第1話 エルフの森・深域(後編)
幼女の指は、驚くほど小さかった。
俺の袖を掴む力は弱い。
俺が振り解こうとすれば、簡単に外れそうだ。
だが、離そうとしない。
「……こわい」
その声は震えているのに、不思議と森の揺らぎよりも、俺の耳に重く響いた。
俺は一瞬だけ目を閉じる。
関わるな。
それが賢い。
目立つな。
それが安全だ。
だが――。
「もう、大きくは揺れない」
気づけば、つい。
そう言ってしまっていた。
根拠はある。
さっき固定した位相は、今まだ、均衡を保っている。
空の裂け目は細い線のまま、拡張する兆候はない。
ただ。
「消えていない」。
そこが問題だった。
魔術師団の内の一人が、俺たちに気付き、こちらへと近づいてくる。
「お前たちっここは深域だぞ! 下がれ!」
中年の術者が険しい顔でそう言う。
俺は一歩、さりげなく幼女の前に出た。
何故かはわからない。
隠れるのは俺の方なのに、何故か幼女を今、隠さなければいけない気がした。
「すみません。遊んでたら間違えて入っちゃって……。すぐ帰ります」
「間違いで入れるような場所ではない!」
恫喝が飛ぶ。
確かにそうだ。
口調を整えてみたものの、無駄だったようだ。
「ここ」はエルフの森でも、世界樹がある保護区・深域。
第三結界森守護隊の魔術師か。
王族であるハイエルフ、それも限られた者しか、入れない神域。
だが今は、そんな事を考えている場合ではない。
幼女が掴んだままの、俺の服の裾を引く。
「また、ひらくよ」
「……分かるのか?」
彼女はこくりと頷く。
「むこう、みてる」
「っ」
ゾクリと背筋が凍る。
首の後ろがビリビリする。
俺も感じている。
裂け目の奥。
その気配。
敵意ではない。
が、観察するかのような視線。
二十年前、世界が繋がったというその時と――
いや、それ以上に「近い」。
「結界を再構築する! 広域封鎖だ!」
声がして、準備を終えた魔術師たちが再び、そこに多重の陣を敷く。
どうみても、質量が足りない。
さっきの衝撃で魔力が乱れている。
位相も合っていない。
このまま無理に重ねれば、逆に刺激する。
「やめたほうがいい」
思わず、口から出た。
術者たちが一斉に振り向いた。
幼女が俺の背後で、びくりと震える。
「何だと?」
「今、位相がずれている。強く当てると広がるぞ」
落ちる沈黙。
お互いの顔を見合わせる者。
鼻白む者。
その他色々の気配がざわめく。
十歳の子供の言葉。
本来であれば、聞く価値はない。
だが。
「……どうして分かる?」
さっき俺たちに話しかけてきた、中年の術者の鋭い視線が刺さる。
やばい。
言い過ぎた。
そんなつもりはなかったのに。
幼女を他者から隠しながら。
「勘です」
即答する。
だが次の瞬間――
不協和音。
空が、また軋んだ。
木の葉が巻き上がり、土埃が視界を塞ぐ。
一本の線が震え、メキッと縦に伸びた。
傍らで小さく、息を詰める気配。
幼女の結界が、再び悲鳴を上げる。
「っ……!」
今度は二秒もない。
虚を突かれた術者たちが、動くより早く。
俺は咄嗟に足を踏み出していた。
「リューセイ!」
背後で誰かが、俺の名を呼んだ気がした。
構うな。
隠蔽を一段階、解除。
途端に世界の解像度が上がる。
裂け目の縁が、はっきりと見える。
歪んだ繊維のように絡み合う空間。
そこへ――指先を伸ばす。
触れない距離。
触れるのは、危険だ。
だから、ギリギリを合わせる。
仔細に編んだ、位相。
自分の位相を、ほんの僅かに重ねる。
境界の振動と、連動・同調させる。
(――止まれ)
音が、消えた。
森が、凍る。
空の裂け目が、静止する。
幼女の結界と俺の干渉が重なり、ひとつの膜になる。
「向こう側」。
蒼い、樫の大樹。
広がる石造りの建物と、街に広がる樫の木の根と緑。
石畳の広場。
一瞬だけ、影が動いた。
長い耳。
新緑の衣。
揺れる濃茶色の長髪。
こちらを見ている。
視線が合う。
冷静で、深い瞳。
――越えるな。
頭に響く音。
だが声はない。
それでも確かに、伝わった。
次の瞬間。
空の裂け目が収縮する。
一筋の線が、徐々に細く、短くなり――
そして消えた。
吹き荒れていた暴風が、穏やかな風に戻る。
サラサラとした葉擦れの音が、森に帰ってくる。
「…………っ」
俺は息を吐き、膝をつきそうになるのをなんとか堪える。
力を使いすぎた。
だが、致命的な量じゃない。
