第二章 表の世界〈心のケアと『はじまり』〉
Ⅰ
声が聞こえた。
青年――コトは振り返る。現実世界のある場所、誰もいない場所で目的をもって振り返ったのだ。
誰かに呼ばれた、そんな気がしたのだ。自分を求めて、助けを求めて声にならない声を上げている人がいる気がした。
コトは「そっかー」と間延びした声を出しながらふわりと笑った。春の温かいそよ風のような、冬の中で差し込む日差しのような温かさ。ほわほわと、ぽかぽかと。音をあてるならそんな音が聞こえてきそうだった。
コトは笑う。だが、その笑い方は誰かを馬鹿にするようなものではなく、誰かをなだめるようなものであった。
「誰かが苦しんでいるんだねー。理解して貰えなくて、助けを求めたくても求められなくて。そして、自分を責めてしまっているところもあるのかなー。それは、辛いね」
コトはゆっくりと悲しそうに瞳を伏せた。自分のことのように泣きそうな顔をして、それからすべてを受け止めるかのように悟った顔をする。そして、ゆっくりと空を見上げた。
時刻は夕暮れ。そろそろ逢魔が時も迫ってきている。不安になりやすく、嫌なことも思い出しやすい時刻が始まろうとしていた。
コトはふむと頷いて。
「さーて、どうしようかなあ。動かないと彼に怒られてしまうんだけど。動くことは動くとしても、時と場合と状況がねー」
コトは一人でしばらくふむふむと考えて。それからぽんと手を打った。
「少し様子を見てからにしようかなー。けど、大事なことはしておかなくちゃねー」
どこか気が抜けていて。でも、どこか楽観的で。どこか間の抜けている声が誰もいない路地に響いた。
静かな空間は声が響きやすい。ささいな声でも、遠くまで響いていく。
コトは肩にかけていたナップサックの中をごそごそと手探りで物を探す。お目当てのものが手に当たると、瞳を子どものようにきらきらと輝かせてから。
「じゃーん」
誰にともなく見せびらかした。誰もいないのに見せびらかすのも変な話だが、それでも見せびらかしていたのである。
コトはくるくると指先で回す。そして、しっかりと手のひらに収めた。
手の中には一本の万年筆が収められていた。漆黒のそれはいかにも高級そうで、夕焼けの光を浴びて輝きを放つ。夕焼けによって、オレンジに染まる姿は、何か特別な力を宿しているかのようであった。
だが、その万年筆の中に収められているインクの色は、持ち主のコト本人しか知ることはない。
コトは万年筆を愛おしそうに見つめて。
「大事な印だけはしっかりとつけておかなくちゃねー。僕が見落としてしまうことがないように」
コトはそう言って万年筆のキャップを勢いよく外す。ポンと景気の良い音がしていた。
そして、文字を書くわけではなく、空にインクを散りばめるかのように振る。
まるで魔法をかけるかのように――。
「書く」ための万年筆を、魔法の杖のように振る。インクは散りばめるかのように、ただ地面に落ちることはなく、空から落ちる流れ星のように儚く消えていった。
コトはそれを見届けると、にっこりと笑って。
「よーし、僕も動こうっとー」
コトは万年筆を大事にしまうと、軽快なリズムで歩き出す。その足は目的をもって、それでも軽く、前に進んでいくのであった。
Ⅱ
ところ変わって、現実世界のある場所で――。
七草呼音里は普段から否定的な考え方をする。それは幼いころからの環境だったり、消極的な性格だったり、それらが理由であった。
自分が悪い。
何をしてもできない。
身内は褒められるのに。
できないのは、全部全部自分がダメなのだ。
そう思って、自分を自分で追い込んで、殻に閉じこもってしまうのである。一度心情が落ちてしまえば、底なし沼のように、どこまでも深く深く自分を際限なく追い込んでしまう。
三歩進んで、二歩下がる。それどころか、マイナスになって進んだ道を戻ってしまっているかもしれない、そう思うことも多々あった。
彼女には姉と妹が一人ずついたが、どちらもよくできる、いわゆる「優等生」というタイプだった。二人との仲は悪くなかったものの、両親に言われる言葉は決まっていた。
『お姉ちゃんを見習いなさい』
『お姉ちゃんでしょ。手本になりなさい』
『どうしてあなただけできないの』
どうしろというのだ、そんなことを何度も思った。
常日頃からそう思うことが多かった。
姉妹の真ん中、その立場ということもあり、余計に板挟みに感じてしまっていた。
苦しくて、辛くて、悩みしかなくて。
