第1話 エルフの森・深域(前編)
俺は十歳にして、自分が「普通ではない側」の人間だと知っている。
それは誇りじゃない。ただの、事実だ。
エルフの森、第三結界内、深域。
本来なら、子供が入れる場所じゃない。
だが俺は、誰にも見つからずにここまで来られる。
気配を消すのは得意だ。
――消えるのは、もっと得意だ。
空気が、ヒビ割れていた。
目に見えるわけじゃない。
けれど、分かる。
耳鳴りのような振動が、森全体に薄く広がっていた。
「……始まってる」
俺は足を止めた。
少し先の開けた場所で、第三結界森守護隊、魔術師団の制服が揺れている。
「境界反応、拡大中! 結界維持班、前へ!」
上がる怒号。
多重詠唱。
渦巻く光。
地面に展開された複数の魔法陣が、淡く輝いている。
その中央――
ぽつん、と。
金色が世界に揺れた。
小さな背中。
白いワンピース。
素足。地面の上にあるのに、何故か汚れていない。
五つか、六つか。
年端もいかない幼女が、ただ、立っている。
今にも泣きそうな、そんな気配で。
「……また、ゆれてる」
ぎゅっと。
小さな手が、胸元を掴む。
彼女の声は震えていた。
だが、その周囲だけがいやに静かだ。
俺の周囲は暴風が吹き荒れ、空を飛ぶ葉が踊り狂っているというのに。
半径十数メートル。
落ち葉すら舞わない。
不可視の膜が、彼女を中心に張られていた。
「音」は、聞こえなかった。
故に無詠唱だと推測する。
幼女自身も気付いていない、無意識下でのもの。
常時展開しているかのような、抜群の安定さで。
化け物じみた、膨大な結界が。
「!? 何故、こんな所に子供が」
中央にいる金色に気付いて、魔術師の一人が呟いた瞬間――
響く不協和音。
刹那、空が裂けた。
斬撃のような痕が、一直線に走る。
空間が、音を立てて口を開ける。
「退避――!」
上がる声。
だが、遅い。
衝撃が地面を舐め、魔術師たちが吹き飛ばされていく。
展開途中の結界陣が砕け散り霧散する。
それでも、幼女の周囲だけは守られていた。
彼女の結界が、外圧を押し返している。
だが――、軋んでいる。
不快音が耳を裂く。
ヒビが入る音が、俺には聞こえた。
「……三秒」
俺はこっそり呟いた。
三秒で崩れる。
その瞬間、線だった裂け目が拡大する。
パックリと。
「向こう側」が、覗く。
蒼い、樫の大樹。石造りの建物。
世界樹の居所があるこの世界の森とは違う、匂い。
――やっぱり。
奥歯を噛む。
知っている。
この揺らぎ、の正体を。
二十年前に起きた「奇跡」。
境界の綻び。
異世界との接触。
そして、それが完全に終わったわけじゃないことも。
「…………」
出れば、気づかれる。
彼奴らに。
監視の目に。
だが。
俺が出ていかなければ――
あの子が、壊れる。
「……くそ」
毒付き、俺は一歩前に出た。
森のざわめきが遠ざかる。
息を吸うのに集中する。
身体を巡る。
自分の魔力の輪郭を掴む。
空を抉る線を。
暴れないよう、抑えつける。
必要なのは「固定」。
攻撃じゃない。
ズレた空間の位相を、揃えるだけだ。
俺は右手を、わずかに上げた。
瞬間――
世界のノイズが静まる。
蠢く裂け目がぴたり、と動きを止めた。
俺の足元から、ふわりと見えない波紋が広がっていく。
ヒビ割れ空間の縁を掴み、ゆっくりと押し戻す。
結界を重ね、補強する。
軋みが、止む。
それと同時に。
幼女の結界が、再び安定する。
裂け目は、細い線へと収縮した。
(――よし)
俺は即座に、自分の魔力を引っ込めた。
その代わりに、別の魔法を展開する。
隠蔽魔法。
自らの存在を薄める。
その場から消す。
空間は静まり返った。
暴風に吹っ飛ばされた魔術師たちが、ようやくなんとか起き上がり立ち上がる。
周囲を見回し、空を見上げる。
「……収束した?」
「いや、誰かが干渉したぞ」
「上位術者か!?」
違う。
違うが、違わない。
口々に上がる声に、つい意識を向けたが。
誰も気付いていないのを確認して、俺は木陰に戻る。
関わらない。
それが正解だ。
面倒事に巻き込まれる前に。
気付かれる前に。
隠れられたはず、だった。
幼女が、不意に背後を振り向いた。
琥珀色の瞳が、まっすぐに「俺」を捉える。
いや、錯覚だ。
俺の隠蔽は完璧だ。
普通なら、見えない。
だが……彼女は、見ている。
ーー俺を。
「……おにいちゃん」
(!)
小さな幼声。
胸が、何故か嫌な音を立てた。
「いま……、さわった?」
空間のことを言っている。
見ていた?
いや、そんなはずはない。
彼女は背を向けていた。
俺は無表情を作る。
「知らない」
嘘だ。
だがそれでいい。
関わるな。
越えるな。
踏み出すな。
俺は――……
「また、ゆれるよ」
彼女がはっきりと言った。
その声はまるで、予言のようだった。
空を、見上げる。
細く残った亀裂の線が、まだ、消えていない。
「向こう側」が、「こちら」をまるで観察しているかのように。
「っ」
俺の背筋に、冷たいものが走る。
首筋の裏がザワザワする。
嫌な感じだ。
これは、まだ、終わってない。
あの「奇跡」は。
完全には閉じていない。
そして――
俺は、きっと。
もう一度、選ばされる。
出るか。
出ないか。
越えるか。
越えないか。
いつの間にか側に来ていた幼女が、俺の袖を掴んだ。
「こわい」
その一言で。
俺の選択肢は、ひとつ減った。
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