隠蔽魔法を再展開。
存在を薄める。
「今のは……」
第三結界森守護隊、魔術師団の者たちが、呆然とその場に立ち尽くす。
幼女が、俺の腕を強く握る。
「!」
「おにいちゃん、いた」
その言葉に胸がざわつく。
何故? 浮かんだ問いを即座にかき消す。
俺は、目を逸らす。
「偶然だ」
「ううん」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐに言い切る。
「いないふり、してるだけ」
心臓が跳ねた。
子供の勘だ。
だがそれにしては、鋭すぎる。
悟られぬよう息を吐いた時、あの中年の術者が歩み寄ってきた。
「君、名前は?」
「…………」
一瞬、迷う。
隠し通すか。
誤魔化すか。
だが今は、完全に逃げるのは不自然だ。
「……リューセイ」
「!」
名乗る。
ただ、それだけで空気が変わる。
中年の術者の目が、僅かに見開かれる。
その名を持つ者は、この世界樹の居所がある森では、俺の知る限り……、俺しかいない。
ハイエルフの血を引く家系。
その「例外」。
正当な王族であるハイエルフと、人族との間の子。
黒髪黒目の、隠された王子。
上層部が密かに、把握している存在。
「……リューセイ……。お前は、いや、貴方様はやはり、あの……」
中年術者が何事か言いかける。
だが俺は遮る。
「偶然です」
リューセイなんて名前、別に、珍しくも何ともない。
何処にでも、ある名前だ。
それ以上、踏み込ませないように。
強く告げ、僅かに身構える。
不意に傍らの幼女が、袖を引く。
「るちぇ」
「……何?」
「わたし、ルチェ」
小さな幼女の自己紹介。
場違いなほど、無邪気な声と笑み。
俺は少しだけ、口元を緩めた。
「そうか」
ルチェ。
金色琥珀の灯火の名。
世界を無意識に守る幼な子。
その頭に手を置いて撫でると、中年術者は頬を掻いて言葉を引っ込め、そこから離れる気配がした。
「まだ油断はできん! 森中を隈なく見て回れ! 第二、第一森守護隊にも伝令を飛ばせ!」
「はっ!」
声と共に、魔術師団の面々が周囲の安全確認へと散っていく。
少し、肩の力が抜ける。
どうやら、今回は本当に収束したらしい。
だが、俺には分かる。
あれは、「閉じた」のではない。
ただ、「引いた」だけだ。
向こう側が。
試すように。
様子を見るように。
そして。
俺を、見た。
俺も、見た。
空を睨む、俺の手をルチェが握る。
「また、あえる?」
その問いに、答えようとして――
一瞬だけ、言葉が詰まった。
(……関わるな)
そう決めていたはずなのに。
小さな手が、離れない。
振りほどこうと思えば、簡単なのに。
なぜか、そうしようとは思わなかった。
それどころか。
――離したくない、と。
ほんの一瞬だけ。
そんな感覚が、胸の奥を掠めた。
「……さあな」
掠れた声で、そう返す。
だが。
「揺れたら、来る」
気づけば、つい。
そう言っていた。
(……なんで、俺が)
自分でも、分からない。
ルチェの顔が、ぱぁっと明るくなる。
「うん!」
その笑顔に。
胸の奥が、微かに軋んだ。
(……ああ、クソ)
もう、遅い。
完全に振りほどくことなんて、最初から出来なかったんだ。
俺は小さなその手を。
今度は、自分から握り返す。
――さっきまで遠かったはずの位相が、小さな手に導かれるように、近くなる。
「……っ」
微かな息遣い。
ルチェの肩から、ふっと力が抜けた。
さっきまで震えていた指が、ぴたりと止まる。
「……だいじょうぶ」
ぽつりと、呟く。
誰に言われたわけでもないのに。
まるで、「最初から知っていた」みたいに。
その表情は、どこか——安心しているように見えた。
「!」
少し後悔しながら、息を飲む。
その笑顔は、ずるいだろ。
僅かに目を逸らし、口元を片手の甲で隠す。
顔を見られないようにしながら、ルチェの手を引いて歩き出した。
森を出る間際、俺は背後を振り返った。
裂け目はない。
だが確かに。
向こう側の深緑の視線は、まだ。
留まっているような気がした。
ーー越えるな。
あの無言の警告。
分かっている。
俺は越えない。
越えたら、壊れる。
どちらか。
あるいは、どちらも。
だから俺は、留まる。
……いや。
気づけば、もう。
離れていなかった。
小さな手が、まだそこにある。
「……」
俺は、何も言わないまま。
その手を、引いた。
――今は、まだ。