自分ができないのだと、自分が悪いのだと、そうとしか思うことができなくて。
自分に自信が持てなかった。
誰かと常に比べられて、自分のことを認めてもらったことなんてない気がして、自分のことを分かってもらうことなんてできないと思ってしまう。
楽観的な考え方ができる人がうらやましい。
前向きに物事を捉えることができる人を見習いたい。
そうは思うのに、どれも最初から自分にはできないと、そう思ってしまうのだ。
そんな自分が酷く嫌で、酷く無様で、酷くダメな存在だと思ってしまっていたのであった――。
それはプライベートだけではなく、職場でもそうだった。
次々と昇進していく同僚たちと比べて、自分は何も変わらず。
毎年次々と入ってくる後輩たち。彼らも実績を積み上げていくのを見ていると、どうしても自分が劣っている存在だと思ってしまって。
誰かに何かを言われたわけではない。馬鹿にされたことも一度もなかった。
それでも、勝手に落ち込んでしまっている自分がいた。
卑屈になって、不安になって、自分をひたすらに追い込んで。
ああ、どうして自分はこうなのだろうか。
思ったって仕方のないことを、何度も思ってしまっているのであった。
呼音里はとぼとぼと仕事帰りの道を歩いていた。
一人暮らしのアパートまでの道のりがやけに長く、遠く感じてしまった。
長く重たい道をゆっくりと進んでいれば、急いでいる人間に舌打ちされてしまった。ぶつかられることはなかったものの、早く帰りたかったのだろう。そのために、ゆっくりとほとんど進んでいないような自分が邪魔に感じたのかもしれない。
泣きたくなるのを堪えて、またとぼとぼと歩く。どうしても、足の速さは重たくなる一方だった。
その時であった。
「――見つけた」
とんと軽い音がした。柔らかいボールが落ちるような、誰かが跳ねるかのようなそんな音。思わず音の方向を振り向こうとすれば、隣に誰かがふわりと降り立った。
大きな音は一切なく、一瞬天使でも舞い降りたのかと錯覚してしまった。
驚愕に目を見開いていれば、隣に立っていたのは綺麗という言葉がしっくりくる優しそうな男性が立っていて。にこりとも、ふわりとも言えそうな笑みを讃えて髪をたなびかせていた。降り立ったことによって、髪が舞っていたのだろう。
呼音里が固まっていれば、男性は左手を振りながら右手を呼音里の左肩に置き、温かな声をかけてくる。固まった氷を解かすようなそんな声だった。
「お疲れ様ー。やけに足取りが重たそうだねー、僕で良ければ話を聞くよ?」
ついぽかんと呆気に取られていたが、ハッと我に返ると逆に問い返す。
「……だ、誰⁉」
思わず叫ぶように返してしまった。しまったと思うものの、あとの祭りで。
だが、男性はきょとりとするだけで。怒ることもなく、ただ苦笑するだけであった。
まるで、自分がやってしまったと後悔するかのように。
「あー、忘れていた―」
先ほどから間の抜けた声ばかりが口から出てくる。そんな話し方が癖となっているのかもしれなかった。男性はたはーっと間の抜けた声を次いで出すと、それから参ったとばかりに頭を搔いた。そして、ぽつりと「いつも言われるんだよねえ」と零しながら呼音里のほうへと視線を向けて。
「ごめんねー、まずは自己紹介から、だね。僕はコト。君の心の声に導かれてここまで来たんだー」
「……こ、と?」
「うん、良い名前でしょー? 僕は気に入っているんだけど、相棒には文句言われるんだー。それはさておき」
コトは両手で何かを置くような動作をしてから、またふわりと笑って。
「君の名前も、聞いて良いかな?」
「……呼音里、です」
警戒しながらも、何故かは分からないがこの人なら名乗っても大丈夫だと思ってしまった。呼音里がぽつりと小さな声で名乗れば、青年は一瞬目を丸くしてからにこりと笑って。
「僕の名前と響きが似てるー。そんなことあるんだー。どういう字を書くのー?」
呼音里は文字の説明を問われるがままに一つずつ説明する。
青年はうんうんと頷きながら聞いてくれ、それから笑った。冬の陽だまりのようで、春の日差しのような温かさを含んでいた。
「へー、良い名前だね。優しそうな子だなあとは思っていたんだー。……けど、」
コトは一度言葉を区切ると、呼音里の顔を覗き込む。
思わず近くなった青年の顔から仰け反るように顔を引くが、コトは気にしていないようで。
じっと呼音里の顔を見ていたと思えば、今度は悲しそうに顔を歪めた。そして、ぽつりと呟くように告げる。先ほどまでの間の抜けた話し方ではなかった。
