。
確信があった。
あの空の向こう。
あの視線の先。
(……聞いてるな……)
そんな確信が。
森の奥。
第三結界内、保護区、深域。
誰もいない場所。
ひとつの影が、ぼんやりと立っていた。
「……へぇ」
軽い声。
青い髪が揺れる。
少年。
木にもたれながら、空を見上げる。
「やるじゃん、ちびっ子」
くすっと笑い。
その銀瞳を細めた。
「でもさ。「それ」、縫ってるんじゃなくて――」
空の向こうを、見透かすように。
「引き裂かれないようにーー、誤魔化してるだけだよ?」
風が、何処からともなく吹く。
森が、かすかに揺れる。
少年は、それだけ言って、ふっと消える。
残ったのは。
静かな夜と。
小さなーー、綻び。
それは、まだ。
誰にも見えていなかった。
世界樹の居所。
リューセイの自室。
ベッドと衣装棚、小さな机があるだけの。
殺風景な部屋。
その窓辺。
バルコニーの手すりから、森を。
世界樹の枝葉広がる、星が瞬く夜空を見上げて。
一人、佇んでいた。
何故か。
なかなか寝付けないでいた。
胸が、騒ぐ。
ドクン
「……っ」
胸を押さえる。
確かに脈打つそれ。
だがーー
「....ズレてる......?」
何かが、違う。
自分の感覚と。
鼓動が、合っていなかった。
「なんなんだよ……」
くしゃっと黒髪を掴み、呟いた声は。
夜の闇に溶けるように、消えた。




