第13話 惑い・前編
朝の光が、世界樹の枝の間から静かに差し込んでいた。
森は、目覚め始めている。
美しい鳥の鳴き声。
葉を揺らす爽やかな風。
けれど。
窓辺に立つ少年の胸の中だけは、まだ暗い夜のままだった。
「…………」
リューセイ は目を閉じる。
昨夜のことが、何度も頭の中で繰り返されていた。
——越えるな。
あの声。
低く、静かな声。
蒼い樫の大樹。
その眼前に、佇んでいた人。
「……なんなんだよ」
ぎゅっ、と拳を握り、小さく呟く。
越えるな。
それだけを残して、理由は言わない。
それなのに。
胸の奥に残った感覚だけは、消えなかった。
(……越えられる)
あの歪み。
あの境界。
触れれば、きっと越えられる。
そう、確信してしまった。
昨夜、拒まれたから。
だが、それが問題だった。
空の裂け目。
境界の向こう。
そこにしか、いない人。
リューセイは、窓枠に手を置いた。
冷たい、木の感触。
まるで、自分に向けられるーー世界樹の居所そのものかのような。
温度。
「例外」だと監視され。
表では、出来たご子息だと持ち上げられ。
その裏で、混血だと罵られ。
多忙な母上との、距離感がわからず。
病床の父とは、簡単に、会う事さえ叶わない。
親類縁者たちはこれでもかと、良くしてくれるけど。
それがーー、余計に。
「向こう側」を。
鮮明にする。
街の中心にある大樹。
石造りの街並み。
他種族がーー、分け隔てなく過ごせる、世界。
ふと、空に手を伸ばしかけてーー
「リューセイくん?」
はっ、として引っ込める。
背後から声がする。
振り向くと、扉のところに メディウム が立っていた。
「朝食、食べるでしょう?」
「……ああ」
リューセイは短く答える。
メディウムは少しだけ目を細めた。
「眠れなかったの?」
「別に」
「顔に、そう書いてあるわよ」
リューセイは顔をしかめる。
くすくすと笑い、メディウムは軽く肩をすくめた。
ヒラリ、レースのスカートの裾が揺れる。
「昨日のこと、でしょう?」
リューセイは答えない。
その沈黙が、答えだった。
メディウムは歩み寄って、少しだけ窓の外を見る。
世界樹の枝。
朝の光。
穏やかな森。
「……怖い、のかしら?」
静かな声だった。
リューセイはすぐに否定する。
「違う」
そして、少し間を置いてから言う。
「いや…………。正直、わからない」
メディウムは何も言わなかった。
ただ、黙って続きを待っていてくれる。
リューセイは、そっと窓の外を見る。
遠く。
森の奥。
昨夜、歪みが見えた場所。
「越えられる……、気がする」
ぽつり、と言った。
メディウムが目を瞬いた。
「何を?」
「世界、を」
沈黙が落ちる。
風が枝葉を揺らす。
メディウムの薄緑の三つ編みが、サラっと空に踊る。
「……行きたいの?」
「…………」
リューセイは答えない。
昨夜の、あの声。
そして。
小さな手。
——「いかないで」
琥珀の瞳。
ルチェ の声。
何故か、胸が鳴る。
リューセイは息を吐いた。
項垂れる。
「行かない、と。……約束した」
息を吸ってから、短く言う。
「……今は」
どちらを選んでも、何かを裏切る気がしていた。
メディウムはその言葉を聞いて、小さく笑った。
「正直ね」
「……何が」
「迷ってる、って顔してるもの」
リューセイは黙る。
図星だった。
行きたい。
向こう側へ。
あの樫の大樹。
石造りの街。
そして。
あの声の主。
「……理由が知りたい」
リューセイは言った。
「……何の?」
「越えるなって、言った理由」
「誰かに……、何か、言われたの?」
リューセイは口ごもる。
だがここまで言って、変に隠すのもおかしいか、と考えて。
それを口にした。
「樫の大樹。石造りの街並み。他種族が穏やかに共存する国ーー」
遠く、を見るように。目を細める。
「空の裂け目から見えた、その街にいた、濃茶色の長髪の、エルフの男がーー」
「ちょっと待って!」
メディウムが、いきなり叫んでリューセイの言葉を遮る。
驚いたリューセイは、ハッとメディウムを見ようとして。
いきなり駆け寄ってきたメディウムに、ガシッと両肩を掴まれ、それどころではなくなった。
「……どういう事? どうしてーー。あなたが、その国を知っているの!?」
「め、メディウム、ちょ、落ち着いーー」
「答えて!!」
鋭い声が飛ぶ。
荒い息づかい。
どう見てもーー、普通じゃない。
だが。
掴まれた肩が、僅かに震えている。
自分の震えじゃ、ない。
「……っ……」
肩を掴かむ、メディウムの手が。
ーー震えている。
幸い、俯き加減のその顔は、見えていない。
雲が風に流れていく、空を見上げて。
リューセイはふぅ、と息を吐いた。
「……メディウムが、地震だと感じたあの時ーー。俺は空に、裂け目が見えていた」
「……裂け目?」
「ああ。まるで、空間をこじ開けたかのような。そんな裂け目の向こうに……、見えたんだ」
「…………」
メディウムの、息を飲む気配。
リューセイは息を吸って。
それから、静かに言った。
「樫の大樹の前に佇むーー、濃茶色の長髪を、風に揺らす」
「…………」
「深い、エメラルド色の瞳をした」
「…………っ」
「新緑の衣を纏う、エルフの男性を」
「ああっ」
両手で顔を覆って。
メディウムがその場に崩折れた。
「め、メディウム!?」
リューセイは、いきなり屈み込んだメディウムに、慌てて声をかけるが。
狼狽えたまま、どうすればいいのか、わからない。
暫くアワアワとしながら、リューセイがメディウムを見下ろしていると。
声が溢れ出た。
「それは……」
震える声。だけれどーー
「それは、間違いないーー」
絶対の確信を持って。
「……お父様、だわ……」
メディウムは呟いた。
赤瞳から、ポロポロと。
涙を溢れさせながら。
どう見ても嬉しそうなメディウムとは、対照的に。
「……え?」
メディウムの言葉を聞いたリューセイは。
ぽかん、とした表情をして、ぽつりと聞き返した。