「……きみは、きみ自身には優しくなさそうだ」
「わ、たし……自身?」
意味深な言い方だと思った。呼音里が誰かに優しいことは確信を持っていて、けれど自分に対してはそうではないと不安そうな言い方で。どこか心配しているような言い方でもある、そう感じ取っていた。だが、何故そんな言い方をこの青年がするのかよく分からずに、呼音里は首を傾げてしまった。
コトは何も不思議に思わないようで、ただ頷くだけであった。
「うん、きみはきみ追い詰めている。きみ自身が本当はきみに優しくしてあげないといけないというのに。きみがそのことに気が付いているのかなーって」
「……」
呼音里は顔を俯かせた。
図星だった。青年とは初めて会った。今日が初対面のはずであった。なのに、すべて見透かされているような気がして、彼の瞳を見ることができそうになかった。
そんな呼音里に対して、コトはさらに言葉を紡ぐ。
「大丈夫だよ、その――」
それが、その言葉が、呼音里の中で引き金となった。カッと顔に熱が集まる。
「簡単に『大丈夫だ』なんて言わないでっ!」
見ず知らずの彼の言葉を遮って、呼音里は叫ぶように言葉を放っていた。
皆、簡単に「大丈夫」だと告げる。
その「大丈夫」と言う言葉で安心できる者もいれば、安心できない者もいるのだ。
何が「大丈夫」なのか、分からない。
何の根拠もないのに、何故「大丈夫」なんて言えるのだろう。
その言葉を信用して、自分が辛くなるかもしれない。
本当に信用して良いのか、分からない。
不安、疑い、不信……。
相手が善意で言ってくれていることなど理解している。頭では分かっているのだ、痛いほどに。
だが、他人にいくら言われても、何故かどこか安心することはできなかった。
それが、いつもぐるぐると自分の中で回って、けどそれを伝えたところで何も変わらないと、諦めてしまう――。
そこで呼音里はハッとした。
他人に感情のままに怒ってしまったと、今さらながらに後悔する。
これは相手から怒られたとしても文句の一つも言えない。平謝りするしかないだろう。それで許してもらえるかも、相手が聞き入れてくれるかも分からないが。
荒事になる前に、そう思って口を開こうとするが、青年の顔を見て呼音里は何も言えなくなってしまった。
青年が困ったようにへにゃりと笑ったのだ。そして、「そうだね、」と零す。
「簡単に『大丈夫』と言ってはいけなかったね」
「……え」
呼音里は驚いてしまった。怒られるどころか、納得されてしまったのだ。口から零れた言葉は、それが精一杯だった。
目の前の青年は気にすることなく続ける。
「僕としたことが、忘れていたよー」
「何回やるんだろうね、このくだり」と続けてから青年は自嘲するように笑って頭を掻いていた。
「そうだね、『大丈夫』のっ言葉で安心する人もいれば、そうじゃない人もいるんだもんね」
「……っ」
理解された、その言葉が疑問となって呼音里の中に残る。思わず息を呑んでいた。目頭が熱くなってきているのを、頭の片隅で理解する。
コトは気にすることなく続ける。
「言葉って難しいね。きっと、相棒もSNSで頑張っているんだろうけど、現実でもこれだけ難しいんだもんなあ。向こうのほうが大変そうー」
「……へ?」
呼音里は青年の言葉が理解できなくなってしまった。思わず疑問の言葉が口から出てくる。
だが、コトはにこりと笑って。
「ごめん、こっちの話ー。……けど、」
コトは一度謝罪して言葉を区切ると、再度呼音里の顔を覗き込む。そして、ふわりと笑ってから安心させるように告げた。
「もう一度、きちんと話をさせてくれないかな? 僕はきみの話を聞きたいんだ。単純な一言で終わらせるんじゃなくて、その心のケアを行いたいんだよ」
「……っ!」
ああ、だめだ。呼音里の頭の中でそう言葉が繰り返される。この青年がダメなんじゃない、自分が決壊しそうでダメなのだと理解していた。
コトはゆっくりと呼音里の手を取って両手で握る。体温を分け合うかのように、凍った心を解かすかのように、ゆっくりと、熱を伝えさせてくれて。
「きみは酷く傷ついて殻に閉じこもっているようだからね。蓄積された感情が、どうにもならない激流のように渦巻いている。けれど、それは一度たりとも放出されることがない。……きみはとても苦しそうで、辛そうで、そして痛そうだ。心も、精神も。奥底でさらに蓋をして、押し殺して、そうやって耐えて自分を守ってきたんだろうね」
コトの言葉はすんなりと呼音里の中に入ってくる。
