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第12話 越えるな




夜は深く、静かだった。

世界樹の居所。

メディウムの部屋。

その隣、客室の窓辺に、リューセイは立っていた。

本当は、自室に帰るつもりだった。

しかし、話し込んでいるうちに、いつの間にか寝入ったルチェに。

服の袖を掴まれていて、身動きができなかった。


「あらあら。申し訳ないけどリューセイくん。今日は泊まっていってね?」

「……っ……」


メディウムのにっこりとした笑顔(きょうせい)に、頷かざるを得なかった。

森は眠っている。

風だけが、葉を揺らしていた。

胸の奥が、まだ落ち着かない。


(……さっきの)


琥珀の光。小さな手。


——「おにいちゃん、いるってわかった!」


思い出すと、胸の奥がまた震える。

リューセイは小さく息を吐いた。


「……なんなんだよ」


あの、不思議な感覚。

胸の奥に残る、引力のようなもの。

まるで、呼び合っているかのような。


(……向こう)


空の裂け目の向こう。

この世界ではない、もう一つの場所。

蒼い、樫の大樹。石造りの街並み。

他種族が、共存する、国。


「…………」


リューセイは、ゆっくりと手を上げた。

何もない空間。

だが、そこに。

薄く。

かすかに。

空気の歪みが生まれる。


(……やっぱり)


まだ、完全には閉じていない。

押し戻しに行ってはいないのだから、当然だが。


空の裂け目。

森の歪み。

あれは、ただの現象じゃない。


世界が、境界がーー、綻び始めている証。


そして、多分。


(……俺なら)


越えられる。

リューセイの指先が、歪みに触れかける。

その瞬間。


「……っ?!」


胸の奥が、強く震えた。

ドクン、っと心臓が高鳴る。

何処からかーー、低い声が響く。


『越えるな』


リューセイの動きが止まった。


「……!」


今の声。

聞き覚えがある。

深く、落ち着いたその声。


——あの時見えた人。


視線を走らせる。

ーー違う。

本人じゃない。

部屋には……、誰もいない。


それでも、声は確かにそこにあった。


『越えるな』


二度目の声。

今度は、少し近くで。

リューセイは、歪みからそっと手を引いた。

もやが、晴れるように。

見えていた歪みは霧散した。


「……「向こう側」の、エルフ……」


小さく呟く。


記憶。

魔力の残滓。


それとも。

世界樹に残った声、なのか。


わからない。

だが、確かにあの男の声だった。


『ーー越えるな』


三度目の声。

今度は、ほんの少しだけ違った。

静かだが。

そこに、わずかな重さがある。

まるで。


——止めているような。


その瞬間。

リューセイの耳に不協和音が響いた。

境界が閉じたわけではない。

それは感覚で感じる。

だが、何か。


拒まれたような気がした。


「……なんだよ、それ」


リューセイは舌打ちする。


越えるな?


何を。

どこを。


リューセイは窓の外を見る。

世界樹の枝が、夜の中に広がっている。


(……知っているくせに)


世界の綻び。

境界の歪み。


そして。

自分でもわからない、自分の力。

全部。

あの男は、きっと知っている。


なのに。

理由は言わない。

ただ。


「越えるな」


それだけを残す。

その時だった。

胸の奥に、もう一つの感覚が浮かぶ。


古い、ふるい、記憶。


幼い頃。

低い声。

だが、優しい声。


——『境界には触れるな』

——『まだ早い』

——『越えたら』


そこまで思い出しかけて。

記憶は途切れた。

まるで、意図的に消されたかのように。

リューセイは眉をひそめた。


(……なんだ?)


今のは。

ただの記憶じゃない。

あの、言葉。


「越えたら——」


胸騒ぎがする。

続きがあったはずだ。

息が、うまく吸えない。

……思い出せない。


その時。

傍で、ベッドが僅かに軋む音がした。

リューセイがはっ、と振り向く。


琥珀の瞳が、闇間につやりと光った。

ルチェだった。


「……おにいちゃん」


小さな声。

リューセイは目を細めた。


「なんだ」


ルチェはベッドから飛び降りて、パタパタと駆け寄る。

ルチェの腕のブレスレット。

琥珀の石が、かすかに光っている。

ルチェは、リューセイを不安そうに見上げた。


「……おにいちゃん」

「……なんだ」


ルチェは、少しだけ考えてから言った。


「さっきね」


小さな胸に、手を当てる。


「ここ……、こわかった」


リューセイの視線が動く。


「……怖い?」


ルチェはこっくりと頷いた。


「おにいちゃん、……どっかいきそうだった」


キラキラと、光を反射して。

小さな粒が絨毯に落ちる。

沈黙が落ちた。

息が詰まる。

夜の風が、窓を揺らす。

ルチェはリューセイにしがみついて、小さく言う。


「……いかないで」


リューセイは答えない。

ただ、しばらくルチェを見ていた。

鼓動が、する。

琥珀の光。温かい。

あの共鳴と同じ。

心音が、重なる。

そして。

胸の奥に、残る声。


——越えるな。


リューセイはゆっくり息を吐いた。

ルチェの頭に、そっと手を置く。


「いかない」


ルチェの指が、少しだけ強さを増す。

涙に濡れたその顔が、ぱっと明るくなる。


「ほんと?」

「ああ」


リューセイは窓の外を見る。

夜の森。

静かな闇。


境界は、まだそこにある。

越えることはできる。多分。


だが。

胸の奥に残る声がある。


——越えるな。


理由は、まだわからない。

だが。

リューセイは小さく呟いた。


「……越えない」


琥珀の石が、柔らかく光った。


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