言ってほしい。分かってほしい。共感してほしい。助けてほしい。
そう願ってきた、ずっと、ずっと――。
けれど、それが実現することはなかった。だから、諦めるしかなかった。
そんな呼音里の心にゆっくりと、コトの言葉は浸透していく。
瞳から雫が零れそうになるのをぐっと堪える。下唇を噛んで、俯いて、奥歯を噛みしめて。
そして、ぐっと耐える呼音里に、コトはさらに言葉を紡いだ。
春の穏やかな温かいそよ風のように、冬の短くも温かい日差しのように。
心を、固くなった鎖で強く縛られている気持ちを、ゆっくりと解いていく――。
「身内には話せなくても、他人には話せることもあるでしょう? 君を救う手助けをさせてほしい。きみが、きみらしく人生を歩めるように」
ついに、呼音里の瞳からぽろぽろと涙が零れ始めた。次第に嗚咽が大きくなって、鳴き声が辺りに響き渡っていった。
コトは急かすことなく呼音里が落ち着くのをゆっくりと待つのであった。
Ⅲ
呼音里が落ち着き始めてきたところで、場所を変えることにした。近くの公園のベンチに二人は並んで座る。ぴったりとくっつくことはなかったものの、それでも彼らはその場所がなぜか安心するような気がした。
さすがに遅い時間だ、辺りが暗くなっている。人通りがほとんどないのは話しやすいところであったが、逆に目立ちそうだと思ってしまう。昼間は子どもの賑やかな声で満たされているから余計にそう思うのかもしれなかった。
時折通るのは犬の散歩をしている人か、もしくは会社帰りで疲れた顔をして帰路に着いている人ぐらいであった。おそらく、後者のほうが多かったことだろう。
コトは前を見て何から話そうかと思案する。隣からはちらちらと視線を送られてきていた。彼女もだいぶ落ち着いてきたらしい。コトのことを気にする余裕が出てきたのだろう。それでも、彼女のほうから何か言葉を発することはなかった。
さーて、何から話そうかなあ。
毎度このタイミングだけは難しく感じた。話の切り出し方は人それぞれだと思うが、特に深刻な話は切り出しにくい人が多いだろう。コトも毎回このタイミングだけは慣れなかった。いくら普段から間の抜けた話し方をするとは言っても、さてなんて気軽に話せる内容でもない。
コトはこういう雰囲気が嫌いだ。深刻な話ほど人間は語りにくいから、嫌いなのだ。さらに言えばそういう話に限って、人間は暴走しがちだ。
だが、おそらく彼女は暴走はしないだろうとコトは確信を持った推測をしていた。
どちらかと言えば、抵抗なく話をしてもらえるかどうかの心配のほうが強い。
……この子は、きっと口を閉ざすことが、言葉を飲み込むことが当たり前となっているんだ。
コトはそれをこの短時間で痛いほど理解していた。過去に何度かこういう人間に出会ったことがあるからだった。
分かってもらえないからと、言葉を飲み込む。
言ったって変わらないからと、諦めてしまう。
他人に迷惑をかけるからと、口を噤む。
そして、彼らは壊れていく。我慢をし過ぎたことによって、溜め込んだことによって。
彼らの身体が、彼らの精神が、彼らの心が自らの手で壊れてしまうのだ――。
それだけは、防がないとねー。
コトはうんと自分に言い聞かせるように頷いた。
きっと、今頃相棒も頑張っている頃だろう。
現実世界は自分が、仮想世界は彼が。そう決めた役割は、きっちりと果たさなくてはいけない。
大きな影響が、出る前に――。
そろそろ、話をしても良いかな……。
コトが視線をちらりと向けてみれば、女性は鼻をすするぐらいには落ち着いていた。止まることがないのではないかと心配になるぐらいに出ていた雫は止まり、大きな嗚咽は聞こえなくなっていた。目元が赤井のは公園の照明によって分かるものの、新たな真珠が生まれることはなさそうである。
コトは柔らかく笑って、普段の間の抜けた声で話しかける。
「話をしても、良いー?」
「……はい」
小さくとも返事は耳に届いた。
コトは一つ安心できた。そして、口を開く。
「じゃあー、改めて。僕はコト。心のケアが必要な人の元に行くようにしているんだ。心の魔法使いと思ってくれれば良いかなあ」
「あ、の……、コトって、海外の人?」
唐突に聞かれて一瞬きょとんとするものの、コトは「んー……」と悩んでからたはーっと笑う。
「そうでもあるし、そうでもないかなあ」
コトはほわほわと肯定も否定もした。
呼音里と名乗った女性は首を傾げて、目線でよく分からないと告げてくる。
コトはそれがおかしくて、かわいくて、ついつい口元が緩んでしまった。
「気にしなくて良いよー。ただ、どっちかってことはないってことかなあ」
「よく、分からないです……」
「だよねー」
コトは肯定しつつ、「気にしなーい、気にしな―い」と次いで笑った。
ここに彼の相棒がいれば、「こいつのことはいいんだよ」と簡単に一蹴したことだろうが、コトはそういう態度をとることがなかった。
心のケアが必要なんだから、そしておかないとねー。まあ、それに僕は争いを好まないタイプだしー。
コトはそう思いつつ、うんうんと頷く。
対して、そんな様子のコトを見て、女性はさらに首を傾げた。
コトはそれに気がついてふわりと笑う。
「気にしなくて良いよー。さて、君の名前をもう一度聞いても良いかな?」
「呼音里……、七草呼音里、です……。えっと……」
「うん、ゆっくり、話したいことを話してくれるかな? きみはずっと息が詰まりそうな顔をしているから」
コトがそう言えば、呼音里は顔を俯かせてしばらく黙り込んだ。何から話せば良いのか、そもそも何を話したら良いのか、理解できていないのかもしれない。もしくは、自分を落ち着かせたいと思っているのかもしれない。
コトはじっと待った。急かすこともなく、自分の言葉で紡ぐのでもなく。
ただ、沈黙が続いていれば、段々と話しにくくなっているようで。
その空気を察したコトは急にぽけーっとして。
「疲れたねえ」
と呟いた。
これには、呼音里も驚いて、何事かと目をぱちくりと瞬いて。
コトは呼音里を見ることなくぽけーっとしたまま。
「毎日毎日同じことをして、時には感情に振り回されて、辛くて苦しくて、我慢したくなくて。けど、それを周囲は許してくれない。自分のことを大事にしたくても、大事にできないよねー。気にしないって言う人もいるし、自分の生き方を強く持っている人もいるけれど、皆が皆そうじゃないしさあ」
コトの言葉に、呼音里が息を呑む音が聞こえてくる。だが、コトはそれに触れることなく、ただぽけーっと続けた。
「『十人十色』なんて言葉もあるし、性格なんて様々なわけで、どうにもならないしねー。性格を否定されたら特に自分のこと追い込んじゃうだろうし。……きみは、何を聞いてほしいと願うの?」
「わ、たしは……」
「あ、ごめん、急かしてはいないからねー。そう思えたっていうなら、ごめんねって話なんだけど。……ただねー、僕は沈黙が好きじゃなくてさ。誰かの声を聴くのを待っている間も、苦痛ではないんだよって言うのを分かってほしいなあって思うんだよ」
コトは身体を左右に揺らしながら、言葉を紡いでいく。時を刻む、振り子時計のようで、レトロノームのようであった。
のらりくらりと障害物を避けるように、波や風に揺られて流れに身を任せるかのように。
「沈黙って、悶々と嫌なことを考えちゃうでしょう? いつの間にか自分が悪いように錯覚して強く思い込んでしまうこともあるしー。だから、そう思わないでほしいなあって、僕はいつも思うんだよねー」
コトは終始柔らかい声音で語っていく。自分の思いを告げるだけのために。女性を追い込まないように気を付けながら。
だって、僕はそうしたいから。
コトはただそう思う。人が自分のことを責めなくなれば良い、と。自分に優しくなってほしい、と。
そして、自分が楽に生きられるようになってほしい、と――。
それは、コトの想いであり、傲慢で自分勝手な思いだ。
自分勝手な奴だと、お前の考えを押し付けるなと、言われてしまえばそれで終わりである。
だって、コトの一方的な想いなのだから。
だが、コトはそれでも良いと思っていた。
それは――。
だって、救済を求めている人が実際にいるわけだしー。
コトは万能じゃない。
全知全能の神様でもない。
それでも、コトはそうしたいと思っているのだ。
生み出した人間の、悲しく辛い助けの声に自分だけでも寄り添えるように。
それが、コトの願い。
「僕は、僕しかできないと思っているからさー、これに関しては」
そう、僕にしか、できない。
人間でもなく、何ものでもない、自分にしかできない。コトはそう思っているのだ。たとえ相棒だとしても、これにかんしてはできない。
人間を救済する、そう言えばたいそうなことかもしれない。けれど、コトはそうは思っていなかった。
大それたことなんて一つもしていない。
ただ、誰かが寄り添ってほしいと思うのなら、それは自分ができることだと思っているのだ。
コトはそう思っているからこそ、この女性にも歩み寄りたいと思っていた。
コトはふわりと笑いながら告げていく。
「大丈夫ー、って言ったら怒られちゃうかもしれないけど。皆、愚痴ぐらい誰でも言っているんだからー。吐き出していないと、自分がきついこともあるからさー。ほら、僕のことは壁ぐらいに思ってもらってー」
「壁って……」
呼音里が苦笑する。
だが、コトはのほほんと告げるだけだった。
「良いのー、良いのー。存在薄いなあぐらいがちょうど良いんだからー。気にしなーい、気にしなーい」
自分の存在は本当に気にしなくて良いのだ。彼女が軽くなることが先決だ。気持ちを吐き出して、荷が軽くなってほしい、それがコトの願い。
コトは持ち前の軽さでにこりと笑う。
「自分のペースで良いから。自分の溜め込んだものを吐き出そうー。きみがそうしたくないと言うのなら、無理にとは言わないけどねー」
コトがそう言えば、呼音里が顔を上げる。
「……本当に? なんでも、聞いてくれますか?」
「もちろん」
「……否定、しないですか?」
呼音里の問いかけに、コトは一瞬で理解した。
ああ、この子のリミッターはこれなんだ、と。
きっと、この子の中には強い思いがあるに違いない。
話しても無駄だ。主張しても否定される。それが、この子の中には強く定着しているのだろう、と。
コトはそれを理解してから悟られないように微笑んで。
「否定しないよ。だから、どうか僕に合わせて。きみが我慢してきたこと。きみの伝えたいこと。きみの本当の気持ちを」
コトがにこりと笑いながら顔を覗き込めば、呼音里は顔をくしゃりと歪めた。また涙が零れ落ちる。泣きじゃくりながらも、彼女はようやくゆっくりとだが話し始めた。
家のこと、環境のこと、板挟みに感じていたこと、職場のこと、自分がダメな人間だと思うこと……。彼女がずっと溜め込んでいたことを、彼女の言葉でゆっくりと時間をかけて語っていった。
コトはその間ずっと見守っていた。時折相槌を打ち、頷き、「ゆっくりで良いよ」と声をかけた。ただ、それ以外のことは口にすることはなかった。一つ一つ、話を丁寧に聞こうとするだけで、何か意見を言ったり感想を言ったりすることは一切しなかった。
呼音里がすべてを語り終えると、コトは「そっかー」と呟くだけだった。そして、頷きながら呼音里へと声をかける。
「難しいねー、その状況ー」
「うん……」
「板挟みも辛いし、同僚の出世も難しいところだよねー。……ちなみにさ、答えにくかったら良いんだけど、姉妹には何か言われたことある?」
「……姉妹は良くしてくれているんです。けど、」
「まー、気持ちは追いつかないよねー……。当然だよねー」
コトはふむふむと頷くだけであった。
これに驚いたのは、呼音里で。
「……それだけ?」
思わず口から問いが出たようであった。
対するコトは目を丸くする。「へ?」と呟いて、そして固まっていた。何を言われたのか理解できずにいた。
だが、徐々に理解してきて、「あー」と言葉を零してから説明する。
「うーんと、僕の場合はこれからが腕の見せ所、なんだよねー」
「これから……」
「だって、きみは『大丈夫』って言葉で安心できないんでしょう?」
コトの問いかけは図星だったようで、呼音里は戸惑いつつも、恐る恐る頷く。
コトはうんうんと頷いた。
「それは人間のパターンもあるから気にしなくて良いことだからねー」
「……そ、そうなの?」
「そうなのー。まあ、僕が今思い当たるとするなら……」
コトはうーんと考えてから指を一本ずつ立たせながら説明していく。
一つ目は、「大丈夫」と言ってもらったほうが安心する人。
二つ目、「大丈夫」と言われて逆に不安になる人。
三つ目、「大丈夫」と言われて疑問が湧く人。
四つ目、「大丈夫」と言われたら怒りの感情が湧いてくる人。
「つまり、『大丈夫』って言葉が今では万能になりすぎているんだよねー。ほら、何か聞かれても『大丈夫です』って答える人、結構増えているでしょう?」
「た、確かに……」
コトの説明に、呼音里は納得したようで頷いている。
コトはさらに続けた。
「だから『なんで大丈夫なの?』って思う人もいるし、『なんでそんな簡単に言うの!』って怒る気持ちもあるってことなんだよねー。あとは『本当に?』って疑いたくなる気持ち、とか。そう考えていけば、人に『大丈夫』って言われて安心する場合もあるし、不安になる場合もあるってことー」
「な、なるほど……。目から鱗、ですね」
「まあ、聞いていれば納得しやすいことではあるんだけどねー」
コトはのほほんと告げる。
そう、たいていの人間は聞けば納得するのだろう。ただ、納得はしてもそれに感情が追い付くかは別問題なのだ。
頭で理解したところで、心が納得するかは難しい話だ。
理解と納得はイコールではない。
だからこそ、コトは慎重になる必要があると思っている。一つ、ふむと頷いて。
「結局、僕が言いたいのは、君が誰の言葉をどう捉えてもおかしくはないってことー」
「そ、っか……、そう、なんだ……」
呼音里は少しだけど重たいものが落ちた顔をした。何か自分の中で重荷が取れたらしい。
だが、まだ足りない。
コトはそれを痛いほど理解していた。この子はまだすべてを吐き出せていない。それが終わらなければ、何も解決したことにはならない、と。
そう、根本的な解決をしなくては――。
コトはじっと女性を見てから、笑いかけて。
「ねー、少しだけ深堀させて欲しいんだー。……きみが、一番嫌なことって何?」
ビクリと女性が肩を強ばらす。そして、戸惑ったように「え……」とだけ言葉を零した。
コトは空を見上げながら普段通りに話しかける。
「答えたくないなら良いんだー。きみを追い詰めたいわけでもないし。ただ、きみが毎回同じことで悩まないと良いなあと思って」
コトが視線を逸らしたのはわざとだった。視線は時に凶器となり得る。優しく見ているつもりでも、それが相手からしたら鏡のように見えるかもしれないし、逆に追い詰められていると感じるかもしれない。
だから、コトはわざと空を見上げていた。
その姿を、女性がじっと見ていることには気がついていた。だが、コトは一度も視線を向けない。むしろ、前を向く姿を目に焼き付けて、彼女の中に一つの指標として刻んで欲しいと願った。
コトは何も言わずにただ見上げているだけだった。やがて、小さくか細い声が、耳に届く。
「……自分が、嫌い」
コトは思わず目を丸くしていた。その丸くした表情を見ているのは、真っ暗な空だけだった。
初めてだと思った、そう告げられたのは。
コトはゆっくりと目を細め、そして悲しそうに瞳を伏せる。
この子の中で、ずっと積もってきたのかな……。
不安が、疑問が、怒りが、否定が、悲しみが――。
ありとあらゆる感情に押し潰されて、やがてどこか諦めてしまったのかもしれない。
自分のことを許すことができなくなってしまったのかもしれない。
自分のことを嫌いになることしか、できなかったのかもしれない。
なら、僕だけは――。
コトは俯いている女性の顔を覗き込む。彼女の瞳に水晶が出来つつあるのは黙っておくことにした。
「……あのね、呼音里」
「え……」
初めてコトが名前を呼んだからか、彼女は顔を上げた。勢いよく上げた顔には確かに戸惑いがあって――その中にわずかな希望を抱いていることが滲み出ていた。
コトはにこりと微笑む。
「僕はね、自分のこと、好きでもあるし、嫌いでもあるんだよ」
呼音里は何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
コトはさらに続ける。
「僕がこうして誰かの話を聞くことは好きなところ。でも、沈黙は嫌いだから、ついつい話し過ぎちゃうんだよねー。いつも相棒に怒られちゃうんだー」
「お、こられるんだ……」
「相棒のほうが頭が良いし、僕よりいろいろと考えているし、凄いって思うんだー。それを見ると、僕はダメだなあってつい思うこともある」
「……」
「多分ね、自分の全部が好きな人って、なかなかいないんじゃないかなあって僕は思うんだー」
呼音里は沈黙する。何か思うところがあって、黙っているのかもしれない。言葉にしようにもして良いのか分からないのかもしれなかった。
コトはそれでも話を続けた。
「僕が出会ってきた人たちも、みーんなどこかしら自分の嫌いなところを言っていてね」
コトは頭の中で数々の出会いを振り返ってみる。
口調が嫌い、物わかりの悪いところが嫌い、すぐに怒ってしまうところが嫌い、態度に出やすいところが嫌い……。
そうやって、皆どこか自分の嫌いなところを述べていた。一つの人もいれば、二つ三つ、もしくは一〇個以上並べる人もいた。
それは、きっと――。
「きっと、そうやって自分のことが嫌いな人は、心が優しいんだよ。傷つきやすいほどに、ね。そう、呼音里、きっときみも」
「ち、が……」
呼音里は否定しようとした。
コトはそれを淡く微笑んで言わせない。儚く消えそうな笑みが、目の前の女性を黙らせるには十分だったのである。コトはすべてを受け止めようと、優しい笑みを讃えたままだった。
「だって、それだけ自分のことを許すことができないんでしょう? 自分のことを傷つけるのは良くないことだとは思うんだけど、誰かができることは自分でもやらなくちゃって包んでしまうんだろうね」
コトは子どもに言い聞かせるかのように優しく言葉を紡いでいく。
「誰かの言うことを素直に受け止めて、自分が変わらなくちゃいけないって思って、苦手なことでも行おうとして……。きっと、呼音里は優しくて、努力家で、何事にも一生懸命なんだよ」
「……っ!」
「自分の悪いところはよく目につくとは言うけれど、特にそれが目立っているのかもしれないね、呼音里の場合は」
コトはうんと頷きながら、再度空を見上げた。横から鼻をすする音がした気もしたが、それには触れなかった。
先日とは違って、星空だ。照明によって星はなかなか視界に映ってくれないものの、月の明るさだけははっきりと捉えられる。
「星も月によって照らされる。自分の力だけでは輝けない、それに僕たちの目に映っているよりも遥かに数は多いからね。誰かの存在が強いと、他の存在が霞むこともあるからさ。……もしかしたら、呼音里は月しか見えていないのかもね」
「月だけ……」
呼音里はその言葉の意味が分からなかったらしい。首を傾げてしまっている。
コトはにこりと笑って。
「一番目につくところしか見えていないんだよ。きみの良いところが本当はたくさんあるはずなのに、大きな悪いところばかり見てしまっているんだと思う。それを、まずはどうにかしないとね」
コトはわらって、懐を探る。そして、目的のものを見つけると「じゃじゃーん」と高らかに告げながら掲げて見せる。
それは、彼の愛用の万年筆で。
「それ、は……」
呼音里は理解できないことが立て続けに起きているからか、頭の上に疑問をたくさん飛ばしているようだった。
コトはふわりと笑って。
「お守り、書いてあげる。きみが今後、もっと楽しく生きられるように」
コトはおもむろに女性の手を取ると、その手のひらにさらさらと書いていく。手のひらにペン先を走らせても、女性は顔色一つ変えずに、しかも手を引っ込めることもなかった。
まるで、何も感覚がないかのように――。
呼音里が静かに目を見開く中、コトは書き終わると万年筆を魔法の杖のように振る。すると、その言葉は呼音里の心の中へと飛び込んでいった。
「きっと、きみがこれから前を向けるようになるから」
コトがそう言えば、呼音里の心がゆっくりと温かくなって。
しばらくして、彼女は意識を失っていたのであった――。
Ⅳ
数日経ったある日、旅を再開していたコトは何かに気が付いて空を見上げる。本日は雲一つない青空であった。
「……うん、大丈夫そうー」
彼女が前を向けたことを察したのだ。穏やかな笑みを讃えて足を止める。
「……『星には月が必要だから。きみは月にならなくて良い、きみがきみとして誇れる小さくとも輝く星となるように』、うん、我ながら良い感じー」
コトはのほほんと告げながら、愛用の万年筆を取り出す。
その中に満たされているのは、「1912M45はじまり」と呼ばれるインク。その名前が新たな始まりを意味しているようで、コトはこのインクを愛用し、そして始まりを祝福するために出会った者にお守りとして一言必ず書き残している。
その言葉を贈られた者は、自身が意図していなくとも小さな力を引き起こして少しずつ変化をしていくのだ。
だが、本人は気が付くことがない。
コトはそれで良いと思っている。自分の力はただサポートするだけのもの。相棒のように強い力なんて持っていない。物に頼らないと、自分は誰かに寄り添えない。
それでも――。
「……誰の何がその人のきっかけになるかは誰にも分からないけど、ちゃんと前を向いて歩いていく力があるんだもんね、人間は」
だったら、その背中を押すだけの存在で良いのだ、自分は。
コトは万年筆を大事に両手で握って願うように瞳を伏せてから、大事に懐にしまって歩き始める。
まだ心が泣いている人はたくさんいる。コトの手だけでは、助けきれないほどに。
それでも、コトは歩いて、寄り添いに行く。自分だけはそんな存在になりたいと思っているから。
歩き始めて、空を見上げて。
「……相棒はどうしているかなあ。そろそろ会いに行こうかなー」
相棒も頑張っているのだろう、そう思いを馳せてスキップをしそうなほど軽い足で前へと進んでいく。
コトの「はじまり」は、まだ終わりを知らない――。




